腹ごしらえが済んだら、散策の再開である。後半は、駅前大通りの富士見通り南側の寺社エリアを散策してみよう。江戸時代には、より多くの寺社があったが、明治時代に合併・統合されたという。現在は、商業地区と混在するエリアになっている。
富士見通りの沿い右手には、本堂の大屋根が目を引く光明寺【赤色マーカー】がある。鎌倉幕府の滅亡直後の建武2年(1335年)創基の日蓮宗の大寺で、内房エリアの布教拠点であった。俳人の小林一茶も、江戸時代後期の文化8年(1811年)に、参詣したと伝えられている。また、寺裏の墓地には、世話物歌舞伎の名作「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」のモデルとなった主人公の与太郎こと、「切られ与三(よさ)」の墓がある。歴代人気歌舞伎役者の公演成功祈願の参拝も多いという。
(吉祥山光明寺。本堂は海に向かって、建立されているので、山門とは直角になっている。)
(屋根付きの「切られ与三の墓」。)
光明寺から三本先の交差点角には、メタボ体型のまちなか狸の像【黄色マーカー】が、歩道際に鎮座する。また、近くの明治初期創業の老舗和菓子店・榮太郎の狸大看板【緑色マーカー】も、昭和レトロ風で名物になっている。
(榮太郎の名物・狸大看板。手にしているのは、和菓子では無く、酒であるのが面白い。)
ここの弁天通りに入って行こう。しばらく歩くと、昭和の看板建築商店が右手に並んでいる【カメラマーカー】。店名が左書きなので、戦後高度成長期のものであろう。大通り側から、はんこ屋「精美堂印房」と喫茶店「アメリカンクラブ」が同じ建物に入り、文具店「塩条商店(廃業)」、理容店「ヘアーサロンおおいわ理容館」になる。今日は休日なので、シャッターが締まってるが、文具店以外は営業しているとの事。
手前のテント骨組みが残る建物は、元々は、「あさくら」という店が入っていたらしい。残っている看板が一部脱落し、「朝倉◯具展(丸の文字は不明)」と「ストアー」の文字しかないため、業種は不明である。
(戦後昭和看板建築商店群。)
80m先の交差点まで進むと、二車線の通りに接続する変形の十字路に出た。その角に小ぢんまりとした弁財天厳島神社【青色マーカー】が鎮座している。社殿横には小さな神池があり、可愛らしい赤金魚が沢山泳いていて、楽しませてくれる。背の低い古い石鳥居には、江戸時代後期の文政7年(1824年)の刻印があり、毎年10月15日には「柿まつり」で賑わうとの事。この神社の社殿彫刻は、安房国の有名な宮彫師「波の伊八(いはち/武志伊八郎信由)」の作と伝えられている。その異名の通り、波の彫刻が非常に優れ、葛飾北斎のあの代表作「神奈川沖浪裏」の作風に大きな影響を与えたという。
(弁財天厳島神社。社殿の伊八彫刻は、木更津市の文化財に指定されている。)
(神池を泳ぐ赤金魚たち。)
弁財天の斜め向かいには、昭和7年(1932年)創業の老舗蕎麦屋「生蕎麦ふじや」【食事マーカー】が構える。相当な傷み具合であるが、とても大きな木造建築になっている。この門前町での会席宴会等によく使われたのであろう。昭和34年(1959年)築らしい。なお、この二車線の通りは、内房エリアを縦貫する昔の房総往還とのこと。館山から北上する鎌倉時代からの古道である。
(生蕎麦ふじや。かなりの草臥れ具合なので、入店は少し勇気が要る感じである。)
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弁財天前から房総往還の駅方向を見ると、八剱八幡神社(やつるぎはちまんじんじゃ)【鳥居マーカー】の鳥居が見える。木更津の総鎮守となっているので、車の出入りや参拝者も多い。ちょっと、立ち寄ってみよう。
日本武尊命(やまとたけるのみこと)が、東征の戦勝祈願をした神社と伝えられている。以降、東京湾中央部の守護神・木更津一の大社としてとして祀られ、毎年7月例祭に現役関東一の大きさとされる大神輿が町に繰り出す。本殿奥横に行くと、巨大な神輿保管庫があり、写真付きの解説板も立っている。また、千葉テレビのご当地特撮ヒーロー番組「鳳神(ほうじん)ヤツルギ」の元ネタである。本編は第6シリーズ、スピンオフや派生番組まで制作され、地元では大人気番組とのこと。木更津やこの神社でロケも行われ、駅前デパート一階にアンテナショップ兼飲食店もあり、大型液晶ディスプレイの無料放映も行っている。
(八剱八幡神社。)
参拝してみよう。やや小振りながら、向拝(こうはい)が大きく盛り上がった立派な造りである。現社殿は、江戸時代中期の安永二年(1773年)再建とされる。江戸の大火から逃げてきた狩野派絵師作の162面の格天井(ごうてんじょう)装飾画があるという。近年、修復され、往年の色彩を取り戻しているとの事。木更津船「五大力船」が描かれた、絵入り絵馬が名物になっており、沢山の絵馬が奉納されていた。
(拝殿。)
(拝殿前の絵馬掛け。)
拝殿横には、源頼朝のお手植えの蘇鉄(そてつ)の木がある。君津市草牛(そうぎゅう)にある森家から譲り受け、境内に移植したもので、源頼朝が森家で饗しを受けた際にお礼として植えたと伝わる。また、頼朝が木更津を通過した際、この神社に戦勝祈願をした。鎌倉幕府が開くと、頼朝から神領が奉納され、社殿を造営したという。
なお、上総と安房(あわ)は、平氏に一度敗北した源頼朝が相模国真鶴から逃げ落ちて、再起を図った地である。地元有力豪族の安西氏、千葉氏や上総(かずさ)氏等の協力を得て、鎌倉幕府の成立まで進んだ。その由縁から、千葉県中南部には、源頼朝にまつわる伝承も多い。
(源頼朝のお手植えと伝わる蘇鉄の木。)
この散策の締めに、木更津のアイドル狸の元祖となっている、證誠寺(しょうじょうじ)【万字マーカー】に行ってみよう。山名は護念山(ごねんざん)、江戸時代初期の創基と比較的新しい寺である。
弁財天前の房総往還をそのまま西に少し歩き、矢那川と突き当たる場所にある。あまり寺らしくない雰囲気の寺入口であるが、奥は小さな森になっているらしい。なお、道路寄りの参道は、舗装道路と駐車場になっていて、山門や仲見世は無い。
(證誠寺参道。)
木更津の町中かと驚く程、とても静かで、全く違う雰囲気が漂っている。かつて、鈴ヶ森と呼ばれる深い森が広がっており、ここは町の外れであった。
綺麗に掃き清められた石畳を歩いて行くと、本堂前に直ぐに到着。小規模な寺であるが、手入れが行き届いていて、気持ちが良い。また、木更津唯一の浄土真宗西本願寺派の寺院で、木更津を代表する観光寺でもある。江戸時代、浄土真宗信者の多い上方(かみがた/京都や大阪などの関西方面)から移住して来た商人達が、最初の檀家になったと伝えられている。
(本堂。木々が多いので見えないが、参道の左手に狸庭園、右手に鐘楼・信徒会館や庫裏がある。)
(本堂軒下に掲げられている狸奉納。戦前の昭和12年3月吉日の記しがある古いもの。)
本堂前の矢那川沿いには、美しい狸庭園が整備されており、自由に散策が出来る。入口横の石碑には、第十二世住職の就任記念として、2006年(平成18年)に整備されたとある。入口の近くには、とても大きな童謡碑が建立されており、歌詞の一部「つ、つ、月夜だ 皆出て来い来い来い。おいらの友達ちゃ ポンポコポンのポン」と刻まれている。五線譜のレリーフ板も埋め込まれている豪華な造りである。
(童謡碑。裏手には矢那川が流れる。)
庭園の一番奥に行くと、ボスの大狸を埋葬したと伝えられる狸塚がある。昭和4年(1929年)に童謡の大流行を記念し、町が建立したもので、とても古そうな狸の置物も傍らに佇んでいる。
(狸塚。後ろの建物は、現在使われている納骨堂である。)
この證誠寺の狸伝説について、触れてみたいと思う。昔、この矢那川付近は、昼間でも薄く暗くなる程、鬱蒼と木々が生い茂っていた。夜になると、物の怪(もののけ)も出るといわれ、町の人々も近づかなかった。しかし、この荒れ落ちぶれていた寺に、ある和尚が住む様になる。ある夜中、和尚が目を覚ますと、庭の方が大層騒がしく、そっと節穴から覗いてみると、昼間の様な明るい月明かりと秋萩の花盛りの下、大小の狸数十匹が輪になっていた。
証城寺山のペンペコペン 俺達の友達やドンドコドン
狸達は腹太鼓をしながら、踊っている。和尚も面白くなり、得意の三味線を抱えて、毎晩一緒に踊った。ところが、ある日、狸達が全く姿を見せなくなったので、不思議に思っていた所、輪の中心で音頭を取っていた大狸が藪の中で腹を破いて死んでいた。和尚は気の毒に思い、塚を造って、厚く供養したという。
(狸庭園に佇む古狸像。)
あくまでも伝説であり、発祥の時期は判っていない。なお、真言宗が圧倒的であった内房エリアでは、浄土真宗の寺として珍しく、踊りや歌いながらの念仏(踊り念仏)や雅楽を用いた法要等の独自のものがある。信者達の歌や打ち鳴らす鐘の音は遠くで聞くと、腹太鼓の様に聞こえた事が由来らしく、鈴ヶ森の独特な風土と結びついたらしい。
そして、この狸伝説をモチーフにして、大正時代の童謡界三大詩人・野口雨情(うじょう)が狸囃子の童話を創作。大正14年(1925年)に巨匠作曲家・中山晋平(しんぺい)の曲を得ると、全国に大流行した。また、戦後の昭和31年(1956年)には、両先生の直筆が発見され、境内の童謡碑が建立されている。
(YouTube「証城寺の狸囃子(歌付き)」※音量注意、再生時間約1分。)
なお、童話の寺名は、「證<城>寺」であるが、実際の寺名は、「證<誠>寺」になっている。理由は判っていないらしいが、木更津市史によると、モデルとなった寺名を隠し、一般的な童謡として広める為とされている。この證誠寺をモデルに別の寺をイメージして創作した説や、「夜中に狸囃子で大騒ぎするのは不謹慎だ」と、当時の住職が猛抗議した説もある。
いずれにしても、親しみやすい、楽しい童謡には変わりがない。この証城寺の狸囃子を口ずさみながら、駅に戻るとしよう。
「しょう、しょう、しょうじょうじ、しょうじょうじの庭は・・・♪」
(ゆったりと流れる矢那川と證誠寺の森。)
(おわり/JR久留里線編)
◆取材旅程表◆
【本取材】
平成28年(2016年)5月5日
【追加取材】
平成28年(2016年)5月8日、平成29年(2017年)3月19日と20日、同年4月30日。
【カメラ】
PENTAX MX-1(2016年度)、RICOH GRII(2017年度)。
【乗車本数】
下り4本、上り4本(本取材時)
【駅訪問】
木更津、東清川、横田、馬来田、小櫃*、久留里、平山、上総松丘*、上総亀山の9駅。
(*印は追加取材時に訪問。)
【利用した飲食店・地元グルメ】
木更津・木更津駅そば きつねうどん(本取材朝食時)
木更津・浜屋 BBQ弁当(木更津観光追加取材時)
木更津・浜屋 あさり飯(木更津観光追加取材時)
久留里・喜楽飯店 特製ラーメン&チャーハン(本取材昼食時)
久留里・手打ち蕎麦処藤美 手打蕎麦ランチセット(久留里観光追加取材時)
久留里・ティールームエリー アイスコーヒー&アイスクリーム(追加取材時休憩利用)
平山・志保沢商店 魚肉ソーセージ入り焼きそば(平山駅追加取材時)
上総亀山・亀山やすらぎの館レストラン アイスコーヒー(本取材休憩時)
【本取材行路表/平成28年(2016年)5月5日】
木更津820 下り久留里行(ワンマン運転 ★木更津観光(追加取材)
840
横田937 下り久留里行(ワンマン運転)
947
馬来田1023 上り木更津行(ワンマン運転)★うまくたの路ハイキング(追加取材)
1038
東清川1124 下り久留里行(ワンマン運転)
1157
久留里1350 下り上総亀山行(ワンマン運転)★久留里観光
1408
上総亀山1715 上り久留里行(ワンマン運転)★亀山湖観光
1727
平山1826 上り久留里行(ワンマン運転)
1832
久留里1845 上り木更津行(車掌乗務あり)
1930
木更津
【追加取材】
平成28年(2016年)5月8日
久留里〜上総亀山間撮影・線形調査・久留里追加取材・小櫃駅訪問
平成29年(2017年)3月19日
久留里神社・志保沢商店・上総松丘駅・第一小櫃川橋梁・図書館調査
平成29年(2017年)3月20日
木更津観光
平成29年(2017年)4月30日
うまくたの路ハイキング・小櫃白山神社・久留里〜木更津間撮影
【主な参考資料】
(1)房総ローカル線歴史紀行(伊藤大仁・崙書房・1990年)
(2)第42回上総地区文化祭特別展「JR久留里線開業100周年 1912-2012の軌跡(改訂版)」
(君津市上総公民館・2012年)
(3)平成16年度企画展「地方鉄道久留里線の軌跡」(君津市立久留里城址資料館・2004年)
(2)と(3)は、上総地域交流センター内の君津市立中央図書館上総分室所蔵。
平成29年(2017年)3月19日調査。主に歴史事項の裏付け確認に使用。
【旅費】
JR東日本企画きっぷ「休日おでかけパス」(1日フリー乗車券) 2,670円×5=13,350円。
※食費・雑費等は別途。
(※歌舞伎「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)について)
初演は嘉永6年(1853)。死んだと思っていた恋人同士が再会する悲恋話である。主人公の与三郎のモデルは、木更津の紺屋で働いていた職人で、実話をもとにしている。通称の「切られ与三郎」とは、お富を妾にしていたヤクザの親分に見つかり、なぶり斬りにされ、体に傷があることから。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
ぶらり木更津まち歩き(みなと木更津再生構想推進協議会・2014年/現地観光所で入手)
史跡探訪 関東100選[下](関東歴史教育研究協議会・山川出版社・1991年)
2018年5月19日 ブログから転載
2024年8月27日 文章校正・修正
【リニューアル履歴】
2024年8月27日 久留里線編全話
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