小布施めぐり(6)岩松院

お洒落な町も魅力的であるが、古のもの好きとしては、古刹巡りも外せない。町の東には、雁田山(かりだやま・標高759m)と呼ばれる山があり、古刹が麓に点在している。町営観光駐車場前の通りから、向こうに見える高い山が雁田山になり、少し距離があるので、車で行ってみよう。街路樹の銀杏も色づき始め、青葉と黄葉の組み合わせも、何だか良い感じである。


(銀杏並木と雁田山。)

観光案内をしてくれた、駐車場係氏にお礼を言い、駐車場から出発する。町の外れになると、果樹園が広がる長閑な風景になり、この先の接続する県道358号線は、「北信濃くだもの街道」の愛称もあり、果樹栽培が盛んなエリアになっている。なお、600年の長い歴史を持つ小布施の栗栽培であるが、現在は、林檎やぶどう栽培等の果樹園の面積の方が広い。

また、扇状地の中央から、下端に栗林が多く、栽培土壌の適性による為という。江戸時代までは、鬱蒼とした栗林の中に農家が点在しており、江戸将軍に栗を献上していた。栗年貢を納めた後でないと、栗農家でさえ食したり、商取引が出来なかった。

駐車場から東進、突き当りの交差点を左折し、門前の交差点を右折して奥に行くと、岩松院(がんしょういん)【祈りマーカー】に到着する(町指定文化財、境内は拝観料無料、16時頃まで、無休、境内は撮影可、本堂内は撮影不可)。

参道脇の柿の実もたわわに実り、山の紅葉が見事である。面白い形のこぶ山だが、頭(あたま・かしら/山岳用語)と呼ばれる支尾根上の突起で、この独特な地形を生かし、ここに雁田城があったという。また、雁田山自体も、複数の頂きを持つ大きな山になっている。
国土地理院国土電子web(長野県小布施雁田山・雁田城址)


(柿の木と雁田山。)

山寺であるが、寺は明るく平らな場所にあり、山中に奥まっていない。駐車場から、売店や信徒会館がある広場を通り過ぎると、見事な一本の大松と仁王門が見えてくる。

室町時代中期の文明4年(1472年)、雁田城主・荻野常倫(おぎのじょうりん)が開基した、曹洞宗の禅寺である。また、それ以前は、土豪の萩野氏の居館があった場所であったという。山号は梅洞山、小布施の第一の大寺であり、葛飾北斎の本堂天井絵が有名になっている。
北信濃・小布施/岩松院公式HP


(見事な一本松。)

(岩松院。)

仁王門の周りには、沢山の桜が植えられており、春はとても綺麗であろう。とてもひょうきんな表情の仁王像は、怖さよりも笑いを誘う。


(仁王門。)

(阿吽像の吽像。)

短い石畳を歩き、石段を登る。横には小さな池があり、山からの泉水が大きな水音を立てて樋落ちし、ほっとした気持ちにさせてくれる。


(石段横の小池。)

石段を登った一段高い場所に、大きな本堂が構える。比較的コンパクトにまとまった境内には、鐘楼、庫裡(くり)、坐禅堂も並んでいる。


(本堂全景。)

(禅寺らしく、華美な彫刻はなく、質素な造りである。)

もちろん、本堂内の天井絵を拝観してこよう。本堂右手に見学者用出入り口があり、自動券売機で本堂の拝観券(大人300円)を購入。券を受付に差し出し、パンフレットを貰う。


(本堂出入口付近。)

本堂内の御本尊・釈迦如来の前に、江戸時代末期の嘉永元年(1848年)頃に描かれた、葛飾北斎作の天井絵「八方睨み鳳凰図」(はっぽうにらみほうおうのず)が嵌め込まれている。天井絵は大変大きく、渋さの中に大胆な赤色と金色が浮かび、天井から絵が落ちて来る様な物凄い迫力である。なお、極少量の顔料が剥がれ続けており、出来るだけ現状を維持する為、木製の腰掛けに着席して、静かに鑑賞する決まりになっている(本堂内は撮影禁止。公式HPに写真あり)。

北斎最晩年89歳の時の最高作と言われ、大きさは約二十一畳(6.3m×5.5m)あり、あまりにも大きい為、十二分割して描かれている。また、中国産の高級顔料等をふんだんに使い、絵具代は当時150両(現在の2,000万円相当)もかかったという。その後、北斎は江戸に戻り、翌年の嘉永2年(1849年)に急逝した。

本堂天井画の見学後、裏庭に廻ると、本堂の小部屋に面した小さな池があり、とある俳句で、とても有名な池である。

「痩かへる まけるな一茶 是に有」 小林一茶

あの有名な蛙合戦の池である。春になると、何処からか蛙達が大勢集まり、雌を奪いあう蛙合戦になるそうで、約5日間、百匹近い蛙達が集まるという。


(蛙合戦の池。)

江戸時代の代表的な俳諧師・小林一茶は、晩年の文化13年(1816年)4月20日の54歳の時、この岩松院に来訪し、この句を詠んだと伝えられている。なお、小林一茶も、江戸幕末の小布施の豪商・高井鴻山(こうざん)に招かれ、この小布施に長期間滞在した。この池の畔には、一茶真筆の句碑が建てられ、三十基もの一茶句碑や投句箱が、町内に設置されている。

寺裏の墓地の小高い場所には、なんと、戦国武将で有名な福島正則の霊廟もある。立ち寄ってみよう。


(福島正則公のおたまや。)

斜面の小高い墓地に六畳程の霊廟が建ち、その中に高さ2.5mの五輪塔が格子越しに見える。両手を合わせて、参拝する。しかしながら、物凄い霊気を感じる。福島正則は、豊臣秀吉の重臣として、あの「賤ヶ岳の七本槍」の第一人者の誉も持つ名将である。関ヶ原の戦いの武功から、安芸と備後の二国49万9千石の大大名になったが、居城の広島城を幕府の許可無く修理した事を咎められ、北信州の信州川中島の一部と越後魚沼郡の計4万5千石に国替えさせられた。国替えの5年後、寛永元年(1624年)7月に64歳で没している。この際も、幕府からの検死役を待たずに火葬に付したことから、領地を没収されている。正則の信仰が厚かった岩松院は、菩提寺として、「海福寺」の名も付けている。また、左遷状や馬具、大槍等も遺品として残っている(墓所近影は撮影しない方針の為、ご容赦願いたい。公式HPに画像あり)。

少し西陽になってきたが、もうひとつの古刹に行ってみよう。


(岩松院を後にする。)

(つづく)


【歴史参考資料】
現地観光案内板
梅洞山岩松院見学者用パンフレット
小冊子「信州おぶせ」(小布施町発行)

2020年4月2日 ブログから転載・文章修正・校正。

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