樽見線紀行(14)日当駅と根尾谷

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本巣1538======1600日当
下り21列車・普通樽見行(ハイモ230-312・単行)
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ナガラ01形を見る事が出来たので、少し興奮しながら、駅舎に戻る。まだ、15時台なので、行きで気になった日当駅(ひなた-)に行ってみよう。大垣駅から折り返してきた下り21列車・樽見行きハイモ230-312に、再び乗車する。


(下り2番線のレールバスに乗車する。)

(向かいの青いハイモも、大垣行きになっている。)

定刻の15時38分に、タイフォンを鳴らして発車。通常の気動車よりもひと回り小さなレールバスは、車齢も20年を越えており、老朽化が進んでいるが、元気良くエンジンを吹して、根尾谷を疾走する。幾つかの鉄橋とトンネルを抜けて、所要時間約20分で、日当駅に到着。停車時間は一分もしない内に、日当トンネルに吸い込まれる様に発車する。

このハイモ230-312のカラフルな車体デザインは、芸術家の池田満寿夫氏の特別デザインで、鉄道ファンの間でも人気がある。また、現役車両の中では、最も古い車両でもあるので、樽見鉄道のマスコット的な存在になってる。かなり凝っている奇抜な配色であるが、不思議にマッチしているのが面白く、他の広告ラッピング車との併結も楽しい。


(古い気動車ながら、車体も軽くて、軽快に走る。)

(日当駅を発車するハイモ230-312。)

この日当は、根尾川が折り重なる様に蛇行する金山渓谷上流部にある集落で、根尾川がほぼ東西に流れ、南向きの日当たりの良い平坦地になっている事から、そのままの地名になっている。かつては、川湊(かわみなと)、関所や代官所(現・日当公民館付近)も置かれ、樽見への根尾街道の中継地として栄えた。また、南北朝時代には、宇津志城(うつし-/別名・根尾古城)も、集落背後の山に築かれている。現在は、静かな山里になっており、金山渓谷の清流や鮎釣りが楽しめ、本巣茶の産地になっている。


(国土地理院国土電子Web・日当周辺。)

ホームは、東西に配された単式一線で、2両編成程度の長さがある。駅舎は無いが、四畳程度の小さなログハウス風の待合所がある。駅開業は、平成元年(1989年)3月の延伸開通時、起点の大垣駅から15駅目、28.3㎞地点、所在地は本巣市日当、標高125mの終日無人駅になる。


(国鉄風の建て植え式駅名標と名所案内が、建っている。)

駅の直ぐ北側の樽見方は、日当トンネルのポータルになっており、南の大垣方は、第八根尾川橋梁に挟まれている。


(ホームと樽見方。平成後に開通した新線区間の駅なので、古さは無い。)

大垣方は、鉄橋とトンネルが連続している様子を、股覗きの様に覗き込むのが面白い。手前から、「第八根尾川橋梁=宇津志トンネル=第七根尾川橋梁」と連続していて、橋横にある勾配標識は、28‰(パーミル)の急勾配を示している。


(大垣方の第八根尾川橋梁。ズームで撮影。)

駅は、道路より低い位置にあるので、コンクリート階段で接続されている。階段を上がると、左は根尾川を渡る道路橋、右は集落方面に行くT字路になっており、T字路を右折すると、トンネル上部を越えた場所から、駅の全景が見渡せる。

駅の斜面に桜が沢山植えられていて、花見の時期は、大変綺麗である。鉄道ファンの有名撮影地にもなっており、樽見鉄道の観光ポスターやホームページトップにも、使われている。
樽見鉄道公式HP


(日当駅全景。線路の勾配が、はっきりと判る。駅構内は緩やかになっている。)

駅周辺を少し見てみよう。駅を撮影した場所の背後には、白山神社が鎮座し、急階段を登った先に小さな本殿がある。参道上に舞台があり、白山神社では、能の舞が伝承されているので、能舞台であろう。また、この神社から東側に、日当集落の中心地があり、郵便局や商店も並んでいる。


(白山神社の能舞台。何故か、鳥居が無い。)

(急階段の上にある白山神社本殿。)

駅の南側の第八根尾川橋梁の川面は、20m位下にあり、深い渓谷になっている。水は穏やかに流れ、橋上から見ても、川底の小石が見える位に透き通っているのが判る。なお、ここから500m先に、宇津志と呼ばれる小さな集落がある。集落内の郷土料理店敷地内には、廃車になったハイモ180-202が、静態保存されている。
グーグルマップ・日当宇津志地区・根尾谷の田舎料理ゆうふの庵


(並行する道路橋から、根尾川を撮影。)


(グーグルマップ・根尾谷の空撮写真。)

この根尾谷の歴史について、簡単に触れたいと思う。この根尾谷は、「歴史の美濃」に漏れず、歴史の濃い土地柄でもある。

根尾川流域は、山の幸と川の恵みが豊かで、古から、人が住んでいたらしい。奈良時代頃からは、越前にある白山信仰の大古刹・平泉寺白山神社への参拝者が、この根尾谷を経由し、参拝道として賑わっていた。また、源義経と弁慶一行の東北への逃避行の際も、通った言い伝えがある。そして、白山信仰から転じ、天台宗を中心とする京の中央政権から独立した気風と勢力が、根尾一帯に広まっていった。

14世紀の南北朝時代になると、根尾一帯は、吉野の南朝(後醍醐天皇側)の勢力下となった。吉野と南朝側勢力が優勢であった越前を結ぶ近道として利用され、南朝側の山城も置かれていた。現在の揖斐川町付近を根拠地とし、京都の北朝(武家側)の土岐氏との戦も繰り返され、根尾一帯や谷汲山華厳寺は、何度かの兵火に見舞われた。

やがて、劣勢になった南朝の後醍醐天皇は、北朝の足利尊氏と秘密の和議を行ったが、それに反対した南朝側の新田義貞と堀口貞満は、二人の親王を立てて、越前に逃げ延びた。その後、南朝軍は越前での戦いに破れて、この根尾谷に退却し、樽見にある根尾城を南朝軍残党の最終拠点として、守りを固めたと言う。しかし、西暦1341年(興国2年・暦応4年)、北朝側の土岐氏(ときし)に攻められて落城。この根尾一帯の南北朝の戦いは、終焉を迎えたと言われている。後の戦国時代になると、美濃から越前に攻め入る要衝として、多数の軍勢が通り、織田信長の越前の一向一揆を抑える軍勢も通っている。

そろそろ駅に戻ろう。地元の人も駅に来て、トンネルの中から轟音と共に、上り大垣行き列車がやって来た。

(つづく)


2017年7月29日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
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