旨い信州そばで腹が満たされたら、松本市内の観光に出かけよう。多少の雲はあるが、天気は晴れ、気温も低湿で涼しく感じる。蒸し暑く、灼熱の関東から逃れてきた甲斐も実感する。
この松本は、長野県の中央高地に開ける大盆地にある。南北に長く、西は北アルプス、東は筑摩山地に挟まれ、筑摩山地の一角の美ヶ原高原王ヶ鼻(おうがはな)も、市内から見える。明治時代以前は、本州の東西の中央の位置により、戦略上も重要な地であった。戦国時代は、越後(現・新潟県)の上杉謙信と甲斐(かい/現・山梨県)の武田信玄の攻防の地になり、江戸時代には、松本藩(石高8万石、または、10万石とも)を置いた。徳川家康の孫・松平直政を藩主とし、西国の諸大名に睨みをきかしていたという。
山国と高原のイメージが強い松本であるが、いくつもの川が集まる水の都でもあり、古くは、4キロメートル四方の沼地であったという。沼には深い場所があり、その由来から、「深瀬(ふかせ)」と名付けられた後、「深志(ふかし)」になった(※)。戦国時代末期の天正年間、甲斐武田氏が滅亡すると、信濃国守護であった小笠原氏が再び治めることになり、その祝として「松の常磐」にあやかり、現在の「松本」に改名したという(※)。
三方から川が流れ込むため、水利が非常によく、平地にも恵まれているので、古代から人々が住んでいたのであろう。本格的な都市としては、平安時代初期に上田から国府が移されており、この頃からと思われる。なお、室町時代末期の文亀4年(1504年)、現在の松本城付近に小笠原氏の本城・林城(筑摩山地麓にあった山城)の支城を築いたのが、現在の町並みの起源になっている。
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さて、この松本駅東側のお城口前【A地点】から出発しよう。大きな町であるが、市内の主な観光名所は松本城周辺に集まっているので、先ずはお城まで行ってみる。駅から見ると、北東方向に約1.1キロメートル、徒歩15分程なので、歩くには丁度いい。沿道も観ながら、ゆっくりと歩く。
(駅前から真っ直ぐに延びる大通り「あがたの森通り」。かつては、路面電車が走っていた。通りの向こうの高い山が、標高2,008メートルの王ヶ鼻。)
駅前から真っ直ぐに延びる大通りは、かつて、路面電車の筑摩電気鉄道浅間線が走り、市内の温泉処の浅間温泉まで結んでいた。最盛期の駅前は、路面電車、車や乗り換え客でごった返していたという。なお、市内の交通渋滞緩和のため、昭和39年(1961年)4月に全線廃止になっている。この路面電車の通りは、今は、「あがたの森通り」の愛称があり、市立の都市公園に突き当たっている。その公園までは行かず、途中の松本の古地名が付けられた深志2丁目交差点を左折して、北上。本町通りに入ると、市内中心部に入る。建物がさほど高くないため、青空が大きく見え、清々しい街並みが続く。他の地方主要都市にはない、大きな開放感がある。
(市内中心地である中央2丁目交差点と本町通り。)
伊勢町通りと接続する中心地点の中央2丁目交差点角【記念碑マーカー】には、牛つなぎ石が鎮座している。「敵に塩を送る」の塩を積んだ牛車がここに到着したことに由来する。有名な話であるが、武田信玄支配下の信濃国や甲斐国では、太平洋産の塩(南塩)の輸送を敵対関係であった今川・北条氏に止められてしまい、大いに困窮したという。それを聞いた上杉謙信も敵であったが、義侠として、日本海産の塩(北塩)を糸魚川経由でここまで運んだという。松本の人々は謙信に感謝し、塩が到着した1月中旬に市が開かれる様になった。現在も、この松本をはじめ、千国街道沿いの信濃大町や穂高(現・安曇野)などの各地で、塩市(または、飴市/飴を塩俵に模し、後世に置き代わった)として受け継がれている。
(謙信公義侠の牛つなぎ石。実際に牛が繋がれたことはなく、移転された道祖神という。ここは、千国街道の起点であったと伝わる。)
(牛つなぎ石の向かいにある黒御影道標。横の刻印を見ると、昭和57年[1982年]に復元されたものらしい。味のある古典的書体で刻まれている。)
しばらく歩いていくと、市内を東西に流れる女鳥羽川を渡り、枡形を越える。ここからは、大名通りになり、松本城はもう少し先になる。旧国名由来の日本固有種シナノキの街路樹が続く。また、車の交通量や人通りは多く、小さな土産店や飲食店も点在しており、観光地らしい雰囲気が増してくる。
(シナノキが続く大名町通り。夏に散房状の淡い黄緑色の花が咲く落葉樹である。昔は、木皮を衣服の繊維として利用されていた。「シナ蜜」と呼ばれる、蜂蜜も採れる。)
中程の大名通り交差点角には、旧・日本勧業銀行(現・みずほ銀行)松本支店【銀行マーカー】が目を引く。戦前の昭和12年(1937年)築の洋風建築で、平成15年(2003年)まで使われていた。今は、フレンチレストラン兼結婚式場として使われており、当時のままの外観と内装のままになっている。国登録有形文化財に指定され、この松本や長野県の代表的な近代建築物のひとつという。
(旧・日本勧業銀行松本支店。二階に届く大きな連続アーチが美しい、大変モダンなデザインであり、戦前のものと思えないほど。※夕方に撮影。)
もう少し進むと、ミニチュア天守閣の個性的な古書店「青翰堂(せいかんどう)書店」【書籍マーカー】が、ビルの谷間に窮屈そうに建つ。松本出身の先代店主が東京で独立し、御茶ノ水に店舗があったが、昭和20年(1945年)に帰郷。当時、解体修理が始まった松本城を模した店舗を造ったという。薄暗い店内を少し覗くと、何だかよく判らないディープな品揃えと戦前にタイムスリップした感じになるのが面白い(※)。
(昭和25年[1950年]築の青翰堂書店。青翰とは、若い山鳩の羽の意。張りぼてではなく、伝統的な建築工法を採用した本格的なもの。)
大名通りの名物になっている青翰堂書店を過ぎ、突き当りが松本城【歴史的建造物マーカー】の入口である。現在は、都市公園として整備されており、自由に散策できる。なお、平地に築かれた城であるので、登り階段などはない。入口から左手奥に進むと、大きな水堀に囲まれた黒城が鎮座する。
(松本城入口。一部に残る外堀を渡る。)
こぢんまりとした城であるが、引き締まった黒と白がアクセントの様なシンプルなデザインが格好いい。現存する最古の木造天守閣を有し、国宝に指定されている。もちろん、松本のシンボルであり、市民の誇りでもある。信濃国守護の小笠原氏の支城を起源とし、豊臣秀吉家臣の石川数正・慶長父子により、戦国時代末期の文禄2年(1593年)から翌年にかけて、天守閣などの主な城郭が築かれた。なお、信玄が信濃を攻め落とした際、この城を信濃支配の拠点にしたので、三重の水堀や馬出しの造りは甲斐風になっている。窓も少なく、狭間(さま/狙撃用の壁穴)が多い、実戦的な城である。
幸いにも、市民の働きかけもあって、明治維新時に破城されなかった。競売にはかけられたが、地元新聞社主に買い戻され、地元の博覧会などに利用されていたという。なお、明治30年頃に天守閣(5階と6階)が南東にうずくまるように傾き、倒壊寸前になった。旧制松本中学校校長の小林有也(つなり)氏らが、天守閣保存会を設立し、大修理を行っている。昭和の初めにも、解体大修理を行っている。
(国宝松本城。連結複合式と呼ばれる天守閣を備え、三日月状の二の丸の内側に本丸を配し、陸で繋がっていない島配置であった。)
なお、料金を支払うと、天守閣に登ることもできる。国宝に直に触れられるのは、非常に珍しいと言えよう。西方の北アルプスを展望できるためか、大行列ができる程の人気で、最後尾の係員が掲げる案内板に60分待ちとある。そうそうと諦めた。
(北アルプスと松本城。天守閣も北アルプスに向き、殿様もこの山々を毎日見ていたのであろう。中央の三角の頂きは槍ヶ岳[標高3,180メートル]。右に常念岳[標高2,857メートル]が見える。※追加取材時に撮影。)
この松本城は、敷地の1/3が女鳥羽川から引水した水堀になっており、水を城防衛に上手に利用していた。しかし、一番外側の総堀は埋め立てられて、市街地になっており、二番目の外堀は東側に一部が残る他は、同様に埋め立てられている。外堀沿いには、平成11年(1999年)3月に復元された太鼓門がある。
門出入り口横の巨石は、石川康長の官名由来の「玄蕃石(げんばいし)」と呼ばれ、高さ3.6メートル・重さ22.5トンもある。この松本周辺でも最大級のもので、松本北部の伊深村(いぶかむら/現・松本市岡田)にあった立石(境界石)と伝えられている。殿様の石川康長が石の上に乗り、ここまで人夫達が石曳きをした。あまりもの苦行に不平を漏らす人夫を康長はその場で切り捨て、その首を槍先に刺し掲げて再登し、発奮させたという逸話が残る。
(太鼓門一の門と玄蕃石。堀側に二の門の高麗門、右手上段に敵迎撃用の楼があり、枡形構造になっている。)
(東側に一部が残る外堀。)
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松本城の北側にも名所が点在しているので、行ってみよう。お城公園を抜けると、高木の影下に松本神社【鳥居マーカー】が鎮座している。その名の通り、松本城と関連が深い神社であり、郷土発展の神、縁結びの神として、地元の信仰を集めている。
実は、松本ご当地の由来ではなく、播磨国(現・兵庫県)二代目藩主・戸田光重が明石城にいた頃、伯父の霊を祀った城内神社であった。享保11年(1726年)、戸田光慈(みつちか)が松本に移封された際、ここに遷宮した。後には、戸田氏の祖霊を合祀し、家臣共々、氏神としたという。
なお、戸田氏は徳川氏と関連が深い名家である。16代当主の戸田康長の妻(正室)は家康の妹・松姫(※)であり、天保2年(1831年)に松姫の霊を合祀している。元の名は、陽谷(ようこく)大明神であったが、戸田氏祖霊や松姫を合祀した後は五社(5柱の祭神から)、昭和28年(1953年)に松本神社に改称した。
(松本神社。通りに面して神門があり、内側に鳥居を配している。)
(拝殿。徳川から下賜された葵の御紋と、戸田の六曜紋の家紋が描かれた御幕を垂れ下げる。)
境内左手奥には、城下町の鎮守の若宮八幡社がある。松本城の開祖・信濃国守護小笠原氏の一族・島立右近貞永を祀っている。約250年前の江戸時代宝暦年間建立の社殿は、大変状態がいいので、信者がまめに手入れしているのであろう。かつては、松本城内の戌亥(いぬい/北西)の方角に鎮座し、城の鎮護社であった。後に、神田明神と稲荷社を合祀し、大正3年(1914年)に当地に遷宮したという。なお、独立した社殿であるが、摂社ではなく、松本神社に合祀されている。
(若宮八幡社。)
(つづく)
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(※深志について)
奈良時代の和銅6年(713年)発布の好字二文字令(諸国郡郷名著好字令/しょこくぐんごうめいちょこうじれい)により、深志になったらしい。
(※松本の由来)
由来は諸説ある。常緑の松は、常盤木とも呼ばれる。古来より、めでたい木とされる。
(※青翰堂書店)
令和2年(2020年)3月15日で閉店したとのこと。建物と屋号はそのままに、郷土雑貨店「青翰堂わびさび」になっている。
(※松姫)
有名な武田信玄の娘ではなく、尾張国知多の武将・久松俊勝の娘で、徳川家康の養妹にあたる。なお、久松俊勝は家康の生母の再婚相手。
※松本神社は追加取材時に再撮影。
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