わ鐵線紀行(17)上神梅散策 その1

この上神梅(かみかんばい)には、深沢宿と呼ばれる銅街道(あかがね-)の宿場があった。駅からの急坂を登り、国道122号線を横断した山側に、旧宿場の集落がある。国道から分岐した小さな坂を登り、行ってみよう。


(国道から深沢宿への坂道。駅や国道よりも、高い場所にある。)

国道と駅を見下ろす坂をグングンと登って行くと、上神梅駅も大分下に見える。坂を登り切ると、南北方向の緩やかな長い上り坂が真っ直ぐに伸びており、民家がポツンポツンと並んでいる。なお、花輪宿と同様に、足尾方が上町(上宿)、江戸方が下町(下宿)になっている。


(坂上から、上神梅駅と市営神梅団地を望む。かなりの高低差がある。)

(江戸方の深沢下宿バス停付近。旧道であるが、バス通りである。)

なお、この道が本来の銅街道であり、手作りの案内標識も設置されている。現在の国道122号線は、草木ダム建設時に整備された新道である。わたらせ渓谷鐡道乗車時に同席した地元年配女性の話によると、国道も元は県道であり、車のすれ違いも出来無い程に道幅が狭く、クネクネと曲がった険しい道を、路線バスが何とか走っていたと言う。なお、今、登って来た国道に連絡する坂は、旧街道ではなく、旧・神梅小学校の方に行く山側の小道が、旧街道になっている。


(旧銅街道の深沢宿。)

真っ直ぐに伸びる旧深沢宿を、北に歩いて行く【カメラマーカー】。標高は約270m、東が広く開けている山裾のなだらかな台形状になっており、駅から50m程高い場所にある。渡良瀬川の辺りでないのは、水害を防ぐ為であろう。


(国土地理院国土電子Web・深沢宿。)

残念ながら、宿場町の面影は無くなっており、緑の多い閑静な住宅地になっている。敷地の広い、大きな家が多く、かつての宿場町の賑わいを感じさせる。

この深沢宿は、市場町として栄えた大間々(おおまま)の北側の入口にあり、旅人達が一服したり、宿泊をした。また、赤城山北麓を迂回し、沼田街道(※)へ抜ける根利道(ねりみち/現・県道62号線)の分岐地点でもあり、物資の集散地として賑わったと言う。また、元々、山の上の方の台地に宿場があったが、銅街道の整備後、ここに移転した新宿(あらじゅく)になっている。正光寺と長命寺のふたつの寺院もあったが、共に廃寺となっている。


(深沢宿内。山の中と思えない程、穏やかな地形である。)

緩やかな長い登り坂を暫く登って行くと、石碑が立ち並んでいる。丁度、深沢公民館がある一角【石碑マーカー】になる。


(公民館前の庚申塔と石仏群。)

(小さな庚申塔や石仏も、ずらりと並ぶ。)

(変わった形の庚申塔や、みどり市が設置した観光案内板がある。)

庚申塔(こうしんとう)の石塔がずらりと並び、かなり大きなものもある。庚申信仰とは、江戸時代に特に盛んであった民俗信仰のひとつであり、庶民に医学が発達していなかった時代の延命長寿の信仰である。

中国の道教に由来し、人間の体内には、生まれながらに三匹の虫「三尸(さんし)」がいると考えられていた。六十日に一度の庚申の日に眠ると、三尸が体から抜け出し、地獄の閻魔大王にその人間の罪悪を告げ、寿命を縮めると信じられていた。それを防ぐ為、庚申の日には、集落の夜通し宴会「庚申待」が行われ、その三年十八回の記念に石碑や石仏が建立された。なお、「庚申(塔・講)」の文字と建立年のみの庚申塔が多いが、庚申講の本尊である青面金剛(しょうめんこんごう)の文字や仏像、猿や鶏等の彫刻が施されている場合もある。


(三猿と向かい合わせの二羽の鶏が、台座に彫刻されている。)

南側から二番目の庚申塔台座には、猿三匹と向かい合った鶏二羽が彫刻されている。所謂、「猿」に韻を踏む「云わざる、聞かざる、見えざる」である。これは、仏教の青面金剛(夜叉神)、帝釈天や日本古来の神・猿田彦神の「猿」が、時代が下がるに従って習合した。また、鶏は朝一番に鳴く事から、夜の邪気や悪霊の類を払うと考えられており、庚申待の終了の合図でもあった。

しかし、明治政府は庚申信仰を迷信として、庚申塔を撤去した事や、近代医学の発達により、庚申信仰は大正時代に廃れた。その後の道路整備や宅地開発等の際、庚申塔が投棄される場合も多く、この様に一箇所にまとめて移設保存されているのは、幸運な方である。

一番北側には、レリーフ付きの立派な平板石碑もある。これも庚申講関連と思われ、月と太陽の下、人が手を合わせ、鶏らしいものに祈っている。刻印は風化していて読み難いが、左下に「寛文十二」と刻まれており、西暦1672年の江戸時代初期・四代将軍徳川家綱(-いえつな)の頃のものらしい。

また、下段の漢文中には、「・・・為供養也」の文字も、かろうじて読める。
何かの供養も兼ね、建立されたと考えられる。


(300年以上も経過している平板石碑。)

石碑群前から、更に北に歩いて行こう。通りには用水路もあるが、水は殆ど枯れている。


(深沢宿の用水路。)

約350m先の突き当りの最奥部に共同墓地があり、手前の辻を曲がると、山の上方に行く旧道が続いている。辻脇には、ふたつの大きな庚申塔と石祠【赤色マーカー】が建っている。


(辻横の大きな庚申塔。)

宿場を見下ろすこの場所に、小さな石祠がある。天王宮(てんのうぐう)の扁額が彫られており、疫病や邪気が入るのを防ぎ、往来の安全祈願の為に建立されたらしい。祠の台座には、「文化七」と刻印されており、江戸時代後期の西暦1810年建立のものである。

なお、この天王宮は、京都八坂神社(祇園社)の祭神である牛頭天王を祀っていたと考えられる。疫病を払う習合神であるが、明治政府の神仏分離・廃仏毀釈が厳しかった。


(深沢宿上宿の天王宮石祠。中は、空っぽであった。)

(台座の刻印。正面台座に「村中」とあり、「村中安全氏子中」の略と思われる。)

この付近は、上宿と呼ばれ、深沢宿の最北端になる。宿場の長さは、約750mと長く、40m近い高低差がある。

(つづく)


(※沼田街道)
群馬県の沼田から、尾瀬を経由し、福島県の会津若松に至る旧街道。江戸時代は、交通量も多く、重要な街道のひとつであった。会津街道とも言う。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
みどり市公式HP「歴史・文化財」

深沢宿は追加取材時の訪問。
リコーGRD4で撮影の為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。

2017年8月11日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年8月11日 文章修正・音声自動読み上げ校正

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