水戸めぐり 後編

水戸駅に戻る途中、駅前に通じる大通りの一角に大銀杏【赤色マーカー】がある。太平洋戦争の空襲前までは、この通りに銀杏並木があった名残とのこと。空襲で焼夷弾が直撃し、黒焦げに焼かれたため、枯れたと思われていたが、新しい芽が奇跡的に生え、市民の平和復興のシンボルになったという。樹勢は今も衰えず、大切に手入れされ、保存されている。


(駅前大通りの大銀杏。この坂も「銀杏坂[いちょうざか]」と呼ばれている。)

駅から西に向かおう。商業エリアと住宅地が混在する大通りを歩いて行く。しかし、車の往来は多いが、人通りが全く無いのは、町の大きさに対しての違和感もある。

600m先の大きな交差点を左折し、常磐線の線路と桜川を高架橋【黄色マーカー】で越える。藤代駅以北の常磐線の架線は交流2万ボルトの高圧のため、高い隔壁が欄干部に設けられており、厳重な落下事故防止対策が取られている。また、真下には、水郡線(すいぐんせん)の気動車(ディーゼルカー)の車庫とコンテナヤードがあり、橋上から眺めることもできる。


(梅の木のモニュメントや大きなレリーフも埋め込まれていた。)

(高架橋からの水郡線の気動車とコンテナヤード。)

線路を越えると、下り坂の橋上から千波湖が見えてくる。県庁所在地の中心部に大きな湖沼があるのも、とても珍しい。なお、湖の呼称が付いているが、水深は1m程度しかなく、実際は沼であり、那珂川支流の桜川の一部とされている。親水公園や県立美術館なども整備され、市民の憩いの場になっており、水戸城の外堀や内堀の引水も兼ねていた。


(千波大橋からの千波湖。かつては、仙湖とも記された。)

湖の一周約3kmに渡り、遊歩道が整備されているので、西側の千波公園【青色マーカー】まで半周してみよう。人気のジョギングコースになっており、一般市民の他、体育会系部活動の学生達がジョギングをしている。しばらく、歩いていくと、川側の茂みから、「グワッ、グワッ」と異音がして、とても驚く。その方を見ると、大きなコクチョウやコブハクチョウが寛いでいた。千波湖は渡り鳥の来訪も多いが、水質はあまり良くないといわれている。また、約750本もの桜もあり、春は桜の名所になっている。夏は花火大会も催されているとのこと。

なお、かつての千波湖は、千波大橋の東側にも広がり、東の下沼と西の上沼に分かれていた。干拓により下沼は埋め立てられ、上沼が現在の千波湖になっている。江戸時代以降、千波湖の管理が行く届きにくくなり、洪水、悪臭や伝染病の発生源になったため、大正11年(1921年)に改良工事をし、那珂川から清水を導水した。なお、千波湖の江戸時代は蓮が一面に広がり、明治時代はジュンサイ栽培、戦時中は稲作が盛んに行われていたが、時代を通じての水戸一の名勝地であった。


(千波湖と水鳥。水循環を兼ねた湖上噴水も、三箇所設けられている。)

(抱卵中のコクチョウの夫婦。近くに寄っても、人を全く恐れないので、かなり慣れている。)

人々の流れに乗って、湖西側の千波公園に徒歩20分で到着。市営駐車場も近くにあり、多くの人達で賑わっている。公園の一角には、水戸光圀公の大きな銅像が立つ。周辺には、観光施設の好文(こうぶん)カフェや好文茶屋があり、食事もできる。


(千波湖の西側から水戸市街中心部を望む。湖上に張り出した展望デッキもある。)

(光圀公銅像。市民の寄付により、昭和59年[1984年]に建立されたという。)

(好文茶屋前の顔出し記念撮影板とカモフラージュ自動販売機。誰もが、水戸御老公一行になれる。)

公園の一角には、赤ナンバーのD51形515号機が静態保存され、キャブ内も自由に見学できる。戦時中の昭和16年(1941年)3月に国鉄大宮工場で製造され、昭和23年(1948年)7月に水戸機関区に配属。昭和33年(1958年)2月に大宮区管区に転出した、常磐線由縁の蒸気機関車である。水戸機関区以前は同じ常磐線の平機関区に配属していたらしく、それ以前は戦時中のためか不明になっているらしい。塗装も真新しく、状態も比較的良い。昭和45年(1970年)11月に廃車になっている。

解説板を読むと、延べ走行距離は約184万kmとのこと。貨物用蒸気機関車であるが、旅客列車も牽引できるように一部改造されている。ちなみに、当時の製造費は約11万円とのこと。白米10kgが3.3円位の頃なので、今の1億円相当であろう。


(公園の一角に静態保存されたD51形515号機。「デコイチ」の愛称は、一般の人達にもよく知られている。戦時型ではなく、標準型の仕様である。)

美しい千波湖の水辺でリフレッシュできたら、偕楽園(かいらくえん)【紫色マーカー】に向かおう。観光案内板に従って、常磐線の線路を高架橋で越えると、臨時駅の偕楽園駅が眼下に見える。梅の咲く早春の時期のみ営業し、期間中は特急列車も停まるが、下り線にしかホームがない。


(偕楽園駅。11両編成まで対応できる長いホームになっている。上りの上野方面に行く場合は、一旦、水戸駅まで行くことになる。)

偕楽園は千波湖北側の丘上にあり、つづら折りの急坂を登ると、東門に到着。車でのアクセスがしやすい北側に表門があるが、駅方面から来園の場合、この東門が最寄りになる。また、門の前には、如何にもの名の茶屋もあって、つい寄りたくなる。


(東門に到着。令和元年[2019年]秋から、他県在住者の場合、大人一般300円の入園料がかかる。※無料の頃に取材。)

(門前の水戸黄門茶屋。アイスクリームの「梅ソフト(粒入り)」が人気。)

この偕楽園も、第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)公「烈公(れっこう)」が、造ったものである。弘道館創立の翌年、天保13年(1842年)7月に開園した。孔子の「礼記」に記された「一張一弛(いっちょういっし)」という考え方から、文武修行の厳しい場の弘道館に対し、余暇に心身を休める偕楽園の一対の施設として構想されたという。なお、偕楽園の名称は「孟子(もうし)」から、「古の人は民と偕(とも)に楽しむ。故に能(よ)くしむなり」に由来し、藩主や藩士などの支配者階級だけではなく、一般の領民にも開放した。

今は開花のソーズンではないので、一面に緑の梅林が広がっている。風物詩として、関東エリアのテレビのニュースでも毎年紹介されるので、ご存知の方も多いだろう。梅だけでなく、杉、竹、桜、ツツジ、萩、藤なども沢山植えられている。なお、梅は斉昭公がよく好み、花の観賞の他、梅干を軍事用食や飢饉時の非常食にした。藩内でも、広く植樹を推奨したという。


(約100品種3,000本の大梅林。開花シーズンには、白から赤のグレディーションが豊かな梅と、背後の杉の緑との対比が素晴らしい。)

(幹周り約3.9m、高さ約16mの園内一の大桜「左近の桜(三代目)」。弘道館の桜と同じ、京都御所由縁のヤマザクラ「白山桜(しろやまさくら)」である。)

広い園内をぐるりと散策する。中央の千波湖寄りに、好文亭(こうぶんてい)と呼ばれる建物があるので、立ち寄ってみよう。斉昭公が自ら位置を定め、意匠を練ったと伝えられる二層三階建ての木造建築物で、当時の文人墨客や家臣、領民を集め、詩歌や養老会を催したという。平屋建ての奥御殿も併設され、水戸城の火災などの緊急時のバックアップでもあった。

高い杉の木立を抜けると、受付があり、入場料(一般大人200円/偕楽園の入場料に別途必要)を支払う。砂利敷きの道を少し進むと、木立の中に玄関がある。なお、開園当時の建物ではなく、昭和33年(1958年)に復元建築された。なお、好文とは、学問を好むという梅の異名である。


(好文亭。)

靴を脱いで、見学してみよう。建物は然程大きくないので、主な部屋は三部屋と少ない。最大の部屋である西塗縁(にしぬりえん)は、武骨な総板張りの大広間になっている。しばしば、詩歌の宴など、大人数が集まったという。他、1階には、藩主の間である御座の間(6畳・畳敷き)と東塗縁(ひがしぬりえん/18畳・板張り)がある。面する庭園は小さいが、よく整備されており、奥御殿に通じる太鼓橋廊下もある。奥御殿は10部屋からなる質素な造りの平屋建てで、藩主夫人の休養の場として使われた。最も奥にある松の間に夫人が滞在した。


(西塗縁。36畳もあり、床は漆塗りにされている。展望を妨げないように戸袋はなく、回転式の雨戸になっている。)

(唐風の華燈口から東塗縁を眺める。表の好文亭と裏の奥御殿を接続する二畳の暗部屋である。当時は、茶坊主の控室でもあった。色紙や短冊に古歌が描かれ、板戸に掛けられている。)

奥御殿から好文亭に戻り、三階に上がってみよう。急な階段を上がりきると、「楽寿楼(らくじゅろう)」と呼ばれる、東南西の三方が大きく開けた8畳の部屋がある。かつては、筑波山や大洗の松林も見えたという。外を見ると、ため息が出るほどに素晴らしい。ここに登るだけでも、訪れる価値があると思う。日本三大名園のひとつと讃えられるのを、十分に実感できる。


(楽寿楼からの絶景。正面の大木は、左近の桜である。遠くの水戸の町並みも調和して見え、素晴らしい。)

偕楽園から駅に戻ろう。東門から出た先に常磐(ときわ)神社【鳥居マーカー】がある。徳川光圀公と斉昭公を祀った独立系の大社で、明治初期に創建した新しい神社である。古社に見られる侘び寂びはないが、参拝しておこう。なお、社殿横には、歴史資料館の義烈館も併設し、光圀公や斉昭公由縁の品々も展示されているとのこと。


(常磐神社。明治5年[1872年]5月12日に創建された。学問、厄除け開運などの御利益があるという。創建日の5月12日に例祭が催されている。)

神社の駐車場一角のバス停から、駅行きのバスに乗ろうと思ったが、駐車場の初老係員に尋ねると、行ったばかりだという。市内の観光地であるが、1時間に1本程度しかなく、困っていると、「坂を下った通りに、バスが沢山走っているよ」と言う。お礼を言って、通りまで出ると、すぐにバスがやって来て、水戸駅北口バスターミナルに約10分で到着した。

まだ、時間があるので、かつては水戸城の一部であった、水戸東照宮【祈りマーカー】に立ち寄ってみよう。行きに門前町と鳥居が見えたので、気になっていた。駅前の交差点を左手に曲がると、すぐに朱色の大鳥居がある。その先には、とても高いアーケード付きの商店街があるが、飲み屋ばかりが並び、往年の門前町の雰囲気はなく、廃れている。この規模からも、賑わっていた当時は、多くの参拝客や買物客でごった返していただろう。地元では、「宮下銀座」、略して、「宮銀」と呼ばれ、当時の国鉄ストアと合わせ、何でも揃うといわれた。最盛期には、映画館、ボーリング場、公衆浴場や結婚式場もあったという。


(宮下銀座商店街。元々は、水戸城の堀の部分らしく、少し坂になっている。)

下り坂になっている商店街を抜け、右手の急な石段を登ると、小高い平らな場所に社殿が構えている。境内は意外に広い。この水戸東照宮は、水戸藩初代藩主・徳川頼房(よりふさ)公「威公(いこう)」が、元和7年(1621年)に家康公を祀る神社として創建。国宝であった社殿は、終戦直前の空襲で焼失したため、昭和37年(1962年)に再建されたという。金と黒の豪華絢爛の社殿も、日光の東照宮に通じると感じる。


(参道階段。)

(水戸東照宮社殿。元々は、松が生い茂り、霊松山と呼ばれる景勝地であったという。常葉山の名称を光圀公から新たに授かり、地元では、「権現さん」と呼ばれている。)

(拝殿前の紅白梅天井画。拝殿の壁際には、奉納された酒樽が山積みにされていた。)

社殿前には、頼房公が奉納した銅灯籠や光圀公由来の常葉山時鐘、徳川斉昭公のアイディアの安神車(あんじんしゃ/戦車)などが現存している。社殿前の対をなす銅燈籠は、頼房公が御祭神である家康公の三十三回忌に奉納したという。高さ2.9mもある大きなもので、唐草の透かし彫りの中央に葵の御紋と天女を配す、豪華な造りになっている。


(頼房公の銅燈籠。水戸市の指定文化財になっている。)

また、社殿向かいの小屋には、安神車が保管展示されている。鉄製の小部屋の小窓から銃を撃てるようにしてあり、単独での活用はせず、歩兵隊の補助として考案されたという。天井に偵察用の小窓と床に用便用の穴があるのも面白い。実際に使われたことはないといわれるが、水戸藩内紛や異国船来訪などの幕末動乱の時代を感じさせる。


(2基の安神車。空襲被害のため、一部が損傷している。移動は大牛に牽かせた。)

時刻は正午である。午後は、ひたちなか海浜鉄道(湊線)の追加取材をした後、少し早目に帰ることにする。駅ビル「エクセル南」の老舗銘店で土産を手配し、改札を通る。帰りも各駅停車の普通列車であるが、少し贅沢にグリーン車で帰るとしよう。

もちろん、最後の締めは駅弁である。残念であるが、国鉄時代からの駅弁業者は完全撤退しており、新しい業者が昔の駅弁や水戸の名物を参考にしつつ、製造販売している。その中でも看板駅弁と思われる「水戸黄門弁当」(税込み1,300円)をコンコースの駅コンビニで入手。重箱仕様の豪華駅弁である。


(水戸黄門弁当。茨城産米や食材を使ったこだわりの駅弁とのこと。)

早速、舌鼓を打とう。豚の角煮、鮎の香り揚げ、海老焼売などのおかずは16品、松茸御飯と鮭の親子ちらし御飯も入り、かなり豪華な駅弁である。黄門様が食したとされる料理を現代風にアレンジしたそうで、水戸名物の納豆と梅干ももちろん入っている。味付けも塩っぱすぎず、ちょうど良く、とても美味しい。値段は若干高いが、この内容と味ならば、大満足である。


(地元居酒屋チェーン兼仕出し屋のしまだフーズが製造している。駅弁では、新規参入企業であるが、評判は大変良く、常陸黒和牛を使った「牛べん(常陸牛弁当)」も有名。)

定刻に水戸を発車。シームレスな高規格線路を滑るように走る。上野まで約2時間の途中、夕暮れの筑波山の勇姿も車窓から眺められるだろう。

(おわり/水戸散策編)

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【参考資料】
現地観光歴史解説板
各種観光客向けパンフレット(弘道館と好文亭の入場時に入手)

【取材日】
平成29年(2017年)5月28日(本取材)、平成30年5月26日(旧二の丸と水戸城薬医門)

【カメラ】
RICOH GRII

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