久留里線紀行(13)上総亀山駅

定刻の14時8分、久留里線の終点・上総亀山駅に到着する。無人駅の為、20人程の乗客は運転士に切符を見せ、先頭車乗務員室後ろのドアから順に下車をする。早速、ホームで撮影している鉄道ファンも多い。


(上総亀山駅に到着する。ローカル線終着駅としては、今日は人が多いので、賑やかである。)

房総半島の分水嶺である清澄(きよすみ)山系の元清澄山(標高344m)、石尊山(せきそんさん/348m)や、大塚山(280m)、大福山(292m)に囲まれた小櫃川(おびつがわ)上流部にあり、川が流れ出る北方角以外は、三方を山に囲まれた行き止まりになっている。また、昭和56年(1981年)に亀山ダムが完成し、その大きなダム湖を擁する町になっている。ダムが出来る前は、渋柿の木が多く、美味しい干し柿が特産であったという。


(国土地理院国土電子Web・上総亀山駅周辺)

この上総亀山駅は、沿線城下町の久留里から延伸開業した昭和11年(1936年)3月25日に開業、起点の木更津駅から32.2km地点、13駅目(終点)、所要時間約1時間10分(木更津から直通の場合)、君津市藤林、標高99.2m、1日乗車客数約90人の終日無人駅になっている。無人化は最近になってからで、平成24年(2012年)3月の久留里線の特殊閉塞化時である。なお、この標高100m未満であっても、千葉県内の最も高所にある駅になっている。この駅が千葉県内の鉄道最高地点であると主張する鉄道ファンもいるが、小湊鐵道(こみなとてつどう)の板谷トンネル(長さ140.8m/養老渓谷から上総中野間、標高126m)が最も高い。

また、延伸開業時、沿線を挙げての大祝賀になったそうで、開通式典会場となった久留里駅周辺の様子が新聞記事に伝えられている。この山峡の町まで、鉄道がやって来た期待の大きさが感じられる。

「西木原線(久留里線)全通式の来賓列車は、(略)10時40分、久留里駅に着いた。どんより曇っていた天候も、このころより晴れ間を見せて、いやが上でもお祭り気分を出し、地元久留里駅前より久留里町小学校の会場までの間は、未曾有の人出であった。昼夜とも打ち上げられる花火及び余興場付近は、観衆数万を算し大賑わひであった。」

(昭和11年3月26日付の東京日日新聞千葉版(現・毎日新聞)より、原文抜粋。)


(建て植え式駅名標と観光案内板。)

先ずは、駅構内を見学してみよう。南西・南東の方向に単式一線の幅2m程の狭いホームが配されている。線路終端寄りに構内踏切があり、駅舎改札口に繋がっている。一面二線の島式ホームとして使われていたが、無人化後は駅舎側の旧1番線を廃止し、旧2番線が乗降ホームになっている。なお、ホーム長が二両編成分しか無い為、それ以上の長編成はドアカットを行う。通常は2両編成で運行されており、地元の観光イベント時等には、最大4両編成までの運用になっている。

また、この駅には、転車台が置かれていなかった。機関車の引き上げ線と機回し線が設けられ、分岐器は取り外されているが、レールが残っている。上り木更津方面行き列車は、蒸気機関車の逆機(バック)運転を行っていた。


(ホーム全景。向かいの線路が機回し線路跡。)

旧1番線の線路は分岐器が取り外され、両方向共に本線と繋がっていない。また、道路側にコンクリート製の擁壁跡が見られる。手持ち資料の昭和36年(1961年)に撮影された古い白黒写真を見ると、貨物ホーム兼集積場であったらしく、高く積み上げられた丸太が写っている。久留里方寄りの線路東側は高台がある為、旧1番線は両側から挟まれた客貨兼用ホームだったらしい。


(旧1番線と線路跡。)

木更津・久留里方を望むと、32kmポストが構内に立ち、120m先の藤木踏切から、25パーミルの下り急勾配になっている。この藤林踏切は、31k898m地点にある警報器・遮断器付きの第一種踏切で、久留里線69番目の最後の踏切である。


(上り木更津・久留里方。左の線路は機回し線跡、右の線路は旧1番線。本線とは繋がっていない。)

(久留里線最後の69番目の藤林踏切。)

線路終端方は、引き上げ線が110m延びる。道路と突き当たる場所に古レールを櫓組みした第二種車止めが設置され、その前に車止標識と古枕木三本組みの緩衝器が置かれている。昔は、古枕木をブリッジ状に組んだ、簡易な車止めであった。なお、速照と数字が書かれた黄色の標識は、平成25年(2013年)に導入されたATS-P(自動列車停止装置)の速度照射システムのものである。この数字の速度以上で進入すると、冒進防止(※)の為に自動非常ブレーキがかかる。


(線路終端方。)

ホーム北東側の駅舎を見てみよう。新しそうに見えるが、下見板張りの古い駅舎を新建材で補修した開業当時の古い木造駅舎である。改札口は、左サイドのポールだけ撤去されているが、出札口が残る。また、駅舎の並びにプレハブ風の建物があり、乗務員の休憩や宿泊に使われているらしい。かつては、駅員やその家族の住む棟割長屋二戸の鉄道官舎があった。


(ホームからの駅舎。使われなくなった旧1番線の構内踏切を渡る。)

(ホーム側改札口。)

待合室は5畳程度と狭く、久留里方の窓下に据え付け木造ベンチがある。出札口とそのテーブルも残っているが、新しいシャッターが設置され、完全に閉鎖されている。隣の手小荷物窓口もべニアで閉鎖され、やや殺風景な感じだ。


(出札口と手小荷物取り扱い窓口跡。)

(久留里方窓下に木造ベンチ。座面も低く、開業当時のものと思われる。)

この手小荷物窓口は、通称「チッキ」と呼ばれていたが、国鉄民営化直前の昭和61年(1986年)11月1日のダイヤ改正で全廃されているので、若い鉄道ファンは知らない人が多いと思う。今のトラック輸送による宅配便が普及する前、鉄道が小さな荷物輸送の大部分を担っていた。長旅の場合は、バッグや土産等の手回り品(手荷物)を別送して、到着駅で受け取れるサービスもあった。

チッキの由来は、手回り品を預ける際、金属製の照合票「チェッキ」を使った事から来ている。乗客には洋銀製、荷物には真鍮製のチェッキが交付され、到着駅で照合していたのである。手小荷物の輸送の歴史は古く、明治5年(1872年)の日本初の鉄道仮開通時(品川〜横浜間)からのサービスで、当時は、30斤(18㎏)まで25銭、30斤以上60斤までは、三等運賃と同額の50銭であった。大正頃から取り扱い量が急増し、昭和4年(1929年)9月から、東京~大阪間の11両編成の荷物専用列車も運行を開始し、後に急行貨物列車も登場した。戦後もそのまま、鉄道が主体となって、小荷物や貨物の全国輸送が行われていたのである。なお、原則として、荷物は駅まで自分で運び、到着した荷物も自分が駅に出向いて受け取る必要があった。戸口集配サービスもあり、その集配会社が大手運送会社の日本通運(日通)である。当時、丸の中に通のマークから、「マルツウ」と呼ばれていた。

そのまま、駅前に出てみよう。町道に直接面し、ロータリーは無い。車の乗り入れは、駅舎横の元・貨物集積場であったらしい広い空き地になり、公衆トイレも設置されている。また、少し離れた場所には、町タクシーの営業所が構えている。


(駅前からの駅舎全景。)

(一枚板の駅名標。昔は、正方形の一文字プレートが、車寄せにひとつずつ張られていた。)

駅前には、寂れた商店が並ぶ。駅正面の大きな商店は廃業しているらしいが、その両隣のたばこ兼雑貨店と酒屋は、今も細々と営業している。店構えが立派であるのを見ると、ダム完成後の暫くの間は、観光客がとても多かったのだろう。


(寂れた駅前商店街。)

なお、沿線の道路未整備や自家用車の普及が低かった戦後高度成長期(※)は、この山峡の終着駅からも、通勤通学客が多かったという。久留里線では、最大6両編成の気動車列車が運行されていたそうだが、この上総亀山駅から6両編成が始発したのではなかったとの事。

当時、3両・5両・4両編成の3本を、この上総亀山駅に夜間滞泊させていた。始発から、この順に3両編成、5両編成、4両編成の列車を順に発車させ、2番目の5両編成の木更津駅到着後、木更津寄りの2両は回送扱いにして、そのまま折り返し、途中の横田駅で回送車両を分割留置した。3番目の4両編成が横田駅に到着すると、この回送した2両を増結して、横田から木更津間を6両編成で運行したという。横田は町も大きく、この駅から乗る乗客の対応の為であったが、出発時点で超満員だったらしい。なお、分割併合のジャンパ(※)取り扱いは、専任の構内係ではなく、車掌が行っていた。また、木更津駅を除く久留里線各駅のホーム長は、5両編成が最長であるが、東横田駅だけが6両編成に対応している(※)。


(待合室からホームを眺める。)

ここで、上総亀山からの延伸計画について、触れたいと思う。この上総亀山【赤色マーカー】から、外房線大原駅を起点とする国鉄木原線(きはらせん/現・いすみ鉄道)に接続し、房総横断鉄道の構想があったが、上総亀山延伸前の昭和8年(1933年)に計画中止が決定している。

主な理由は、この先にある清澄山系石尊山(標高348m)が硬い岩山であり、莫大な工事費が掛かる事や、より東京に近い五井(ごい)駅を起点とする小湊鐵道が、昭和3年(1928年)に上総中野【青色マーカー】まで開通していた為である。また、この頃から、戦争色が濃くなり、国の財政も苦しくなった事情もある。延伸開通翌年の昭和12年(1937年)7月7日には、支那事変(盧溝橋事件/ろこうきょうじけん)が起こり、日中戦争が開戦している。

なお、久留里線から東の山をひとつ越えると、小湊鐵道が並行南下している。外房の安房小湊(あわこみなと)を目指して、単独での房総横断鉄道を目指していたが、岩山をくり抜くトンネル建設に多額の資金を費やし、こちらも上総中野から先の延伸工事は行き詰まっていた。そこで、久留里線に代わって、国鉄木原線(現・いすみ鉄道)と接続する事になり、昭和9年(1934年)8月26日に木原線が上総中野に延伸。官民連携の房総横断鉄道が開通した。まるで、婚約相手が横取りされた様な話であるが、この三つの鉄道の位置関係を地図で眺めながら、「もし」を考えるのも面白い。

計画では、上総亀山から東進する現在の国道465号線のルートにほぼ一致し、測量調査も終わり、路盤整備も一部進んでいたらしい。国道距離を参考にすると、未成区間は約15kmあり、地形を考えずに直線距離を測ると、約10kmしかない。なお、上総亀山と上総中野を結ぶ路線バスは、今も通っていない。

また、戦時中の不要不急線についても、触れたいと思う。久留里から終点の上総亀山間は、昭和11年(1936年)3月25日に延伸開通をしたが、終戦の前年に運行を休止している。戦争が激しくなるに従い、兵器や弾薬を造る金属が極度に不足した為、金属供出が行われた。家庭や工場からの鍋等の供出の逸話が有名であるが、一部の鉄道もその対象になったのである。

昭和16年(1941年)8月、全国の鉄道路線の内、軍事的重要度が低い路線を不要不急線として、列車の運行を休止し、レールや鉄橋等の金属供出を指示した。当時は、地元も黙認せざるを得なかった。また、国鉄御殿場線(現・JR御殿場線)等の様に複線を単線化した路線もあった。

久留里線では、昭和19年(1944年)12月16日に、久留里から上総亀山間の運行を休止。この区間のレールや橋桁は、原料鉄として溶かさず、空襲被害時の応急用資材として集められている。当時の国鉄保線区員の目撃談によると、市原の工場敷地に野積み保管されたり、陸軍富津岬試射場(現・千葉県立富津公園)の引き込み線に使われたらしい。

終戦になると、久留里、松丘や亀山の地元有力者達が、復旧の働きかけを行い、国鉄も応じる事になった。松丘や亀山の山林地主に、枕木用の松の供出を要請し、地元住民もレール等の運搬に協力や従事したという。これらの地元の尽力もあって、昭和22年(1947年)4月1日、久留里から上総亀山間の運行を再開。当時、ガソリンが入手困難だった為、戦前から使用しているC12形タンク式蒸気機関車3両の他、石炭ガスを燃料とするシンダカーが5両導入された。昭和25年(1950年)頃には、県内で豊富に産出する天然ガスを用いた天然ガスカー、昭和27年(1952年)後半に、ディーゼルカー44000形(後のキハ09)が導入された。

この不要不急線(一部区間も含む)は、国鉄だけで23線(その内、単線化は3線)に及び、他に民営鉄道線やケーブルカー・ロープウェイも多く指定された。国鉄線については、17線が戦後に復旧したが、後の赤字83線と民営化時に廃止された路線が多い。なお、運行休止しなかった単線化路線を除き、完全運休から復活した旧国鉄の現役路線としては、北海道のJR札沼線(さっしょうせん)の一部区間、滋賀県の信楽線(しがらきせん/現・信楽高原鐵道)、このJR久留里線しか残っていない。また、民営鉄道は、戦後も復活しなかった路線が大部分になっており、鉄道にも戦争の大きな影を落としていたのである。

(つづく)


(※冒進/ぼうしん)
規定の停止位置を越えて、その先に列車が進行する事。単線区間の本線に冒進すると、正面衝突の重大事故の原因になる。そのセーフティシステムとして、自動列車停止装置(ATS/自動非常ブレーキシステムの事)や、線路外に逸らす短線を設け、故意に脱線停車させる安全側線がある。
(※夜間滞泊)
早朝の始発列車等の運行の為、夜間に車両と乗務員を車両基地以外に留め置く事。構内宿泊所等で乗務員は睡眠を取る。
(※高度成長期と自動車)
昭和29年(1954年)から、昭和48年(1973年)に当たる。昭和42年(1967年)の乗用車保有台数は約300万台、現在の6,080万台の約1/20である。この年以降から、急激に保有台数が伸び、昭和47年(1972年)に1,000万台の大台に乗った。
(※ジャンパ)
車両間の制御回路、電源回路や空気ブレーキ管(電気指令式は除く)を繋ぐ、長さ1m程度の太いケーブル。車両端部床下から、吊橋状に繋げられている。
(※東清川駅のホーム長について)
当時の運輸省の通達により、最長編成の6両編成に対応した。

2018年3月11日 ブログから転載
2024年8月24日 文章校正・修正

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