天浜線紀行(30)気賀関所 前編

早朝出発であった為、だいぶ空腹になってきた。ここで昼食にしよう。昨日の昼食は蕎麦で食べたので、今日はラーメンを食べたい。駅テナントの「中華屋 貴長(きっちょう)」に入る。地元住民や浜名湖沿岸をツーリングするライダー達に、とても人気があるという。
天竜浜名湖鉄道公式HP・中華屋貴長


(駅舎東寄りに入る、テナントの中華屋貴長。)

古風なデザインの赤暖簾を潜ると、先客は2,3人。駅事務室を大改装した10畳程のスペースに、テーブル席とカウンター席が並んでいる。左奥のテーブル席に腰掛け、メニューも中華全般と多彩であるが、ここは看板メニューの「貴長塩らーめん」(税込み800円)を注文してみよう。事前情報によると、塩がイチ押しと聞いている。


(店内のメニューポスター。)

10分程待つと、「おまちどうぉ」と出て来た。早速、スープをすくってみると、マイルドでありながらコクがあり、濃い塩味のラーメンである。とろっとした味付け玉子も入り、これも大変美味しい。細めで柔らかい麺でありながら、適度なコシがあり、スープとの馴染みも良い。「この淡い緑色の麺は何ですか」と、大将に聞くと、幼稲パウダーを練り込んでいるとの事。すこぶる体に良さそうな上、見た目のインパクト大である。


(名物の貴長塩らーめん。完全オリジナルとして、太鼓判という。)

量が少し足りないので、ご当地メニューと思われる「勝見のうなぎ焼きおにぎり」(1個・税込み150円)も、ひとつ注文。真ん中に柔らかい味付け鰻が一片入り、ご飯に味がよく染みて美味しい。なお、三ヶ日町にある有名鰻料理店の名物という。
浜名湖うなぎ処・勝見公式HP


(店内ポスター。箱入りのお土産もある。)

(うなぎ処勝見の焼きおにぎり。)

昼食後、少し休憩させてもらおう。ひと息ついた後、大将にお礼を言って、店を出る。気賀駅の南側に関所があるそうなので、行ってみよう。改札口先の構内踏切を渡った駅の南側には、広い駐車場があり、浜松北区役所(元・細江町役場)、市立細江図書館や細江警察署等が並ぶ公官庁エリアになっている。その南端には、都田川が流れている。駅から右手200m先の図書館隣に、気賀関所がある。


(気賀関所の案内看板。)

(気賀関所入口遠景。)

この気賀関所は、浜松市の歴史博物館として、一般公開されている。元々は、駅北側の国道沿い(姫街道)の気賀四ツ角交差点横にあったが、史料に基づき、平成2年(1990年)に忠実に再建したという。なお、昭和35年(1960年)まで、オリジナルの気賀関所が現存していたが、老朽化の為、全て取り壊されている。
マピオン電子地図(気賀関所跡・気賀四ツ角交差点付近・1/3,000)

気賀関所の歴史は飛鳥時代の7世紀まで遡り、都や畿内を守る軍事的要害の目的が強かった。当時、「関塞(せきそこ)」と呼ばれ、東海道鈴鹿関、東山道(後の中山道)不破関、北陸道愛発関(後に逢坂関)が三関とされていた。中世になると、公家、豪族や寺社等が関所を勝手に設け、通行料を徴収したが、織田信長や豊臣秀吉は徹底して廃した。しかし、江戸時代になると、幕府の交通政策により、再び整備されたという。


(気賀関所。)

立派な石畳を一歩ごと歩く毎、街道時代にタイムスリップした気分になってくる。入口横の案内所にて、入場券(大人200円)を購入。パンフレットも貰う。販売所の看板も入場券も、通行手形というのが粋である。


(通行手形販売処。)

(通行手形とパンフレット。)

脇街道の関所であるが、箱根、新居と並ぶ、東海道三大関所のひとつになっている。関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に徳川家康によって開所。有名な「入鉄炮出女(いりてっぽうでおんな)」といわれる厳しい通行規制を敷き、江戸防衛の要の関所のひとつであった。実は、同じ江戸幕府開設の箱根関所よりも、18年も早く開所している。以前は、三ヶ日の西方の本坂に関所が設けられていたが、この気賀関所の開所により、廃止になっている。

早速、見学してみよう。現在の入場門にあたる、江戸方の冠木門(かぶきもん/東御門・大門ともいう)は、両隣に葵の御紋が構え、江戸幕府の要衝地としての雰囲気を盛り上げる。なお、当時の開所時間は24時間体制ではなく、陽が明るい日中の明け六ツ(午前6時)から、暮六ツ(午後6時)までであった。


(江戸方の冠木門。)

冠木門を潜って直ぐの右手(北側)には、本番所(ほんばんしょ)がある。ここに関所役人が詰め、通行人や荷の審査や検査「関所改め」を行う場所になっている。また、その事から、本御番所や面御番所(めんごばんしょ)とも呼ばれている。なお、関所の敷地は547坪(1,808m²)もあり、裏の竹藪も117坪(387m²)あったという。


(本番所正面外観。)

屋内の座敷には、等身大の人形が配されており、当時のリアルな様子がわかる。関所役人として、筆頭責任者の番頭2名と平番4、5名が交代勤務した。明治2年(1869年)の明治政府の関所廃止令まで、地元旗本である近藤家が関守として管理をしていた。


(改めの役人達。奥が番頭。背後には、鉄砲や弓矢が立て掛けられている。)

(家老や身分の高い者が控えた「上の間」。)

(つづく)


※浜松市気賀関所事務局より、画像掲載承諾済み。

【歴史参考資料】
浜松市気賀関所見学者向け案内パンフレット(現地で入手)

2022年2月24日 ブログから転載・文章修正・校正。

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