熊野神社【A地点横】に参拝した後、更に北に歩い行こう。この道幅の広い石畳道には、連雀町(れんじゃくちょう)商店街が連なっている。先程のクレアモールほどけばけばしくなく、落ち着いた雰囲気が良い。また、所々の店先には、恋のおみくじボックス(1回100円)が置いてあり、若い女性達に人気らしい。
(昭和風の連雀町商店街。)
(店先の恋のおみくじボックス。)
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そのまま進むと、大正浪漫夢通り入り口【カメラマーカー】に到着。川越は伝統的日本建築の古い蔵造りの町のイメージが強いが、大正時代以降の近代建築も意外に多い。この通りには、大正から昭和初期の洋風看板商店建築などが残っており、テレビや映画の撮影もよく行われるとのこと。明治時代の蔵が建ち並ぶメインの一番通りよりも、観光客も少ないので、ゆっくりと見学ができる。
かつては、銀座通りと呼ばれた県下一の商店街であった。昭和30年代から大きなアーケードが設置されたが、次第に駅寄りのクレアモール(新富町商店街)に客を奪われ、衰退してしまった。そこで、平成7年(1995年)にアーケードを完全撤去し、観光化を進めているとのこと。城下町防御の名残である緩やかなカーブに、30軒程の古い商店が集まっている。なお、戦後の長い間、アーケードで風雨を凌げたためか、店頭部分の保存状態も非常に良い。道幅も広く、電線の地中化や御影石の石畳が整備され、通りは洒落ている。
(川越大正浪漫夢通りの町並み。)
入り口西側には、4軒のレトロな建物が並んでいる。交差点角には、昭和5年(1930年)築の大野屋洋品店【赤色マーカー】があり、もちろん、現役の店舗である。可愛らしい装飾が施された人造石洗い出しの看板建築で、二階に四連横窓が二ヶ所設置されているが、後ろの母屋部分は瓦屋根の日本家屋になっている。また、その隣の白壁蔵は、明治30年(1897年)築の老舗書店・吉田謙受館(吉田家住宅)【黄色マーカー】で、川越では珍しい大屋根形式とのこと。装飾も簡素で、大火前の川越商家のスタイルを踏襲しているといわれている。かつては、郷土本の出版も行なっていた。
(通りの玄関口に建つ大野屋洋品店。)
(吉田謙受館。昔は、書店ことを、書肆(しょし)といった。間口3間、奥行き4間ある。※追加取材時に撮影。)
書店の並びには、昭和8年(1933年)築の喫茶店・シマノコーヒー大正館【茶色マーカー】がある。元は呉服店で、半円装飾アーチ付きの大型縦窓が特徴になっており、窓中の格子が和風木造であるのが面白い。この建物も、人造石洗い出しの看板商店建築で、店内も当時のままとのこと。自家焙煎の美味しいコーヒーを提供しているそうなので、散策のひと休憩にも良いだろう。
【シマノコーヒー大正館】
年中無休、8時から19時まで営業。専用駐車場は無し(周辺の有料駐車場を利用)。
埼玉県川越市連雀町13-7、大正浪漫夢通り南寄り西側。
→ シマノコーヒー大正館公式ホームページ
(シマノコーヒー大正館と和菓子いせや。)
シマノコーヒーの右隣には、ひときわ高い建物の和菓子屋いせや【青色マーカー】がある。昭和10年(1935年)創業の老舗であるが、実は、平成になってから建てた新しい看板商店建築である。経年変化のウェザリングも施されており、一見、平成の建物に見えない。古い建物ではないが、これを建てる店主の意気込みとこの風合いの出来は素晴らしい。
隣のシマノコーヒーと軒の高さや装飾を似せてあるが、三階のアーチ屋根部分が今風である。一階は店舗兼製造所、二階と三階は住宅になっているとのこと。創業時に勧請した立山信仰由来の姥尊(うばそん/別名・おんばさま※)と呼ばれる老婆像が、店に安置されている。
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通りの中央付近西側には、明治30年代築(詳細不明)と推定される旧・加藤家住宅【緑色マーカー】があり、元々は、大和屋と呼ばれた金物商の店蔵である。今は、ピザ焼き石窯のあるイタリアンレストラン・ウッドベイカーズとして利用され、二重の軒蛇腹を3尺毎の腕木で支え、観音開きの重厚な3つの土戸が開く。実は、正面のみを土蔵造りとし、大谷石をコの字にめぐらせた特徴的な外壁になっている。明治の川越大火を乗り越えた吉田謙受館と同様に、この通りで最も古い建物と思われる。
なお、民間所有の文化財級建築物にテナントが入るのは賛否両論あるが、常に手入れがされて状態が保たれることや、売り上げから修繕費用も賄うことができるので、原形を大きく破壊しないのであれば、良いと思う。
(加藤家住宅。間口4.5間、奥行き2.5間あり、大工は関根松五郎と伝えられている。)
加藤家住宅の先にも、古い建物が三軒並ぶ。看板商店建築の伊勢亀本店【紫色マーカー】は昔ながらの右書き店名で、当時の原形を保っているのが素晴らしい。建築年は不詳であるが、シマノコーヒーの装飾デザインとよく似ており、関東大震災直後の昭和初期のものであろう。現在も、年配向けの婦人向け洋品店として、静かに営業している。
伊勢亀商店の右隣には、市内でも珍しい木造三階建て日本家屋の鰻屋小川菊(おがきく)【灰色マーカー】もあり、大正初期の建築とのこと。グラッシーな外観は夏場の暑さを凌ぐためで、近年に大規模な耐震補強もした現役の店舗である。小田菊は、文化4年(1807年)創業・七代目を数える県内屈指の老舗鰻店で、文豪や書家、近隣の旦那衆が三階に通い詰め、交流をしたという。
(通り北寄りの三軒並んだ古い建物。手前から、伊勢亀本店・小田菊・伊勢源商店。)
(婦人衣料品店の伊勢亀本店。「亀」も難しい旧漢字であり、一部が損壊している。)
小田菊右隣には、明治元年創業の地酒店・伊勢源商店【黒色マーカー】があり、古い木製大型看板が掲げられている。建物の築年は不詳であるが、二階には京格子のある古い建物になっており、明治の川越大火後のものであろう。埼玉の地酒や全国の味噌の量り売りしている。また、伊勢源商店の左右には、赤煉瓦の防火壁がある。左の小田菊側は二階までの高さ、右は1階までの高さで、左右の大きさが違う。
(小田菊右隣の酒屋・伊勢源商店。屋根の装飾は控えめである。※追加取材時に撮影。)
(軒下のヤマサ醤油の古い木製広告看板。宮内省と右書きで書かれているので、戦前のもの。)
そして、この大正浪漫夢通りの終点のT字交差点角には、国登録有形文化財の川越商工会議所【歴史的建築物マーカー】が建つ。昭和2年(1927年)築の旧・武州銀行川越支店の洋風建築で、ギリシャのパルテノン神殿を思わせるドリス様式の大石柱が並び、とても力強いデザインである。正面玄関上にメダリオン装飾が施され、内部にエジプト風の柱頭装飾もあり、細部まで華麗とのこと。
(旧・武州銀行川越支店。設計者は前田健二郎、施工は清水組である。)
この旧銀行を右に曲がった突き当たりのT字路には、赤煉瓦造りの古い教会【十字架マーカー】もある。大正10年(1921年)再建の中世ゴシック折衷様式で、アメリカ人技師ウィリアム・ウェルソンが設計した。正式名称は、「日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂」といい、明治11年(1878年)に、ふたりの日本人牧師の横山錦柵(きんさく)と田中正一が伝道を始めたという。かつて、この近くに石川組製糸所川越工場があり、その経営者の石川家には熱心なキリスト教信者が多く、工女達への熱心な教化活動をし、待遇も良かった。その影響もあるとされる(※)。
煉瓦はフランス積み、内壁も煉瓦壁仕上げ、急勾配のストレート高屋根が印象的であるが、平屋建ての鐘楼付きである。竣工2年後の関東大震災でも、倒壊しなかった貴重な煉瓦建築洋館になっており、国登録有形文化財に指定されている。また、教会の向かいには、文豪・島崎藤村が執筆のために数回宿泊した老舗割烹・佐久間がある。二人目の妻・静子夫人が、川越出身であった由縁とのこと。
(川越キリスト教会。前礼拝堂が、明治の川越大火で焼失したため、再建されたものである。手前の紅白幕は、川越まつりの準備で取り付けられたもの。※追加取材時に撮影。)
なお、通りの名称は、「大正」を冠しているが、看板商店建築や旧銀行は昭和一桁の頃のものである。大正から昭和になったばかりで、大正デザインが色濃かったことや、大正12年(1923年)9月の関東大震災で倒壊・焼失し、建て替えられたためであろう。また、太平洋戦争中の川越は、米軍の空襲を受けなかったので、古い建物がよく残っている。
(つづく)
(※姥尊)
北アルプス立山由来の神仏習合の山岳信仰。像は老婆の姿をしている。昔、一般的に霊場は女人禁制(女性の入場を禁忌とする)であったため、その女人救済として、日本海側で広く信仰されていた。富山県立山町の芦峅寺(あしくらじ)が有名。
(※石川組製糸所川越工場)
元々は、埼玉県入間(いるま)で設立した石川製糸で、当時は全国有数の生糸製糸会社であった。川越工場は明治41年(1908年)から昭和29年(1954年)まで操業していた。
なお、吉田謙受館(吉田家住宅)と加藤家住宅は、川越市指定文化財になっている。
【参考資料】
時薫るまち 小江戸川越散策マップ(小江戸川越観光協会・2016年)
川越建物細見(川越市教育委員会・発行年不明)
瓦版川越今昔ものがたり(龍神由美・幹書房・2003年)
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