明知線紀行(7)日本大正村 後編

旧・明智小学校(現・絵画館)の横道の坂を上がると、純白の壁が印象的な大正浪漫館【茶色マーカー】がある。昭和になってから建てられた建物で、古い洋館では無いが、日本大正村のゲストハウスとして使われている。また、大きなバラ園も整備されている。
マピオン電子地図 ・大正浪漫館

館内では、明智町出身の有名画家・山本芳翠画伯の絵画、大正時代をテーマとした展示や喫茶室も設置されているので、ゆっくり出来る(外観とバラ園見学は無料、館内入場は有料)。


(大正浪漫館。)

ここからは、眼下に明智の街並みを眺められる高台になっている。明智盆地は意外に狭く、住宅が密集しているのが判る。なお、降雪は少ないが、冬の冷え込みは厳しく、氷点下15度まで冷え込む事があるらしい。


(明智の町並み。)

大正ロマン館の北側には、慶長20年(1615年)に江戸幕府の一国一城令で、明智城の廃城後に置かれた遠山家の明智陣屋跡【黒色マーカー】がある。


(陣屋跡の門柱。)

かつてあった明智城は、白鷹城とも呼ばれ、鎌倉時代の宝治元年(1247年)に、遠山家の始祖・遠山三郎兵衛景重(かげしげ)によって築城された。遠山家の十八ある城の中でも、重要な役割を担う山城として、代々の居城であった。しかし、戦国時代の軍事上の立地の重要さから、甲斐の武田家と尾張の織田家との天下統一の抗争の舞台になり、遠山家もその抗争に巻き込まれてしまった。

天下分け目の慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いの際、この明智周辺は、石田三成側の西軍に付いた田丸氏が治めていた為、徳川家康側の東軍に付いていた遠山利景(とうやまとしかげ)は、家康の命令により、この遠山家の縁の地と明智城を奪還した。その功績により、大旗本として取り立てられて、この地を再び治めている。一国一城令が発布された際、岩村城を本城とする為に明智城は取り壊され、この大手門近くに陣屋を建て、江戸に藩邸が与えられた。

大正ロマン館の裏手には、旧家の三宅家(みやけけ)【橙色マーカー】がある。江戸時代、明智城主の遠山家に仕えていた家老の四代目伊賢が、明智町の馬木地区で農業に従事し、五代目の与次郎重正がこの母屋を建てた。保存の為に、馬木から、この場所に移築されたものである。


(三宅家住宅。家老級の家柄であるので、豪邸である。)

江戸初期の元禄元年(1688年)の建築で、広く立派な土間や座敷の他、冬は気温が低く厳しい気候の為、馬屋が母屋内にある。完全な形で残っている築300年以上の茅葺き農家は、国内でも大変珍しく、映画やテレビのロケにも、よく利用されている。


(屋内の様子。)

外は、暑い位の春の暖かさであるが、屋内は、萱から出る気化熱で涼しい。土間や囲炉裏の座敷も状態が良く、数人の地元の人や観光客がのんびりと、お茶をしている。裏手には、きちんと蒔が積んであり、この茅の厚さにも感心する。


(裏手の薪積み。)

坂を下り、大通りの交差点まで戻ろう。大通りを左に曲がって、北から南に歩いて行く。この通りが南北街道であり、両側に民家や商店が軒を連ね、大正から昭和中期頃の街並みの雰囲気を残すメインストリートになっている。

暫く歩くと、明治8年(1875年)に、この東濃エリアで最初に開局した旧・明智郵便局【郵便マーカー】がある。大正時代に出庇と欄間風の彫り物を加え、外装をペンキ塗りにしたモダンな建物になっている。今は、郵便や電信電話の資料館になっており、隣の白い建物が現在の郵便局である。
マピオン電子地図 ・旧明智郵便局


(旧・明智郵便局。出入口の車寄せが、特徴的である。)

郵便局の向かいには、大正初期に設立された濃明銀行の蔵「銀行蔵」【円マーカー】がある。当時、養蚕農家に原繭購入資金の融資等を行った東濃エリア最古の地元資本興業銀行である。なお、この郵便局と銀行周辺が、明治・大正時代から町一番の商業中心地であったらしい。建物が立派で大きく、道いっぱいに下がっても、カメラのフレームに入り切らない程である。

蔵は二棟あり、大正初期建築の白壁木造二階建ての東棟と、奥に100畳敷き木造一部四階建て、手動エレベーター付きの巨大な西棟がある。この蔵には、銀行が買い取った繭や農家から担保として預かった繭を保管していた。当時は、町の栄華を象徴した建物であり、今は、資料館になっている(館内入場は有料)。


(濃明銀行の蔵「銀行蔵」。)

銀行蔵の左隣には、大正村の館【灰色マーカー】が並んでいる。米穀商の後、医院を開いていた地元有力者の橋本家の邸宅になる。明治末期の建築で、大正の生活の様子や民具が展示されており、屋内見学も出来る。


(大正村の館。旧・橋本家。)

所々に置いてある街角消火器箱も懐かしい。古い木造建築が多いので、火事には、特に気を付けているらしい。


(昭和風の消化器箱。)

明智郵便局前【郵便マーカー/A地点】から、更に、南北街道を南に歩いて行く。今日は祭りなので、駐車場等の空きスペースには、出店が沢山出ていて賑やかである。大道芸、紙芝居、昔懐かしいゲームコーナーや地元有志の戦国時代の甲冑武士行列もあり、イベントも目白押しになっている。


(南北街道の町並み。古い建物と新しい建物が混在する。)

古い商店が軒を連ねる中を歩いて行くと、南北街道と中馬街道(ちゅうま-)のふたつの主要街道の交差点、所謂、「辻」に差し掛かる【カメラマーカー】。左の細い道が中馬街道、右の大きい道が歩いて来た南北街道になる。この辺りは、旧街道時代の中心地で、建物が道の形に合わせて、細くなっているのが面白い。この辻から、南は奥三河・岡崎へ、北は木曽・中山道へ、東は信州の伊那(いな)・塩尻・長野へ、西は尾張へと結んでいた。
マピオン電子地図 ・南北街道と中馬街道の街道辻


(辻から、南北街道の北行きを望む。左の小道が、中馬街道の西行き。)

(南北街道北行き辻並びの古い商店。)

東の信州に行く中馬街道に入ると、古い佇まいの旅館さつき【赤色マーカー】がある。部屋数5室のみの大正時代建築の純和風旅館で、庭園や檜風呂もあり、一度、泊まってみたい。1泊2食付きで、8,000円から泊まれるらしい。


(旅館さつき。)

西の尾張に行く中馬街道を少し入ると、うかれ横町【黄色マーカー】と呼ばれる場所があり、渡り廊下が道の真上に架かっている。明治から大正の生糸生産が全盛の頃、この辺りは歓楽街で、表の南北街道沿いに料亭が並んでいた。右にある芸妓置屋から、左にある料亭の席へ芸妓が通った空中廊下で、学術的・民俗学的に大変珍しいと言われている。


(うかれ横丁の渡り廊下。)

まだ、沢山の見所があるが、時間も少ないので、駅に戻る事にしよう。他にも、大正時代の病院(現・回想法センター)、おもちゃ博物館、遠藤家屋敷跡や資料館がある。3時間程度あれば、代表的な場所は観光ができ、じっくり見るならば、半日必要であろう。

日本大正村公式HP

(つづく)


【参考資料】
現地観光案内板・解説板
大正村公式HP

2017年7月30日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
2017年7月30日 音声自動読み上げ校正

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