明知線紀行(5)明智駅

恵那駅から乗車して来た列車が、折り返し発車するまで、この明智駅の見学をしよう。明智は、周りを山に囲まれた高原地帯の盆地の町になっており、昔、この美濃東部(東濃/とうのう)を治めていた遠山家が、築いた小さな城下町である。町名から、織田信長に仕えた明智光秀を思い出し、ここが出生の地との説もあるが、同じ美濃の太多線沿線の可児市(かに-)明智にある明智長山城の出生の説が有力になっている。

また、信州下呂(げろ)と三河を結び、塩や織物を運んだ南北街道と、信州南部と尾張を結び、繭等を運んだ中馬街道(ちゅうまかいどう)が交差する要衝地で、宿や馬屋も多く、伊勢参りの人々も往来して、町は大変賑わった。明治以降は、養蚕や製糸業、現在は、観光と窯業(セラミックス製造)が盛んになっている。因みに、時代劇でおなじみの江戸名奉行「遠山の金さん」は、ここの遠山家の子孫に当たる。

海抜は500m近いので、高原の清々しさを感じる。しかしながら、暑い位の日差しと気温である。ホームにある国鉄風の駅名標は、終着駅の隣駅の片方は空白が多いが、洒落で、「日本大正村」と書かれている。なお、町名の漢字に合わせた為、「明知」から「明智」に漢字が変更になっており、社名の漢字「明知」と異なっている。

この明智駅は、1934年(昭和9年)6月に、岩村駅から延伸開通した際に開業。国鉄飯田線浦川駅と国鉄二俣線二俣駅(現・天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅)を経由し、東海道本線の掛川駅まで至る大鉄道構想であったが、ここから鉄路が延びる事は無く、盲腸線の終着駅になった。起点駅の恵那から25.1km地点、所要時間約1時間、所在地は恵那市明智町、標高448m、終日有人駅であり、明知鉄道の本社も置かれている。また、名古屋鉄道広見線に同名の駅があり、同じ県内にあるのは珍しい。


(国鉄風の駅名標。)

終着駅であるが、小さな単式ホームがあるのみで、幅はとても狭い。旅客上屋も駅舎から庇が少し出ている程度である。


(単式ホームの終着駅。)

(明智駅ホームと旅客上屋。)

折り返しを待つ上り12D列車・12時57分発恵那行きが、発車を待っている。先程の急坂は30‰(パーミル)もあり、駅のホームから見ても、凄い急勾配であるのが判る。なお、30‰級の急勾配は、本線上に四カ所もあるそうで、安全対策の為、気動車のブレーキシステムは三系統も搭載している。


(恵那方と30‰の急勾配を望む。)

駅舎の南側並びには、転轍機てこ小屋が残っており、信号機と分岐器(ポイント)の操作てこがある。腕木式信号は撤去されて自動化しており、ワイヤーも外されているが、まるで、老兵の様に佇んでいる。奥の「指差確認」の注意書きも、そのままになっている。南隣は危険物庫であるが、木造なので、戦後のものであろう。


(駅舎並びの転轍機てこ小屋兼危険物庫。)

(転轍機操作てこ。)

単式一線のシンプルなホームは、終着駅としては小さなもので、車止めも無く、奥の検修区(車両整備工場)と車庫にそのまま接続している。車庫前のレバー式手動転轍機は、よく整備されていて、油染みも美しい。


(奥にある車庫と車両検修区。)

改札を通り、駅舎内に入ってみよう。一部手直しされている様であるが、古い国鉄時代のままであるのが嬉しい。15畳程の広さの待合室は、天井は高いグレーのペンキ塗りの板張りで、ストーブ煙突穴もあり、レトロ感を醸し出している。なお、自動券売機は設置されておらず、昔ながらの硬券切符を出札口で発券している。明知線の硬券切符の発売駅は、恵那駅、岩村駅、この明智駅の三駅である。明智駅以外は、窓口営業時間が限定されているので、収集時には注意である。


(改札口と出札口。駅舎は小さめであるが、天井が高く、開放感がある。)

(天井は高く、グレーに塗られた羽目板が並んでいる。)

どことなく懐かしい出札口の「きつぷうりば」の平仮名文字と、その上の白熱灯が良い雰囲気である。先程の極楽駅までの切符も、縁起物として販売されている。また、左側の鉄道手小荷物窓口(チッキ)や駅事務室出入口も、ほぼ原形のままである。


(出札口と鉄道手小荷物窓口跡周辺。)

外に出てみよう。昭和9年(1934年)6月に開業した明智駅は、「中部の駅100選」に選ばれ、白壁と黒い瓦葺屋根の平屋木造駅舎は、古き良き国鉄時代の雰囲気を残す。出入り口横の昔ながらの赤い円形ポストも、アクセントになっている。


(大正村入り観光駅名標と英語駅名標が掲げられている。)

(駅前からの明智駅。)

駅前には、車が転回出来る程度の広場があり、左手には、遠方を結ぶバス発着場がある。この先の山間にも、小さな谷間が多くあり、集落が散在している。

この「とうてつバス」こと、東濃鉄道株式会社(とうのう−)は、中央西線多治見駅から笹原駅を結ぶ笹原線(非電化4.6km・1978年廃止)と中央西線土岐市駅(ときし-)から東駄知駅(ひがしだち-)を結ぶ駄知線(だち-/電化10.4km・1974年廃止)のふたつの鉄道路線を経営していた鉄道会社であった。社名はそのままになっており、本社は多治見市にある。


(とうてつバス。今は、名古屋鉄道グループになっている。)

駅から約100m北に踏切があり、明智駅構内が一望出来るので、行ってみよう。手前右側は、洗浄線(洗車場)があり、天気も良く、足場に布団を干している。その右側には、平屋建ての乗務員詰所(待機宿泊所)がある。

構内は意外に広く、かつての貨物側線もあり、奥に大きな車庫が並んでいる。また、線路に並行した「ハエたたき」デザインの電柱も懐かしい。鉄道用の電信ケーブル線で、主要幹線になると、ハエたたきの様に大きかった事から、そう呼ばれていた。


(明智駅構内全景。)

出発を待つ列車に、ひとり、またひとり、と間隔をあけながら乗車している。なお、現在の洗浄線の場所に、蒸気機関車の機関庫と給水塔があり、貨物ホームが車庫付近にあった。

明知鉄道の主力であるアケチ10形は、富士重工業製のLE−DC形軽快気動車として、初めて開発された車両で、以降の第三セクター鉄道やローカル民鉄向けの標準的仕様になっている。現在、10、11、12、13、14の5両があり、10と14はロングシート車、他はセミクロスシート車になっている。また、旧型気動車のアケチ6形(6)ロングシート車も1両あり、全6両が在籍している。

ホームには11、車庫内に12と14が見える。全長15mと小さい車体の為に自重は26.0tしかなく、気動車としては、かなりの軽量車両になっている。なお、旧型のアケチ6形は、名物の懐石料理のイベント列車や予備車に使われている。

因みに、国鉄時代は、軽量小型なタンク式蒸気機関車のC11形やC12形が運用され、最後まで活躍した蒸気機関車はC12-230号機だった。昭和48年(1973年)の旅客無煙化後は、ツーエンジン搭載の勾配線区用気動車キハ52形120、121、122、123、136と137の計6両が運用され、1日9往復程度運行されていた。

踏切板上から、恵那方の30‰(パーミル)の上り勾配を望むと、大変な急坂である事がよく判る。隣の野志駅までは、2kmの駅間距離があり、この坂で高低差50mを登る。突然、踏切の警報機が鳴り始めると、定刻の12時57分、タイフォンを鳴らし、上り列車が発車。大勢の乗客を乗せて、全力で急坂を登り、遠いジョイント音がレールに響いて来る。線路際の菜の花と家庭菜園が良い感じで、深い山里の穏やかな春を感じさせてくれる。


(上り恵那行き列車が発車。)

(上り列車が登って行く。)

(つづく)


2017年7月29日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
2017年7月30日 音声自動読み上げ校正

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