小江戸川越めぐり その2

ここで、この川越について、触れておきたい。かつては、「小江戸(こえど)」や「江戸の母」と呼ばれた城下町で、当時の江戸よりも大きな町であったという。室町時代中期、古河公方(こがくぼう※)の関東足利家に対抗するため、扇谷上杉家(おうぎがやつ–/当時の関東南部の有力武家)の重臣の太田道灌(おおたどうかん)により、城が築かれたのが始まりである(※)。江戸時代に入ると、川越藩17万石が置かれ、代々、江戸幕府の老中級の重臣が治めた重要な藩であった。


(川越市役所前の太田道灌の銅像。現・皇居である江戸城も同じ理由により、道灌が築城した。)

旧城下町中心部には、明治時代中期の蔵造りの町並みが残り、江戸城の建物を移築した古刹・喜多院(きたいん)もある。なお、江戸時代は、中山道板橋宿の追分から分岐した10里(約40km)の川越街道(当時は、川越往還と呼ばれた※)が延び、参勤交代や産業道路として使われていた。現在のJR川越線は大宮から西に進んで川越に入るが、当時は南東から入り、川越の城下町を抜けると、熊谷と秩父の二方に行くことができた。

このように現・埼玉県南部の商業集積地や東京(江戸)の物資供給地として、古くから栄え、大正11年(1922年)には、県内初の市制も施行されている。戦後、東京近郊のベッドタウンとしても発展し、平成15年(2003年)には、中核都市に指定された。現在も、商業や観光の中心地になっており、多くの人々が集まって来る。

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クレアモールの中心にある丸広百貨店と西武鉄道本川越駅の近く【A地点】を過ぎると、所狭しに軒を並べていた店は途切れ、まばらな観光客になり、落ち着いた雰囲気に変わる。この先の通りの右手に「小江戸蔵里」の巨大土蔵群【博物館マーカー】が見える。駅からクレアモールを北上し、最初に出会う歴史的建築物である。

明治8年(1875年)に創業した地元造り酒屋の鏡山酒造の酒造蔵を改修し、平成22年(2010年)10月から、観光客向けに開放しているとのこと。川越の観光情報発信や物産販売などを行なっており、野外ベンチやレストランが設けられ、自由に休憩もできる。


(小江戸蔵里。通りに面した明治蔵は、とても大きい。)

奥に長い敷地には、三つの大蔵が密集して建てられている。通り側から、明治中期築の明治蔵は物産・土産物販売、大正初期築の大正蔵はレストラン、昭和6年(1931年)築の昭和蔵は地元産野菜や弁当・惣菜の販売(埼玉県下のスーパーヤオコーに営業を委託)をしており、三蔵共に国の登録有形文化財になっている。内装は今風に綺麗に改装されているので、外観の古さとのギャップがある。


(大正蔵と昭和蔵。奥の昭和蔵の中には、イートインコーナーもあり、購入した弁当などの食事もできる。)

(昭和蔵出入り口横の焼き芋の壺オブジェ。)

なお、鏡山酒造は廃業してしまったが、平成19年(2007年)に小江戸鏡山酒造として、近くにある仲町のNTT支店前に復活した。新生の鏡山酒造では、大量生産ではなく、米の味わいがしっかりする清酒を少量生産している。また、最近の地ビールブームにより、川越発プレミアムビールメーカーのコエドビールも全国的に有名になっており、ここの大正蔵のレストラン、町の居酒屋や酒屋で提供・販売しているので、酒目当ても楽しめるだろう。
小江戸鏡山酒造公式HP
コエドビール公式HP(日本語版)


(新生の清酒鏡山とコエドビール。※東武川越駅改札口前の観光案内所内に展示・撮影。)

通り側の明治蔵の南側には、3階建て相当もある巨大な山車の車庫もある。壁の側面にガラスの覗き窓があり、山車の一部が見えるが、中が暗く、よく見えない。各町内には、何ヶ所もこの巨大な車庫がある。


(新富町1丁目の山車庫。江戸幕府三代将軍の徳川家光公の飾り人形が、天辺に乗っている。)

川越の秋祭りは、精巧な人形が最上段に乗った巨大な山車を、何台も曳き回す豪快な祭りである。江戸時代初期、川越城主の松平信綱(のぶつな)が、地元古社の川越氷川神社に神輿や獅子頭などを自ら奉納したのが始まりである。江戸時代には、小さな踊り舞台や一本柱の「出し(江戸時代の史料では、出しと記すことが多い)」を町ごとに造っていたが、明治維新から明治30年頃にかけて、商業や川越唐桟(とうざん※)で大いに栄えた川越の豪商達が、豪華な山車を競って造ったという。

その後、関東大震災や太平洋戦争で一時は廃れたが、見事に復活し、川越の秋の大風物になっている。なお、氷川神社の例祭は毎年10月14・15日であるが、山車が曳き回される川越まつりは、毎年10月の第三土曜日と日曜日に開催される。東京の神田大明神や赤坂山王の天下祭とよく似ており、神田囃子の正調を伝承し、最近では、ユネスコ無形文化遺産に登録された。


(今年の川越まつりのポスター。今年は、氷川神社の例祭と日取りが一致しているので、大変混むだろう。)

小江戸蔵里の向かいにも、面白いものがある。地元ラーメン店・てんこもりラーメン【丼マーカー】の箸上げムービング看板があり、モーターの付いた棒で上下に動かしているだけであるが、面白いとスマートフォンで撮影する人も多い。なお、店名の通り、醤油と豚骨は麺2玉入りと、ボリュームが凄いらしい(味噌系とランチ系は一玉とのこと)。また、8玉入りの挑戦ラーメン(制限時間30分、挑戦料1,500円、成功時は賞金5,000円と挑戦料返金)や24玉入り(制限時間60分、挑戦料6,000円、成功時は賞金3万円と挑戦料返金/ルールは店頭に掲示)もやっている。24玉は流石にネタであろうが、懐かしい昭和の大食チャレンジである。ご当地芋ラーメンなるものもあるそうなので、今度、食べてみたい。

【てんこもりラーメン】
年中無休、11時から24時まで営業。専用駐車場なし(周辺の有料駐車場を利用)。
埼玉県川越市新富町1-3-9、小江戸蔵里向かいのマンションの1階。
※挑戦ラーメンとチャンピオンラーメンの受付は18時まで。詳しいルールは店頭掲示ポスターを参照。


(てんこもりラーメンの名物ムービング看板。この川越は、ラーメン激戦区である。)

ラーメン屋の右隣には、昭和初期の建築と思われる木造二階建ての牛窪商店【赤色マーカー】が、マンションの谷間にちょこんと建っている。この店は肥料商であるが、軒下に「合名会社水上製本所」の右書き看板が掲げられ、観光客向けの紙小物や製本用品を店頭販売しており、テナントとして入っているらしい。また、この先によく似た造りの米穀商・山田屋【青色マーカー】も構えている。


(肥料商の旧・牛窪商店。今は、地元埼玉の製本会社が入っている。)

(稲穂が飾られた米穀商の山田屋。こちらは、本業現役である。※追加取材時に撮影。)

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長さ1,200mもあるクレアモールも終わりになり、地元ビジネスホテルのデイリーホテルが建つ大きな通りを横断すると、石畳舗装の広い路地になる。この路地を入った左手に、川越熊野神社【鳥居マーカー】が鎮座している。飲食物など売る出店やボランティアの無料足マッサージで賑わっており、観光客向けのミニイベントを開催しているらしい。


(県道15号線を渡った先の石畳道。)

(川越熊野神社。)

小さな参道の左右には、小石と竹を使った足ツボ押し道があるのが面白い。なお、土足厳禁なので、靴を脱いで歩いてみると、痛こそばゆい。「痛い痛い」と苦笑いしながら歩く若い女性もいる。


(参道と足踏み健康ロード。)

小さな石鳥居を潜ると、境内はとても狭く、社殿も小ぶりであるが、鏡松(※)の神楽殿も備える立派な神社である。室町時代(戦国時代)後期の天正18年(1590年)、近くにある蓮馨寺(れんけいじ)の二世然誉文応僧正(ねんよぶんおうそうじょう)が、紀州熊野本宮大社から勧請した。地元では、「おくまさん」と親しまれており、開運と縁結びの神社とのこと。
川越熊野神社公式HP


(鳥居横からの境内。)

町の小さな神社であるが、地元の信仰も大変厚いという。毎年12月3日には、「川越酉の市」が開かれ、縁起物の大熊手などを求める人々が何万人も集まる。また、熊野大神に仕える三本足の霊鳥「八咫烏(やたがらす)」が社紋になっており、日本サッカー協会(JFA)公認の御守り「勝守」も授与している。


(拝殿。後ろに本殿がある。春のしだれ桜と秋のケヤキ紅葉も美しいという。)

(神楽殿。縁日には、地元保存会の囃子や神楽も演じられる。)

社殿前の北寄りには、銭洗弁天と宝池、厳島神社ほか二境内摂社(末社)、撫で蛇さまと、何故か、輪投げ舎が鎮座している。中央の銭洗弁財天には、池が設けられている。硬貨を洗う金属カゴが用意され、親子が楽しそうに洗っていた。なお、毎月第三日曜日が弁天縁日になっている。


(境内北側の狭い場所に末社が並ぶ。)

(銭洗弁天と宝池。)

狭い境内に面白いものが集まっていて、神社の遊園地の様である。特に、撫蛇さまと運試し輪投げは、観光客に大人気で、行列ができていた。

末社の厳島神社奥に鎮座する撫で蛇さまは、願いを込めて祠の前にある白蛇像を撫でると、諸願が叶うと言われている。その願いの内容によって、片方だけか、両方なのか、また、撫でる場所も決まっている。鳥居前の解説板を見ると、頭は学業成就・合格必勝、巻物は芸事上達・知恵、体は身体健康・病気平癒、卵は金運・商売繁盛・出世・開運・安産・子宝、二匹同時は良縁・夫婦円満・家内安全・職場安全になっている。由縁は全く不明であるが、面白い。


(境内社の厳島神社と撫で蛇さま。撫で蛇さまの御神体は双頭の白蛇像で、石祠の中が見える。)

(若い女性がチャレンジ中の運試し輪投げ。距離はないが、なかなか難しい。)

(つづく)


(※古河公方と扇谷上杉家)
室町時代、室町幕府は関東と東北の統治のため、足利尊氏(たかうじ)の子息である足利基氏(もとうじ)を鎌倉に派遣した。これを鎌倉府と言い、長官を鎌倉公方と呼んだ。扇谷上杉家は鎌倉公方の補佐役として、関東管領に任ぜられた。なお、扇谷は鎌倉の地名に由来する。しかし、次第に京都の幕府から自立して行き、鎌倉公方の関東足利家と関東管領の扇谷上杉家は対立。遂に、第五代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)は、関東管領の上杉憲忠を暗殺してしまう。その後、扇谷上杉家側に鎌倉が占拠されたため、関東足利家は下総国(しもふさこく)古河(こが/現・茨城県古河市)に本拠地を移し、古河公方(古河府)と称し、その後も扇谷上杉家と激しく争った。また、古河公方の設立後、小田原の北条家(鎌倉幕府執権の北条家と区別し、後北条家ともいう)が勢力を伸ばし、関東も戦国時代に突入して行った。関東の戦国時代の期間は、古河公方成立から豊臣秀吉の小田原征伐までである。
(※川越街道)
中山道板橋宿の先の追分より分岐し、6つの宿場を経由し、川越に至った。現在の国道254号線沿いのルート。なお、正式に街道と名がつくのは、江戸幕府の公道のみである。
(※川越唐桟/かわごえとうざん)
幕末から明治30年頃まで全盛期であった川越産の綿織物。「川唐(かわとう)」ともいう。粋な縦縞模様と絹のような手触りが特長で、江戸の町人達に大人気であった。当時の歌舞伎役者・市川団十郎が川唐を着て、「一張羅の川唐を大井川の川止めに流して(増水による渡河禁止が続き、宿に泊まるうちに所持金が無くなり、お気に入りの川唐を質に入れる羽目に)」と台詞を言い、舞台で宣伝もしたと伝えられている。
(※鏡松)
奈良の春日大社の影向(ようごう)の松がモデル。この老松に神が乗り移って舞い、疫病を退散した。本来は、この松に向かって舞うが、観客に尻を見せるにいかない。そこで、鏡に映った松とし、観客に向かって舞うことから。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
小江戸蔵里パンフレット(小江戸蔵里・2017年)
時薫るまち「小江戸川越散策マップ」(小江戸川越観光協会・2016年)
瓦版川越今昔ものがたり(龍神由美・幹書房・2003年)

2017年11月11日 ブログから転載

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