雨が多く、酷暑であった夏が過ぎ、秋めいてきたこの頃の朝夕は過ごしやすくなった。涼しくなったので、久々に古い町並みを散策しに行こうと思い、近場でありながら未訪問であった埼玉県川越市に行ってみた。東京至近の人気観光地である川越は、年間600万人もの観光客が訪れ、訪問したことがある方も多いと思う。あくまでも、鉄道旅行ブログなので、鉄道で行き、駅からハイキングならぬ、駅から町歩きとして、お伝えしたい。
◻︎
10月1日の日曜日の午前9時前。JR中央東線八王子駅1番線ホームに立つ。東京西部のベッドタウン主要駅の八王子駅は、甲府・塩尻方面の中央東線(本線と高尾までの快速線)、横浜方面の横浜線、高麗川・高崎方面の八高線が接続する大きな駅である。昔よりも地元経済は沈下し、駅前のデパートや商店街はかなり衰退しているが、乗降客は非常に多い。また、改札を出て、東に徒歩数分歩くと、京王電鉄本線終点の京王八王子駅がある。
グーグルマップ・JR八王子駅
かつては、絹織物産業とその集散地として、大変栄えたという。明治から大正時代、中央東線や八高線は甲府や高崎方面から生糸を運び、この八王子から横浜線で輸出港の横浜港まで運んでいた。八王子駅の接続路線は、全て「絹の鉄道(産業自生鉄道)」がルーツになっている。また、構内南側の大きな機関区は、中央東線の貨物列車を牽引する勾配線区向け直流電気機関車EF64形0番台(原形機)の寝ぐらであったが、廃止されて久しい。近年、蒸気機関時代の大型転車台も撤去され、砂利で埋められてしまった。
JR線で都内から川越に行くとなると、東北本線の大宮経由の川越線がメインルートと言えるが、諸般の事情により、この八王子からの出発である。関東平野の西端に沿って、八王子と高崎(正式な終点は倉賀野/くらがの)を結ぶ路線キロ100kmに近い南北縦断ローカル線の八高線は、途中の高麗川駅を境に南側は単線電化、北側は単線非電化になっていて、同じ路線でありながら全く雰囲気が違う。通称・八高南線と呼ばれる八王子から高麗川間と、高麗川から東進をして大宮を結ぶ川越線は直通運転をしているため、まるで、こちらが一体路線のようである。そのため、八王子から川越線直通川越行きが頻発し、乗り換えなしで行ける。一時間程の武蔵野小旅行を楽しむことにしよう。
駅の時刻表を確認すると、今度の川越線直通川越行きは、9時18分発である。反対側ホームは中央線上り東京方面なので、幅広のホームもかなり混雑している。東京行きの特別快速や新宿行き特急が頻繁に発着する傍ら、折り返しの八高線4両編成の電車が到着。近年、八高線沿線のベッドタウン化も著しく、八王子駅での下車客は日曜日のこの時間でも多い。下車客をどっと下ろすと、今度は乗車客でロングシートはほぼ満席になった。
(八王子駅1番線ホームに到着した川越行き電車。この209系と205系電車の4両編成が使われている。車内トイレはないので、事前に済ましておくと良い。※八高線の写真は、追加取材時に撮影。以下同。)
◻︎
++++++++++++++++++++++
八王子918===高麗川===1025川越
JR八高線 普通 川越行(川越線直通運転)
※高麗川で、列車番号969Eから968Hに変更。
++++++++++++++++++++++
車掌の事前放送後、童謡「夕焼け小焼け」の冒頭部分の発車メロディーが鳴り響く。この曲の作詞者の中村雨紅(うこう)が、この八王子出身の由縁である。チャイムと共にドアが閉まり、定刻に発車。半分が駐車場になった元・貨物操車場を見やると、大きな左カーブを曲がって、北に進路を取り、直ぐに八王子盆地を東西に流れる多摩川支流・浅川の鉄橋を渡る。
八王子駅の北東は工業団地になっていて、有名機械メーカーの大工場が多く、新興住宅地も増えた。その工場通勤駅である北八王子と小宮に停車。北八王子は今は列車交換ができる有人の橋上駅であるが、昔は盛り土の単式ホームのみの小さな無人駅であった。小宮は非電化時代からの列車交換可能駅・元貨物駅で、地元住民の乗降が若干ある。小宮を発車し、今度は多摩川本流を長いデッキガーター鉄橋で渡り、4.8kmの長い駅間距離を走ると、拝島である。奥多摩方面の玄関口として、青梅線(おうめせん)、五日市線と八高線の3線が接続する鉄道要衝地の拝島は、平成19年(2007年)まで運転区も置かれていたが、今は、広い構内にある電留線のみが使われている。また、西武鉄道拝島線も接続しているので、乗降も多く、八王子から拝島までの乗客も多い。なお、八王子、拝島と立川で三角線を作っており、非電化時代は立川経由の方が便利であった。八高南線の電化後は、列車のタイミングさえ合えば、所要時間も変わらない感じである。
(多摩川橋梁を渡る。終戦直後、正面衝突・客車転落の大事故が起きた現場として、知られている。)
拝島で乗客が3割程度入れ替わると、北東に3本伸びる末広がりの一番東側の線路に入る。この先は、在日米軍横田基地の町・東福生(ひがしふっさ)、江戸時代からの宿場町である箱根ヶ崎(はこねがさき)、桜と茶畑の名所の金子に停車する。東福生から基地の西側に沿って走り、基地滑走路延長上の防護トンネル跡を通過すると、箱根ヶ崎に停車。近年、駅もリニューアルし、新興住宅地も広がっている。箱根ヶ崎の住宅地を抜けると畑も多くなり、駅間距離も長くなって、ローカルさが出てくる。そして、狭山茶の茶畑が見えると、金子に停車する。なお、箱根ヶ崎から金子間は、非電化時代からの八高線撮影名所である。国鉄時代の蒸気機関車、DD51形ディーゼル機関車が牽引する貨物列車や通勤型気動車のキハ35系と茶畑のコラボレーションが定番であったが、今は普通の畑や荒地が増え、茶畑も少なくなっているようである。
(金子駅手前の狭山茶の大茶畑。)
金子を発車し、西の関東山地から伸びる山裾の小さな峠を越える付近は、鬱蒼とした雑木林の中を走る。非電化時代はキハ35系が喘いだ区間であるが、軽量車体と高出力モーター搭載の今の電車はスイスイと快走する。山際からの大きな盛り土の勾配を下り、住宅が密集する平地に降りると、東飯能である。西武鉄道池袋線の接続駅であり、飯能市の中心地なので乗降も多く、半分くらいの人が降りてしまった。東飯能先も山裾の深緑の小峠を越え、八高南線最長駅間距離の5.5kmを走り切ると、電化と非電化の境である高麗川駅1番線に到着。かなりの乗客が降りてしまい、車内は1両あたり10人程度と閑散となった。対向の2番線には、高崎行きの軽快気動車キハ110形200番台の2両編成が、大きなアイドリングを鳴らしながら、乗り継ぎ客を待っている。高崎方面への乗客は意外に多く、あちらの座席は満席である。
(高麗川駅にて、八高北線のキハ110形200番台と並ぶ。なお、高麗川の地名の由来は、古代の朝鮮渡来人による。)
なお、朝夕のラッシュ時を除き、高麗川から高崎間の八高北線はワンマン運転である。南線は日中30分毎に1本の運転であるが、北線は日中60-90分毎に1本になっている。
◻︎
車掌から川越線直通川越行きである注意放送が入り、8分間停車した後に発車。構内を抜けると、90度東に曲がって、川越線の単線に入る。西側の高麗川から川越間は、この4両編成の電車で運行しているが、川越から先の大宮方面は、倍以上の10両編成の電車が運転されている。川越から東京臨海高速鉄道(りんかい線)新木場行きも相互直通運転されており、この川越線も東西でかなり運行形態が違う。そのため、このまま大宮に行くには、川越で乗り継ぎが必要になる。
高麗川からはそう距離もなく、途中駅は4駅・約20分で川越に着く予定である。このままローカル線らしい雰囲気で行くと思いきや、次の武蔵高萩から大勢の乗客が乗車し、急に混み始める。どうやら、高麗川とこの駅の間が人の流れの分水嶺らしく、沿線の住宅地化も著しいらしい。昔ながらの武蔵野の深い雑木林の中を走り抜けると、笠幡に停車。住宅が徐々に増えてくるが、まだ、線路の北側に大きな畑や雑木林が広がっているのが見える。
そして、家々が建て混んで来ると、的場に停車し、下り列車と交換を行う。この先は市街地の中を走り、入間川の鉄橋を渡ると、10時25分の定刻に川越に到着する。なお、笠幡、的場や西川越からも、どんどん乗車してきたので、川越に到着する直前には、日曜日午前中のローカル線でありながら、車内は大混雑であった。
乗客の三割程度が向かい側の大宮方面新木場行きに乗り継ぐが、改札に向かう人が多い。東武鉄道の東上本線と接続しており、その乗換客も多い様子である。もちろん、大きな商業観光地なので、川越に所用の人も多いだろう。押し出されるように改札まで出てくると、改札口横には、小さな顔出しウェルカムボードと川越のシンボル・時の鐘(江戸時代からある時鐘の櫓)の模型が展示されていた。
(JR川越駅改札口コンコース。)
(改札横の顔出しウェルカムボードと時の鐘模型。)
また、改札内コンコースには、ペットボトルのキャップアートがあり、通りがかりの地元の人達が嵌めていくらしい。色別に嵌めていくと、「ようこそかわごえ」の文字と川越のゆるキャラ「ときも」が浮かび上がる趣向である。特産のサツマイモが元ネタで、頭の黒い帽子の様なものは、時の鐘との事。
(名物のペットキャップアートの歓迎板。ホームからの階段を上がった所にある。)
◻︎
改札を出る前に腹ごしらえをしておこう。実は、朝食抜きで出てきてしまった。橋上化された改札内コンコース中央には、駅コンビニのニューデイズ、カフェのベッカーズ、駅蕎麦のいろり庵きらくが、所狭しに軒を並べている。どれもJR系の店であるのは致し方ないが、ここはお決まりの駅蕎麦店に入ろう。
(いろり庵きらく川越店。向こう側の隣には、ベッカーズがある。)
三店共に最近開店したらしく、まだ新しい。このいろり庵きらくは、国鉄食堂車を運営していた元・日本食堂系列の日本レストランエンタープライズ(NRE)の直営店で、首都圏に駅蕎麦店を多数出店しており、普通の茹で麺を提供する「あじさい茶屋」と「喜多そば」、生蕎麦と店手作りかき揚げが売りの「いろり庵きらく」がある。やはり、品代は少し高いが、いろり庵きらくの方が断然旨い。店頭の電光看板を見ると、この店限定のかき揚げ蕎麦があるらしい。折角なので、これを食べてみよう。入り口横の発券機で食券を購入する。
カウンターに食券を出し、しばらく待つ。「おまちどおさま」と、出来上がってきた。この「川越小江戸そば(税込み450円)」は、川越特産の甘藷(かんしょ/サツマイモ)をたっぷり使った、川越店限定メニューになっている。JR東日本大宮支社と地元芋掘り観光農園・山田園がコラボレーションをした新メニューとのこと。平成27年(2015年)から発売を開始し、6次産業化(※)もコンセプトらしい。
甘藷をステック状に長細くカットし、玉ねぎを少なくして、かき揚げに入れている。食べると、玉ねぎのヌルッとした油っぽさや生臭さがなく、ほんのりと芋の甘さが口に広がり、上品な美味しさである。また食べてみたいと思わせる味で、女性にもお勧めできる。
(川越店限定の「川越小江戸そば」。店内に椅子席もあるので、ゆっくり食べられる。)
◻︎
さて、腹ごしらえと飲料水の手配をしたら、改札口を出て、右手に進もう。JRと東武東上線の改札口は隣り合わせにあり、乗り換え客や観光客でごった返している。JRと東武鉄道の共同使用駅であるが、国鉄分割民営化2年後の平成元年(1989年)3月まで、東武鉄道に国鉄とJRの駅業務も委託されていた。なお、乗り換え用の中間改札は昔から設置されていない。
東武線改札口前の観光案内所に立ち寄り、町歩きマップを入手。マップを見ると、駅は町中心地の南の方にあり、観光名所の旧市街地も大分離れ、商店街の中を20分程度北に歩くらしい。そのまま、ペデストリアンデッキ(空中歩道)に出ると、駅前はかなり手狭で、デパートやスーパーなどのビルが林立し、下のロータリーに黒い巨大オブジェ【タワーマーカー】が鎮座している。「時世(ときよ)」と言う平成の時の鐘で、夜に三回光を放ちながら時報を行うそうだが、今は運用停止中らしい。新宿イーストサイドスクエアやパレスホテル東京などをデザインした都市建築デザイナーの藤田久数氏の作品で、地下駐車場の換気塔も兼ねる。
(川越駅東口ペデストリアンデッキ。)
(駅前の巨大オブジェ「時世」。色々な角度の多面体で、まるで、ビルである。)
気持ちの良い秋晴れであるが、気温が上がって、暑い位である。左手の駅前デパート・アトレの二階連絡通路を通り、階段を降りると、クレアモールと呼ばれる商店街通り【A地点】が北に延びている。東京周辺の多くの商店街は衰退しているが、ここは昔ながらに栄え、もの凄い人混みである。この先に西武鉄道の本川越駅もあり、旧市街地に向かう観光客も多いためだろう。大宮に次ぐ県下第二の繁華街になっており、自転車さえも通行に難儀する。
(川越クレアモールの様子。旧・川越街道であり、道幅も狭い。)
今風の大手チェーン店や飲み屋が多いが、昔からの地元商店も少し残っている。商店街の入り口付近には、なんと、現役の風呂桶屋【赤色マーカー】があり驚く。他に、カバンなどを売る雑貨店、化粧品店、ステンレス冷蔵ショーケースがある萩原牛鳥豚精肉店【牛マーカー】があり、年配のお母さんが自家製コロッケを店頭販売している。観光客もよく立ち止まって、コロッケを買い求めていた。
(斎藤風呂桶店は、この商店街でも異彩を放つ。桶、浴用椅子やせいろなど、ひとつ数千円から何万円もするが、モノは良さそうである。※混雑のため、帰路に撮影。)
(萩原精肉店。看板の字体と牛豚鳥の順でないところが、面白い。※混雑のため、追加取材時に撮影。)
防災を兼ねた公園「クレアパーク」と精肉店を通り過ぎた先の中間地点に、昭和14年(1939年)に飯能で創業した丸広百貨店本店【ショッピングマーカー】が構え、この商店街の中核店舗になっている。なお、丸広百貨店は埼玉県西部に10店舗を構え、駅前のアトレも丸広の経営である。また、丸広百貨店の向かいには、とても端正な寺【寺マーカー】がある。通行人は気にもせず、境内にも誰もおらず、まるで異次元のような雰囲気であるのが面白い。
(商店街の中心にある丸広百貨店本店。店内を少し覗くと、懐かしい昭和の雰囲気が残る百貨店である。※追加取材時に撮影。)
(向かいの西雲寺。街道時代の面影を残す浄土宗の美寺である。江戸時代初期の開山とのこと。※追加取材時に撮影。)
丸広百貨店の先には、昔ながらの菓子店の松屋菓子店【アイスクリームマーカー】がある。江戸時代からの特産である川越甘藷を使った芋せんべい、芋けんぴや芋納糖(なっとう)も名物になっており、他にも、懐かしい麩菓子、あられや千葉産ピーナツも並ぶ。また、団子や芋アイスクリームなどを売る甘味処も多く、川越はお菓子の町でもある。
ちなみに、この川越甘藷は江戸時代からの特産品として、「栗よりうまい十三里(川越甘藷の暗喩)」と言われる程、その品質や美味しさは指折りであった。元々は、18世紀初めに大地震や富士山の大噴火が続き、緊急の食料増産のため、当時の川越藩主・秋元喬知(たかもと)が作らせたのが始まりである(※)。
(昭和風テント看板の松屋菓子店。)
次に交差する大きな通りの左手【B地点】には、西武鉄道本川越駅の大きな駅ビル・ぺぺが見える。この本川越駅の方が、旧城下町の中心部に近く、川越中心部の三つの駅の中では、明治28年(1895年)開業と最も古い。通りを横断し、北に向かって、更に歩いて行こう。
(西武鉄道本川越駅。※追加取材時に撮影。)
(つづく)
(※6次産業)
1次の農林水産業、2次の工業、3次の観光事業の掛け算。複合的な農林水産業振興策のひとつ。
(※川越甘藷)
江戸時代初期の西暦1703年12月31日、江戸でも約3万7千人の死者を出した元禄大地震が発生した。翌年の1704年10月4日には宝永大地震、同年11月20日には富士山の大噴火があり、関東も火山灰の大被害があった。これらの天災、凶作や水害も続き、領内も動揺していた。藩主の秋元喬知は、前赴任先の甲斐谷村藩から職人達を招き、殖産事業を進めた。なお、江戸日本橋から川越までの距離は、本当は10里であるが、「九里(栗)四里(より)うまい十三里(9+4=13)」に洒落をかけている。
【参考資料】
時薫るまち 小江戸川越散策マップ(小江戸川越観光協会・2016年)
瓦版川越今昔ものがたり(龍神由美・幹書房・2003年)
2017年11月1日 ブログから転載。
© 2017 hmd all rights reserved.
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。