流山線&竜ヶ崎線紀行(15・竜ヶ崎線編)龍ケ崎散策 後編

龍ケ崎観音【A地点】の参拝を終え、もう少し東に歩いてみよう。直ぐ先の向かい側に服部精肉店【牛マーカー】がある。もちろん、龍ケ崎コロッケを販売しているので、昼食がてらに立ち寄ってみよう。


(龍ケ崎観音先向かいの服部精肉店。)

初老のご夫婦で切り盛りしているそうで、創業は昭和11年(1936年)、2代目とのこと。龍ケ崎コロッケは店による独自の味付けやアレンジを認めており、各店で大分異なるが、「米粉で作ったクリームと茨城県産レンコンを入れるのがルールよ」と女将が教えてくれた。舞茸を入れた米粉クリームコロッケ(龍ケ崎コロッケのこと・1個税込み150円)が、この店オリジナルの看板商品とのことなので、これを二個注文しよう。店頭脇に小さなテーブルがあり、無料の特製醤油も用意されているので、ここで頂くことにする。


(女将が出来たてを作ってくれるので、少し待つ。)

(服部精肉店の「舞茸・レンコン入り米粉クリームコロッケ」を食す。他に、海老入り山芋和風コロッケ[税込み150円]やスタンダードなジャガイモコロッケ「愛情コロッケ」[税込み100円]も店の代表商品である。もちろん、普通の町肉屋として、魚のフライ、ハムカツや鶏唐揚げ等も提供している。)

とてもクリーミーで、洋風でありながら、和風っぽい味わいである。スパイスがピリっと効いたパンチのある肉屋の味が美味しい。テーブルに置いてあるコロッケ専用の醤油をかけてみると、醤油というよりは、和風ソースに近い味だ。なかなかマッチングもいい。

米粉を使うのは、関東の米どころとして、有名であったからであろう。なお、龍ケ崎コロッケを公式提供している精肉店は市内に3店舗あり、アンテナショップのコロッケ会館(チャレンジ工房どらすて)の販売所もあるが、これらの地元精肉店が本流と思う。各店で個性的なコロッケを販売しているので、食べ歩きも楽しそうである。

【服部精肉店】
8時から19時まで営業、不定休、駐車場なし、店頭試食可能。
龍ケ崎市下町4905-1(龍ケ崎観音斜め向かい)。

女将にお礼を言い、再び出発である。下町郵便局前を過ぎ、大きな砂町交差点【赤色マーカー】を渡った先に、龍ケ崎東西の東の要である医王院【寺マーカー】がある。竜ヶ崎駅前の薬師堂と対をなし、こちらの本尊も薬師如来である。住職がいるので、よく整備された美しい寺院になっている。

宗派と山号は曹洞宗玉光山。病気快癒と火除けの祈願所として、「砂の薬師」と地元では親しまれているという。龍ケ崎城主・土岐胤倫(ときたねとも※)が慶長3年(1558年)に開基した。江戸時代末期の改修時の寄進者には、第九代市川団十郎(初名長十郎)の名も連ねられている。団十郎の養母の実家が、この龍ケ崎である由縁らしい。


(医王院本堂。龍ケ崎城主寄進の本尊は33年毎に開帳される秘仏なので、普段は拝観できない。)

新しく見えるが、江戸時代初期の竣工で何度も改修している。なお、明治16年(1883年)に大火があり、砂町、上町と下町の殆どが全焼した。当時の医王院本堂は茅葺き屋根であったが、奇跡的に焼失を免れたという。その由来で、火除けの地元信仰もある。毎年1月の初薬師では、健康快癒と火除けの御札を求める町の人々で賑わうとのこと。

沿道を眺めながら、駅に戻ることにする。昭和の懐かしい商店が軒を連ね、好きな人には、歩くだけでも楽しいだろう。幾つかの目立つ商店を紹介したい。


(医王院近くのパチンコ屋「クイーン」のネオンタワー。これだけ派手な大型ネオンも、今では珍しい。)


(看板建築の洋品店「衣料の池田屋」。建築年代は不明であるが、尖りと窓上に凝った装飾帯もある。大正から昭和初期のものと思われる。)


(純和風の平屋の商店「田中剛一郎商店」。某チェーン系ドラッグストアばりに店名も凄い。ガソリンや灯油などを扱う燃料販売店である。国登録有形文化財の商家ほど重厚ではないが、落ち付いた佇まいが素晴らしい。)


(上町八幡神社前の「ヤマザキストア石川商店」は、酒屋らしい。こちらは戦後のトタン看板建築である。純和風家屋に一皮取って付けた感が面白い。)


(和菓子パーラー・ゲンナイ。車での来店が多い人気店で、この筋の人達には有名らしい。店内も昭和のままで、本来は和菓子屋であるが、店の左半分はフランス洋菓子を併売する。カッパ最中が看板商品とのこと。)


(廃業した古い商店と石蔵館。龍ケ崎では、現存する石蔵や土蔵は少ない様である。現在、イベントスペースとして使われている。)


(ホビーショップ「丸上模型」。昔ながらの模型専門店で、プラモデルの店頭在庫が多い有名店とのこと。ワイワイと子供達が、飛び出してきそうな感じがする。)

竜ヶ崎駅に戻ってきた。今度は西の方に行ってみよう。この竜ヶ崎線で最後まで活躍した小型タンク式蒸気機関車が保存されているという。無料の駅レンタサイクルも貸し出しているが、あいにく全車貸し出し中とのこと。なんとか歩いて行ける距離なので、歩いて行くことにする。

途中、龍ケ崎市役所【赤色マーカー】の前を通り、西にどんどん歩いて行く。この大通りは、佐貫方面と国道6号線「水戸街道」に連絡する主要道であり、車の交通量はとても多い。しかし、車は多いが、徒歩や自転車に乗る人は全くいない。特に北関東の自動車保有率は、「ひとり一台」といわれるのもわかる気がする。立派な歩道も車道横に付いているが、所々荒れている。


(龍ケ崎市役所前を通る。最上階の階が下の階よりも幅広という、変わったデザインの市庁舎である。)

馴柴東交差点を右折し、長く緩やかな上り坂を少し上がると、龍ケ崎市歴史民俗資料館【博物館マーカー】に到着。駅から徒歩20分程度で、結構な距離を感じた。この出入口横に蒸気機関車が静態保存され、屋根や解説板も整備されており、状態もまあまあ良い。


(馴馬町の龍ケ崎市歴史民俗資料館に到着。)

この4号機関車は、昭和46年(1971年)10月まで竜ヶ崎線に在籍していた小型タンク式蒸気機関車である。輸入蒸気機関車ではなく、大正14年(1925年)に川崎造船所兵庫工場(後の川崎重工業)で製造された純国産蒸気機関車であり、昭和40年(1965年)のディーゼル機関車導入後に予備車になった。廃車後、沖縄県久米島に観光鉄道の機関車として売却されたが、歴史的価値を認めた龍ケ崎市が発送前に買い戻したという。望みは少ないと思うが、この機関車を動態に戻し、復活運転をする構想もある。

狭軌1,067mmの改軌後に導入され、龍崎鐵道の機関車の中で最も大きな機関車であったため、最後まで活躍したらしい。他の鉄道会社を含めて同型機はなく、小さな民営鉄道向けでありながら、ワンメイクオーダー車になっているのが貴重である。なお、動輪は3軸のC形(先輪・従輪なし)、動輪直径940ミリ、整備時重量約20トンであり、同時期の国鉄タンク式蒸気機関車であるC10形(動輪直径1,520ミリ、整備重量約70トン)と比べても、大変小さい。


(関東鉄道竜ヶ崎線4号機関車。古典的な四角いサイドタンクと背の高い煙突が特徴で、輸入蒸気機関車のデザインの影響が強い。)

(キャブ内は意外に広い。)

(サイドタンクに描かれている龍崎鐵道の社章。遠目に見ると、かなり凝ったデザインに見えるが、単純に「竜」が4つである。)

同じ敷地の奥には、龍ケ崎市歴史民俗資料館、道路を隔てた向かい側に市民文化会館(市民ホール)と市立中央図書館もあり、龍ケ崎の文教エリアになっている。そのまま、歴史民俗資料館に入ってみよう。龍ケ崎の歴史や暮らしの移り変わりなどを丁寧に展示している。地方の公設歴史博物館としては、展示品も多く、立派であるのに驚いた。館内には、仙台藩領を示す大きな石碑のレプリカが展示されていたのが、印象的である(館内は撮影禁止のため、ご容赦願いたい)。

博物館の外には、懐かしい昭和の商店や農家の納屋がある。綺麗すぎるので、近年に建築したものと思われるが、よく再現している。竜ヶ崎の子供達の社会科学習に使われているとのこと。


(再現された昭和の商店。)

(たばこ屋カウンター。屋内の備品は当時のものと思われる。)

(駄菓子屋の商品ケースやパン木箱などもある。)

(稲敷エリアの典型的な農家の納屋。地元では、「まで屋」と呼ばれる。その季節までの「まで」が由来。)

(当時使われていた木製農機具なども、沢山展示保管されている。状態はとても良く、驚いた。)

事務所で職員に資料を貰いに行くと、関東最古といわれる多宝塔が近くにあるというので、最後に行ってみよう。博物館裏の城址を通ると近道らしい。

元々、この場所は、馴馬城址【城マーカー】と呼ばれる南北朝時代の南朝側の城であったという。龍ケ崎城や仙台藩の陣屋が置かれた場所(現・県立龍ケ崎第二高等学校)より、西に1.5km離れた場所にある。利根川の平地部に張り出した細い台地の先端部にあり、堀切で区切ったシンプルな城である。700年近く経過しているので、遺構は少ないが、森の中に真っ直ぐに延びる大きな空堀が残っていた。


(博物館裏の馴馬城址。城主は不明であるが、土着武士であったと考えられている。大きな森になっており、踏み込むに少し勇気がいる。)

木々が鬱蒼と生い茂り、とても薄暗い城址を抜け、旧家の生け垣が続く細い路地を進んでいくと、大きな坂道に出る。この坂を下り切ると、来迎院(箱根山宝塔寺)【寺マーカー】と呼ばれる天台宗の寺院がある。戦国時代の永正14年(1517年)に創基、江戸時代初期に再興した。天台宗の法華経由来の多宝塔が山門前にあり、関東最古の約500年前(戦国時代)に現存していたという。建立年がはっきりしていないのは、過去の解体修理時に棟札が見つからず、戦国時代の弘治2年(1556年)の大修理の記録が最古で、資料も乏しいためらしい。この龍ケ崎周辺で、最も古い木造建築物であろう。


(来迎院に到着。)

平成になってから、大規模な解体修理が行われており、状態は大変良い。一層目と二層目の潰れたまんじゅう状の部分が面白い。見たままの連想から「亀腹(かめばら)」といい、白漆喰を塗っているので、真っ白になっている。なお、二重の塔に見えるが、一重の塔である。上の部分は裳階(もこし)と呼ばれる風雨避け兼装飾である。屋根上の相輪(突き出したタワー状のもの)に、戦国時代と江戸時代末期の年号が刻まれており、龍ケ崎城主の土岐氏、牛久藩主の山口氏の名もある。弘治2年(1556年)の大修理の記録も、ここに刻まれている。様式的には、鎌倉時代のものとされ、建立年は更に遡ると考えられている。この南茨城エリアでは、他に例が無いという。


(国指定重要有形文化財の来迎院多宝塔。)

多宝塔先の小さな山門を潜ると、境内の奥に再建されたらしい本堂がある。なお、多宝塔を大修理した弘治2年(1556年)に、初代の本堂(伽藍)が建てられたという。


(来迎院本堂。)

日も大分傾いてきた。冬の暮れはとても早い。この多宝塔の見学で、竜ヶ崎線の旅を終えることにしよう。駅に戻ると、「グリーンまいりゅう」がきらびやかに迎えてくれ、思わず笑ってしまう。また、龍ケ崎に来ようと思う。


(電飾されたグリーンまいりゅう。)

(おわり/関東鉄道竜ヶ崎線編)


■関東鉄道竜ヶ崎線取材メモ■

【取材日】
2017年1月15日 本取材
(関東鉄道竜ヶ崎線・牛久沼・上町八坂神社・龍ケ崎観音・多宝塔・図書館資料調査 他)
2017年1月21日と22日 追加取材
(薬師堂・砂町・医王院・服部精肉店・キハ532 他)

※22日のキハ532は佐貫駅での撮影のみ。竜ヶ崎線の乗車なし。

【カメラ】
RICOH GRII

【本取材行路表】
佐貫0955 下り23列車(乗車前に牛久沼を見学)
1002
竜ヶ崎1035 上り28列車
1038
入地1058 下り27列車(駅見学)
1102
竜ヶ崎1135 上り32列車(線路調査)
1142
佐貫1155 下り31列車(線路調査)
1202
竜ヶ崎
(下車散策へ)

【主な参考資料】
関東鉄道七十年史(公式社史本/関東鉄道・1993年・龍ケ崎市立中央図書館所蔵)

【切符代】
竜鉄コロッケ☆フリーきっぷ(1日乗車券)500円×2日分 計1,000円


(※土岐氏)
本家は美濃国(現・岐阜県)の有力武家で、関東に移り住んだ庶流にあたる。関東土岐氏一族の本城は龍ケ崎城ではなく、江戸崎城である。
(※多宝塔)
天台宗法華経に記された仏塔。釈迦が法華経を説法していた所、大地から金銀豪華の巨大な塔が出現し、多宝如来が釈迦を褒め讃えて、並んで座ったことが由来である。

◆地名表記について◆
市名は、龍ケ崎市(旧漢字とケが大きい)、関東鉄道の路線名と駅名は竜ヶ崎線・竜ヶ崎駅(新漢字とケが小さい)。地元では、龍の字が難しいため、竜ケ崎と書く場合がある。また、竜ヶ崎線の前身・龍崎鉄道は、読みは同じであるが、ケがない。

2024年8月31日 文章修正・校正・一部加筆

【リニューアル履歴】
2024年8月31日 竜ヶ崎線編全話

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