駅前から真っ直ぐに、長良川の方向に歩いて行くと、次の大きな県道交差点の左角に、名古屋鉄道旧美濃駅が残っている。立ち寄ってみよう。
名古屋鉄道の岐阜駅北側にあった徹明町駅(てつめいちょうえき)から美濃駅まで、路線キロ25.1km・狭軌・直流600Vの併用軌道線(路面電車)の名古屋鉄道美濃町線が、この美濃市まで結んでいた。明治44年(1911年)に美濃電気軌道として全通し、後に名古屋鉄道に合併。しかし、自家用車普及やバス競合による利用客減少の為、末端部の名鉄新関駅から美濃駅間の6.3kmが、平成11年(1999年)に先行廃止され、残る路線も、平成17年(2005年)の春に全線廃止された。
長良川鉄道の関駅下りホーム南側にあった乗降場は、平成11年(1999年)の新関駅から美濃駅間の先行廃止の際、その代替路線として、新関駅から長良川鉄道関駅までの300mの線路を新設し、接続したものである。しかし、開業100周年を前に美濃町線は全廃になり、他の岐阜エリアの名鉄の併用軌道線も、平成17年(2005年)春に全て廃止になっている。
この木造駅舎は、大正12年(1923年)10月に、この場所に移転した時のもので、国登録有形文化財指定された鉄道記念館になっている。営業時間中は無料公開されており、当時の車両が静態保存されている。なお、駅名標に「旧」が付くが、廃線の際、元の駅名標が行方不明になった為、新調したものとの事。
(記念石碑。)
(旧名鉄美濃駅出入口。)
中に入ってみよう。終着駅らしい二面三線の頭端式ホームがあり、併用軌道線の超低床ホームになっている。駅舎側から見て、一番左側の3番線にある車両は、モ590形(593)である。
昭和32年(1957年)製造、日本車両製の12m級路面電車は、全廃時まで使用された。後年の冷房化改造も行われず、現在の名鉄イメージカラーのスカーレット一色の塗装であったが、廃止の1年前に、この懐かしいツートンの旧塗装に戻された。
(モ590形(593)。「モ」の形式名は、電動車のモーターのモから。)
車内はオールロングシートになっており、アールの部分等が、昭和中期の雰囲気満点である。本や玩具が沢山置いてあり、地元の子供達の遊び場になっている。
(モ590形(593)の車内。)
(モ590形(593)の運転台。)
モ590形(593)の右並びにも、2両展示されている。左から、モ510形(512)とモ600形(601)になる。
(モ510形(512)とモ600形(601)。)
美濃電気軌道時代の半鋼製車のモ510形(512)は、戸袋窓の丸型から「丸窓電車」と呼ばれていた。アールを描く運転台も、製造当時に流行したアメリカンスタイルになっている。
大正15年(1926年)に、日本車輌製造で新製された大変古い車両である。当時、製造された5両のうちの2両は、美濃町線廃止まで車籍を除籍されず、予備車やイベント運転に活躍した。このレトロなモ510形が走る様は、沿線名物のひとつであった。なお、車内のシートは撤去されているが、元はロングシート車であり、後年に2席+1席の転換クロスシートに交換された。
(半鋼製車なので、車体は木造部分が多い。アールの美しい屋根も、レトロである。)
(ブレーキの圧縮空気圧力計はあるが、速度計は無い。運転士の経験に頼る。)
右側の細面のモ600形(601)も、美濃町線廃止時まで活躍した。昭和45年(1970年)に日本車両製造で新製、名古屋鉄道各務原線(かかみがはら-)経由で、名鉄岐阜駅に直接乗り入れる為、美濃町線600Vと各務原線(かがみはらせん)1,500Vの両方の架線電圧に対応する複電圧車になっている。なお、車内のシートは一部撤去されているが、元は2席+1席の転換クロスシート車である。
車両両端が絞られた独特な車体は、その細面から「馬面電車」と言われ、正面には貫通扉と渡り板があり、貫通扉の後ろに運転装置が付いている。複電圧車の為に抵抗器が二系統必要となっており、屋根上にも載っている(冷房装置では無く、非冷房車である)。
(モ600形(601)の車内。)
(この頃の運転台には、速度計が装備されている。)
これらの路面車両は、乗降ステップの段差が大きい高床車で、年配や足腰の弱い人は大変そうである。乗降扉下に補助ステップがあり、走行時には、跳ね上がって格納される仕組みになっている。
(モ510形(512)の格納式乗降ステップ。)
また、1番線奥には、元・札幌市電のモ870形(昭和40年製造)のカットモデルも、展示している。
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旧美濃市駅記念館を出て、長良川のある方向へ、歩いて行く。信号機のある大きな交差点を直進すると、T字路【A地点】に突き当たる。そこを右折すると、古い街並みが見えて来る。
旧市街地の入り口にある観光地図を見ると、長良川と現在の国道に並行して、東西に「目」の字が横になったエリアが旧市街地になっており、国の重要伝統的建築物群保存地区になっている。この通りは、そのままの「目の字通り」と呼ばれているらしい。
(観光案内地図。上が美濃市駅になっており、上の地図とは逆さまである。)
美濃市の歴史について、簡単に触れてみたい。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、郡上八幡城を攻めた飛騨守の金森長近(かなもりながちか)が、徳川家康に武功を認められ、当時、上有知(こうずち)と呼ばれていた美濃町を治めた。上有知藩主になった長近は、長良川沿いにある小倉山に小倉山城と川湊を築き、殖産興業と城下町の整備を行った。また、中山道から郡上八幡方面を結ぶ郡上街道の宿場町でもあり、北西方向の霊場高賀山(こうかさん/標高1,224m)に至る高賀街道も、分岐していた交通の要衝地であった。
長近の没後は、実子の長光が上有知藩主を継いだが、慶長16年(1611年)に、7歳の若さで夭逝(ようせい/若くして逝去すること)してしまった。跡取りがいなかった為、上有知藩は改易廃藩され、江戸幕府の直轄領(天領)になり、後に尾張藩に組み込まれている。その後も、長良川流域の物資の集積拠点や美濃紙の産地として栄えた。
旧町名は、「上有知町」であるが、明治末期に美濃紙にちなみ、「美濃町」に改称され、市町村合併後に「美濃市」になっている。また、旧市街地に「うだつが上がる町並み」が残り、塗り込めの壁、土蔵や格子窓等の京文化の影響がある美しい街並みが、江戸時代から残っている。
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日没前まで、散策してみよう。通りを北東に進んでいくと、新しい住宅に混じり、通り沿いに旧家が点在している。もう、夕暮れ時になっている為か、観光客はかなり少ない。
(目の字通り南側の旧二番町付近。)
国の重要文化財指定の小坂家【酒マーカー】は、うだつがある代表的な旧家になっている。江戸時代からの造り酒屋として、現在も地酒の製造販売をしている。江戸中期の安永元年(1772年)頃の建築、間口は約11m・奥行約16mの二階建て、敷地は奥に広く、約1,500坪の大邸宅である。現在も、住居兼店舗として利用されている。
(小坂家・蔵元小坂酒造所。)
(軒下の杉玉。)
うだつが3本もある立派な造りで、国の重要文化財になっている。中央部のうだつは、明治時代に改築された際に一部取り除かれており、表からは二本に見える。また、むくり屋根と言い、全体的に盛り上がっているのが特徴である。
【蔵元小坂酒造所】
屋号・「清酒百春」蔵元小坂酒造所
住所・美濃市相生町2267番地
営業時間・朝9時から夕方5時まで
定休日・年末年始
屋内展示あり。蔵見学が出来るかは不明。
この蔵元で造られる代表銘柄の清酒「百春」は、なめらかで淡麗な味わいの地酒として、知られている。春先には、恒例の蔵開きがある。
小坂酒造所公式HP
蔵元小坂酒造所の並びには、古民家風カフェのアベイユ・エス【カップマーカー】がある。元は八百屋らしく、そのまま残されたスケルトンの大看板がレトロである。
レッツぎふぐるめ・アベイユ.エス
(古民家風カフェのアベイユ・エス)
(つづく)
2017年11月12日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年11月12日 文章修正・音声自動読み上げ校正
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