天浜線紀行(31)気賀関所 後編

本番所の手前、屋内の鴨居や床の間には、違反者や関所破りを取り押さえる三ツ道具、槍、弓や鉄砲も立て掛けられている。前庭に並ぶ三ツ道具は、左から、刺股(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)になる。刺股は股に差し込んで引き倒し、突棒は背後から突き飛ばし、袖搦は着物の袖にねじり込んで引き倒す。実際には、逃亡者が殆どいなかった為、使われる事は滅多に無かった。関所の象徴や、旅人へ畏怖の念を抱かせる目的の方が主であったという。


(関所の三ツ道具。刺股・突棒・袖搦が並ぶ。)

(槍立て。)

本番所向かいの南側には、向番所(むかいばんしょ)があり、女改め(おんなあらため)の部屋がある。また、関所に勤務している足軽や門番達の詰所兼休憩場でもあり、張番所(はりばんしょ)とも呼ばれる。

江戸幕府は、諸国大名の妻子を人質として江戸に住まわせていた。その妻子が勝手に国元に帰る事を警戒した為、江戸から地方に向かう女旅人は、特に厳しく取り締まったという。女改めの担当者は、関所役人の母親や妻・通称「改め婆」が担当し、通行手形の記載事項や印影を入念に調べた。


(向番所の女改めの部屋。)

向番屋の奥の土間には、木造の牢屋もある。指名手配されている犯罪者や重大な違反者が、収容されたのであろう。意外にも、関所に牢屋があるのは、珍しいという。


(土間に設置された牢屋。)

向番所の南隣には、見張り台の遠見番屋があり、登る事が出来る。元々は、二階に警鐘が設置され、一階は大砲の格納庫になっていた。なお、手前にある小屋は、当時の一般身分者用の下雪隠(厠/トイレ)で、身分の高い者用は本番所の中に畳敷きの雪隠がある。


(遠見番屋。)

(遠見番屋からの眺めと下雪隠。)

この大きな天水桶と手桶の山も、良く時代劇に出てくる光景で面白い。当時の防火用水置き場になっており、向番所の並びにある。


(天水桶。)

敷地の西に、姫様館(ひめさまやかた)と呼ばれる資料館も併設している。春の町イベント「姫様道中」に使用する籠(昭和62年製作)、関所の歴史や資料、姫街道の解説展示をしているので、見学してみよう。

出入口横には、象の大きい絵が掲げられている。江戸時代中期の享保14年(1729年)、安南国(あんなんこく/現在のベトナム)から、江戸幕府将軍・徳川吉宗に牡の象が献上された。しかし、東海道浜名湖南岸の今切の渡船に乗せられない為、姫街道経由で江戸に向かったという。引佐峠(いなさとうげ)の急な登り坂では、象が大きな悲鳴をあげたと伝えられ、「象鳴き坂」の名も残っている。生まれて初めて見る象の迫力に、気賀の人々が驚愕した光景が浮かぶ。


(関所資料館の姫様館。)

(姫様道中に使われる籠。)

街道時代当時の食事も紹介されている。将軍吉宗の生母・浄円院が気賀関所に一泊した際、お付きの役人達に出された夕食と朝食という。今と比べると、質素ではあるが、当時の最高級の献立であったのであろう。


(街道時代の朝食と夕食のサンプル。)

姫街道について少し触れておきたい。三ヶ日西方の最大難所の本坂峠を越える事から、東海道本坂越、または、本坂通りとも呼ぶ。東海道見附宿(静岡県磐田市中心部)と御油宿(ごゆじゅく/愛知県豊川市御油駅近く)を結ぶ、15里40町、距離約60kmの東海道の脇街道(脇往還)であった。

当時、東海道の新居関所(今切関所)は、女改めが特段に厳しかった。それを避けた女旅人が、この街道をよく利用した事が街道名の由来とされている。また、一般的には、本街道と比べて距離は長くなるが、東海道経由とほぼ同じ距離であった。大難所や人通りが少なく、治安も比較的良いメリットもある。

また、古代から重要な東西街道のひとつであったが、江戸時代に入ってからは東海道が整備された為、徐々に寂れていったという。しかし、江戸時代中期の宝永4年(1707年)に宝永地震が発生すると、地震で大きく破壊された東海道から、姫街道に迂回する旅人が大幅に増加。幕末まで街道は往来が途切れず、気賀も姫街道一の宿場町として栄えた。その混雑ぶりは、江戸幕府が大名や旗本行列の街道通過を特別な場合以外は禁止する程であったという。

関所西側には、町木戸門(まちきどもん)が構え、気賀宿の町並みが続いていた。無事に通過出来た江戸方からの旅人は、宿場の街並みを見て、とてもホッとした事だろう。


(気賀宿に通じる町木戸門。)

敷地の南側には、関所防衛の為の要害堀(ようがいぼり・復元)もある。現在も、駅北側の関所跡東側と南側に本物が残り、水も流れているという。700mの長さがあり、二ヶ所の指定場所以外からの関所側への渡りは厳重に禁止されており、許可証が必要であった。また、木戸門もあり、船から連絡する事も出来た。


(再現された要害堀。)

(再現された堀の木戸門。)

気賀関所は、コンパクトで見学しやすく、当時の関所の様子が良く判る。なお、江戸時代中期の寛政元年(1789年)に、茅葺きから瓦葺きに改築された当時の関所を再現している。また、駅北側の国道沿いにも、関所跡、本陣跡や大きな寺社が建ち並んでおり、浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館もある。今回は見学が出来なかったが、次回は見学してみたい。時計を見ると、時刻は11時半を過ぎているので、駅に戻ろう。


(気賀関所本番屋。)

(つづく)


※気賀関所事務局から画像掲載許可済み。

2022年2月26日 ブログから転載・文章修正・校正。

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