湊線紀行(2) 勝田から那珂湊へ

湊線こと、ひたちなか海浜鉄道の旅を始めよう。旅のスタートはとてもウキウキとする。今旅は1泊2日の予定になっており、1日目の今日は起点駅の勝田から殿山(とのやま)間と那珂湊(なかみなと)散策、2日目の明日は殿山から終点駅の阿字ヶ浦(あじがうら)間、国営ひたちなか公園散策と海岸歩きをしてみたい。路線長は15kmもないが、沿線の見所は沢山あり、鉄道のみならず、それがこの湊線の最大の魅力になっている。長年通った総集編として、たっぷりとお伝えしたい。

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勝田727======754阿字ヶ浦
下り阿字ヶ浦行(←キハ11-6+11-5・2両編成・ワンマン運転)

【停車駅一覧(下り)】

勝田 起点駅・JR接続駅

↓ 0.6km・1分

日工前 無人駅・元工場従業員専用駅(幽霊駅)

↓ 1.2km・3分

金上(かねあげ) 無人駅・列車交換可能駅・線内最新設備

↓ 3.0km・4分

中根 無人駅・大水田地帯の秘境駅・元列車交換可能駅

↓ 2.3km・3分

高田の鉄橋 無人駅・最も新しい追加設置駅・国道陸橋の真下

↓ 1.1km・2分

那珂湊 終日社員有人駅・本社所在中核駅・湊機関区
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朝の7時台なので、少し早い。先ずは、終点の阿字ヶ浦まで折り返してこよう。線路も撮影するため、元・JR東海キハ11形の2両編成の最後部に居座る。ワンマン運転なので、車掌は乗務していない。なお、運転士の横や背後での撮影は厳禁である。撮影動作やシャター音などで運転士の注意力が削がれる。大勢の人命を預かっていることを念頭に置かなければならない。

自動案内放送の後、駅員ではなく、運転士がホームに出て、発車ベルを鳴らす。改札口からの駆け込み乗客がいないのを確認してから、戸締めし、乗務員室に戻る。列車は定刻の7時27分に発車。「ドドドド」と独特な乾いたカミンズエンジンサウンドが立ち上がり、軽快に加速していく。かつての国鉄気動車に搭載された180馬力程度の非力なディーゼルエンジンと比べ、300馬力オーバーを誇るカミンズエンジンは、日本の気動車の動力革命をしたエンジンともいえ、加速性能は電車並みを誇る。なお、スポーツカーはそれ以上の馬力もあるが、レール上の摩擦係数が非常に小さいため、その約10倍に相当する。1両約30トンある車体や急勾配もものともしない。このキハ11形は、20パーミル(※)の急勾配も時速60km以上で登坂できるという。

ホームに沿った緩いカーブをこなすと、右手の常磐線下り線と暫く併走する。イン・アウトのふたつの渡り線があるが、今は使われていない。かつては、この渡り線を使い、関東各地からの直通海水浴列車が乗り入れていた。


(勝田駅と渡り線。線路は左手から、常磐線下り線いわき方面・常磐線上り線上野方面・湊線が並ぶ。※列車最後尾から、後方の勝田方を撮影。以下同。)

500m程並走すると、湊線は大きく左にカーブして、常磐線とお別れになる。短い直線に一度戻り、もうひとつの緩い左カーブに差し掛かると、最初の停車駅である日工前(にっこうまえ※)駅に停車する。元々は、日立工機の従業員専用通勤駅として、昭和37年(1962年)に設置され、平成10年(1998年)12月までは、一般乗客の乗降が出来なかった駅である。昭和のみならず、平成までも、乗降制限があったのは大変珍しい。当時は、時刻表や運賃表に未掲載の上、朝夕各1本の通勤列車しか停車せず、他の列車は通過したので、鉄道ファンの間では幽霊駅としても有名であった。周辺の宅地化や商業施設設置が進んだため、地元からの陳情により、開放したという。

なお、武平(ぶへい)鉄道の由来になっている旧字(きゅうあざな)の武田であるが、この駅の西側エリアにあたり、なんと、武田信玄で知られる甲斐(かい)武田氏の発祥の地である。他の豪族との勢力争いにおいて、あまりもの荒っぽさから朝廷に訴えられ、甲斐(現・山梨県)に配流(流刑)されたという。


(日工前駅を発車。復原された武田氏館までは、徒歩20分程度である。後ろに見えるタワーは、日立製作所のエレベーター研究塔G1タワーで、高さは213mあり、世界一の高さを誇る。ひたちなか市の新しいランドマークになっている。)

(ドリルが描かれたアート駅名標。現在の日立工機は、電動工具の大手メーカーになっているが、元々は軍需工場であった。※追加取材時に撮影。)

日工前駅を直ぐに発車。ほぼ平坦の若草の中の直線線路を時速50kmで走る。進行方向左手には疎らな住宅地、右手には県道が並走し、陸上自衛隊勝田駐屯地が見える。太平洋戦争中の勝田は軍郷(軍都)であり、先の日立工機も機関銃などを作る大きな軍需工場であった。戦争末期、アメリカ海軍の艦砲射撃を受け、工場は壊滅したという。


(日工前から金上間の直線区間を快走する。左手の森が自衛隊駐屯地。)

(陸上自衛隊勝田駐屯地正門。壊滅した軍需工場跡に終戦後開設された。道路や橋を架ける部隊の学校や通信隊が置かれ、災害時派遣も行っている。また、勝田の桜の名所でもある。※追加取材時に撮影。)

1kmほど走ると、最初の列車交換可能駅である金上(かねあげ)駅に停車。昭和3年(1928年)7月開業の追加設置駅で、元々は列車交換設備があったが、撤去され、平成22年(2010年)に復活している。その際、ホームと駅待合所を勝田寄りに移設しており、設備は真新しい。ホーム西側には、貨物ホーム跡と石蔵の倉庫が残る。また、勝利と金運上昇の縁起に乗じ、勝田から金上間の縁起切符も発売されている。


(金上駅を発車する。列車交換可能駅であるが、終日無人駅になっている。ホームの那珂湊方に、三角屋根の待合所兼自動券売機切符売り場や構内踏切がある。)

(戦闘機と戦車をデザインしたアート駅名標。戦争末期、勝田に大きな軍需工場があり、阿字ヶ浦にも陸軍飛行場があったため、アメリカ軍が上陸する噂が町に広まったという。※追加取材時に撮影。)

(ホーム向かいの石蔵。もう一本、ここに側線があった。線路側にも扉があり、貨車を横付けして積み下ろしをしていたらしい。※追加取材時に撮影。)

数人の地元住民が下車をすると、直ぐに発車する。住宅地の中の堀り切りが徐々に深くなり、大きく左カーブをして、大きな木立の中に入ると、線内最急勾配10パーミルの下り勾配区間に入る。


(台地から降りる10パーミルの急勾配区間。この区間下には、先の東日本大震災時、近くの溜池が決壊したため、道床が大規模に流失した災害箇所跡がある。)

ここは、勝田周辺の台地から降りる崖の部分で、急勾配区間の長さは約1kmあり、この勾配を下り切ると、左窓に大水田が広がる谷間に出る。谷は北西・南東方向に細長く、中央に中丸川が流れている湊線最初の見所である。谷の南西側の山際に線路が寄っているのは、台地上にある金上地区は水利が悪く、僅かな水田の水源が線路敷設で遮断されるのと、洪水時の安全のため、地元住民から要請を受けたためである。また、カーブも少なくなることから、谷間の中央部から現在のルートに変更したという。

田に水は張ってあるが、田植えの直前で緑は少ない。初夏から秋までは、大変美しい田園風景が眺められ、沿線の代表的な撮影地になっている。なお、那珂川は沿線から全く見えない。


(金上から中根間の大水田を望む。※列車後方の勝田方を撮影。以下同。)

なお、湊線は地方ローカル線でありながら、茨城交通時代にレールの重軌化(※)やコンクリート枕木化をし、線路状態は良い。戦前の湊鉄道時代も、他の地方ローカル線に見られた軽便鉄道から普通鉄道にする改軌問題がなかったので、昭和初期に線路改良を行い、国鉄の30トン積み石炭貨車や、当時では大型機の9600形やC51形蒸気機関車が乗り入れることが出来たという。地元の湊小学校の遠足時、C51形を筆頭に旧型客車11両(17m級のオハ形)が臨時列車として仕立てられ、那珂湊まで乗り入れたので、驚きである。本線並みの200m近い長大列車は、見送りに来た人々の度肝を抜いたであろう。

この長い下り勾配も徐々に緩やかになり、線路脇に大木がある三反田の踏切を過ぎると、ほぼ平坦直線になる。そして、この大きな谷間の途中にある中根(なかね)駅に停車。単式ホームだけの小さな無人駅であるが、春には菜の花などが咲く花の名所になっている。昭和6年(1931年)7月に追加設置された請願駅で、周辺には人家はなく、山の上や反対側の谷の山際に人家が集まっている。また、離れた場所にあるが、今から1,400年前の古墳があるので、後で行ってみよう。アート駅名標にも、デザインされている。


(有名な沿線撮影地である三反田の踏切。三脚を二本立て、撮影している鉄道ファンも見える。ここは、石切場であったという。)

(中根駅を発車する。那珂湊後背地の低湿地帯の南西山際にあり、この谷間では、弥生時代から稲作が盛んであった。)

ふたりの地元住人を降ろし、中根駅を発車する。常磐道から分岐する東水戸道路をアンダーパスすると、長い直線区間になり、時速60kmで快走する。左右には大水田が広がり、展望もとても良い。そして、短い微勾配の築堤を登ると、湊線を代表する鉄橋の中丸川橋梁を渡る。茨城交通時代に架け替えられたプレートデッキガーター橋で、地元の旧字の高田(現在は消滅)から、通称「高田の鉄橋」と呼ばれている。この鉄橋を渡った直ぐ先に、平成26年(2014年)10月に新設された高田の鉄橋駅がある。56年ぶりの新駅で、国道陸橋の真下にあり、開放式待合所だけの簡素な造りになっているのも、コストダウンのためであろう。もちろん、アート駅名標も追加で新設されている。


(中丸川橋梁を渡る。この付近からは、奥行きのある谷の様子がよく判る。)

(高田の鉄橋駅を発車。上の道路は、大洗から、那珂湊、ひたちなかを経由し、日立まで結んでいる南北縦断の国道245号線である。)

3人の地元住民の乗降があり、高田の鉄橋駅を直ぐに発車。平坦の直線線路を時速50kmで快走する。両側に住宅が建ち並んできて、大きな市道踏切を通過すると、制限時速25kmになり、湊線の本社駅兼機関区のある那珂湊にゆっくりと到着。起点の勝田駅から8.2km地点、所要時間約15分、大人片道運賃350円である。ここで6割近い乗客が下車する。列車も暫く交換待ちの停車になる。


(那珂湊駅に到着。※返しの上り勝田行き列車最後尾から撮影。逆光のためご容赦願いたい。)

なお、この勝田から那珂湊までが、大正2年(1913年)12月25日に初開業した区間になる。武平鉄道の仮免許時は蒸気軽便鉄道(軌間762mm)であったが、鉄道院(後の国鉄)と同じ狭軌1,067mmの蒸気普通鉄道として開業した。

日露戦争や地元の大規模海難事故が起きたため、資金難により工事が中断し、頓挫しかけた。しかし、遠く名古屋の実業家の早川昇策氏や加藤重三郎氏らが、発行株式の90パーセントを譲受することになり、一気に開通の目処が立った。早川氏が経営する会社から、蒸気機関車や資材を購入するのが条件になったという。また、現在の大手証券会社・大和証券の前身である、藤本ブローカー銀行から支援を受けたことも大きい(※)。遠くの名古屋資本や関西資本の支援で開業したのも不思議であるが、当時のローカル鉄道事業は、成功すれば高配当が得られる新事業として、魅力的な投資対象であったためである。

開業時には、早川氏を通じてのドイツ・コッペル社製C形タンク式蒸気機関車2両、鉄道院から払い下げられた客車7両と貨車3両(2・3等合造車2両、3等緩急車1両、3等車3両、手荷物緩急車1両、有蓋貨車1両、無蓋貨車2両※)を導入。基本編成は、客車3両の最後尾に貨車1両から2両を併結するミキスト(※)での運行であった。1日8往復、3等運賃10銭、2等運賃15銭(勝田から那珂湊間)でスタートした。

(つづく)

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(※日工前駅)
令和元年(2019年)10月1日に、「工機前駅」に駅名を改称した。日立工機株式会社が、工機ホールディングス株式会社に社名変更されたため。デザイン駅名称もリニューアルしている。
(※パーミル/‰)
線路の勾配(坂の傾き)を標示する単位。水平距離1,000mに対しての高低差を示す。20パーミルは1,000m走ると、20mの高低差がある。なお、鉄道は勾配に弱く、10パーミルまでが理想である。それ以上は、蒸気機関車時代の重い貨物列車では、補機(二機目の補助機関車を付ける)が必要であった。20パーミル以上は急勾配になり、蒸気機関車が運行されていた路線では、蒸気機関車の設計上の25パーミルまで。電車のみの路線が35パーミルまで。国鉄の簡易線では、蒸気機関車であっても、33パーミルまで許容されたが、地形の関係や建設費を抑制するため、それ以上の急勾配も特例としてある。
(※重軌化)
メートル当たりの重さが重い高規格なレールに交換したり、枕木の本数を増やしたりすること。線路を支える道床(どうしょう/路盤のこと)も改良することも多い。
(※早川昇策と加藤重三郎、藤本ブローカー銀行)
早川氏は名古屋氏中区に本拠地を置く土木工事会社早川組の社長。国鉄の橋梁下部工事や木曽川・鬼怒川の水力発電所工事を請け負っていた。加藤氏は名古屋電灯の社長で、のちに衆議院議員になっている。藤本ブローカー銀行は大阪に本拠を置き、各地の鉄道や発電所建設などの大規模な金融支援を行っていた。
(※2等車、3等車、緩急車、有蓋貨車、無蓋貨車)
2等車は現在のグリーン車相当、3等車は普通車相当。非常用の手ブレーキを備える客車を緩急車といい、車掌が乗務する乗務員室も併設していることが多い。有蓋貨車は屋根付き箱形、無蓋貨車は屋根なし平台形の貨車のこと。
(※ミキスト)
貨客混合列車のこと。Mixed Trainの略。閑散なローカル線では、よく見られた。

※車内からの線路撮影は、運転士の安全運転への配慮のため、全て列車最後尾から後方を撮影しています。

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