新島々駅に戻ろう。国道と梓川が接している石碑前まで行き、梓川沿いを散策してみたい。長く緩い下り坂を15分程歩き、石碑前に到着。小さな社と石碑を眺めてみる。傍らに、市の小さな歴史案内板があり、ここに小学校の分校があったという。明治20年(1887年)に赤松派出所として設置、明治25年(1892年)に赤松分教場に改称、明治40年(1907年)に波田尋常小学校に統合されたと記されている。
(梓川に正面が向いた社。由緒案内板もなく、御祭神は不明であるが、治水系の水神であろう。)
(道祖神と石仏群。左の馬頭観音菩薩と刻まれた石は、昭和13年[1938年]3月に地元の深澤家が奉納した新しいものである。)
狭い山谷の川であるが、強固な堤防が築かれている。上高地の大正池を源流とする山岳河川であり、大雨や雪解け時には大量の水が流れ下るためであろう。「日本の屋根」と呼ばれる北アルプスのスケールを考えれば、その規模の想像はつく。この豊富な水が、下流の田畑や水の都と喩えられる松本に恵みをもたらした。筑摩エリアの発展は、北アルプスの水が源になっている。
(梓川の堤防。土手には、白い小さな野花が咲いていた。)
下流の方向にしばらく歩いて行くと、上高地線通の間で有名な沈下橋「八景山橋(やけやまはし)」が見えてくる。有名な四万十川のものよりは小さいが、対岸の集落を結ぶ歩道橋として設置され、堤防の階段があるために自動車は通れない。もちろん、洪水時は全面通行止めになる。
(八景山橋。)
戦前の昭和6年(1931年)の竣工といわれ、上流方には、流木などからコンクリート橋脚を守る三角形の金属防護板があり、下流側は流れ落としの減勢工(げんせいこう)になっており、大きな高低差がある。
(八景山橋の袂から。改修されており、安全に渡れる。)
(下流側の流れ落とし。)
なお、多数あった梓川の取水口をまとめた、赤松首頭工(とうしゅこう)の跡である。その役目を終えた後、対岸の集落と駅を結ぶ歩道橋として、残されたという。一応、松本市道梓川4号線として、松本市長名の「工作物新(改)築許可書」も掲示されている。川面から1メートル半程度の高さしかなく、清らかな水と川底がよく見える。まるで、川の中にいる感じが楽しい。
(橋の中程から、上流方を望む。)
橋を渡り、対岸の八景山集落を見てみよう。梓川左岸の山中の40戸程の小さな集落であり、駅周辺よりもかなり高い場所にある。梓川の治水が進んでいない昔は、谷底は氾濫原であったはずなので、水害を回避するためにここに集落ができたのであろう。東西に伸びる川谷の日当たりの良い左岸山中に集落があることも、それを推測できる。
(八景山集落の通り。安曇野まで結ぶ梓川左岸の県道278号線になっている。)
通りに沿った東西に長い集落は、背後の一段高い山の中に畑があり、少ない平地を有効に利用している。また、字(あざな)は八景山と書き、「やけやま」と読むが、本来は焼山であったという。大火があったか、山火事を連想させるので、好字に変えられたと考えられる。古くは、この梓川流域を治めていた西牧氏(※)の砦があったといわれ、安房(あぼう)峠からの侵入者を見張っていた。なお、西牧氏は梓川流域の開発に尽力したが、長年のライバルであった信濃国守護の小笠原氏に討たれ、滅んでいる。
(煙出し櫓[やぐら]のある白壁の旧家。)
(美しいなまこ壁土蔵。平仮名で家名を軒下に掲げてあるのも、珍しい。)
どこかに古刹がないかと、通りを下流方に少し歩くと、小さな観音堂「滝見堂」【祈りマーカー】があった。天下を争う戦もなくなり、太平な世の中になった江戸時代の元禄の頃、一般民衆の間では、念仏講や読経による追善や祈祷が盛んになったという。この頃から、霊場巡りや巡礼などが行われるようになった。
(川西34番札所の25番とされる滝見堂。八景山集落のランドマークになっており、コミュニティーバスの停留所も設置されている。)
この滝見堂も元禄の頃の建立らしく、御本尊は「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」で、元禄10年(1697年)のものである。残念ながら、普段は扉が固く閉められ、拝観はできない。ここにやって来た巡礼者は、「ひたすらにたのむ たきみのくわんぜおん ここりのちりをすすぐ谷川」と、御詠歌(ごえいか/巡礼者が仏を称える歌)を詠うという。
(本堂。立派な由来解説板も設置され、集落の厚い信仰が感じられる。寺院建築ではないので、近代の再建と思われる。)
狭い境内であるが、多数の石仏や地蔵、道祖神、庚申塔や供養塔も安置されてる。特に、乳房を持ち、赤子を抱いた子安地蔵は珍しいという。また、並びの33体の観世音石像も見事である。法華経普門品(ほっけきょうふもんぼん/法華経の章のひとつ。別名・観音経)に由来し、それぞれ姿の異なる観音像になっており、衆生済度(しゅじょうさいど/庶民救済し、仏の道に導くこと)のために造られた。
(赤子を抱いた珍しい子安地蔵と三十三観音。)
(出入口には、迫力の巨石奇岩が鎮座する。わかりにくいが、左は「大日如来」と刻まれているらしい。山間部独自の巨石奇岩信仰と仏教が合わさったものであろう。)
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沈下橋を再び渡り、新島々駅の方に戻ろう。駅の並びには、昭和電工の私設水力発電所【電気マーカー】がある。昭和25年(1950年)に竣工。この赤松発電所の他、長野県内の信濃大町周辺にも、4つの自社専用水力発電所を所有している。塩尻の同社工場専用発電所であり、工場までの送電線も所有しているという。
ダムのない水力発電所で、前淵集落の斜め対岸の大野田集落に梓川の取水口があり、国道に並行して山中をトンネルで導水。発電所裏の大水槽に貯め、落水させている。落水高低差は約20m、常時発電量1,650kW、最大発電量5,500kW(※)と、大電力会社の水力発電所と比べればミニマムであるが、年間発電量は一般家庭の約5,460世帯分に相当するとのこと。なお、塩尻の工場では、研磨剤・砥石・耐火材・断熱材などのセラミック製品の生産をしている。
(昭和電工赤松発電所。のぞき穴状の額縁が設置されているのが、面白い。)
この水力発電所の発電用水は、流域の農業用水として再利用されている。赤松首頭工が廃止されたのも、この発電所の発電用水を再利用されることになったためらしい。ザーと大きな音を立てて、莫大な水が目の前を流れるさまは、怖さを少し感じる。
(発電所と放水路。手前に段差があり、用水路に落とし込む減勢工になっている。)
(そのまま、農業用水路へ流れ込み、下流の田畑を潤している。)
親水路として新しく整備された小道を通り、国道に出る。丁度、上高地線の電車が新島々駅に到着する。発電所の放水路上を線路が横断するので、全国的に珍しいかもしれない。
(発電所前を通過する3000形第3編成。)
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新島々1126======1128淵東
列車番号20・上り松本行き(ワンマン運転)
3000形第2編成2両編成(←3004+3003)
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新島々駅に戻る。松本に向かいながら、車窓ロケで気になった駅に途中下車してみたい。まずは、新島々駅隣の淵東(えんどう)駅に行ってみよう。11時26分発の上り松本行き電車に乗り込むと、20人程が乗車している。
このグレーとレッドのツートンカラーは、かつての木製電車の鋼体化により誕生した、10形電車の塗色をリバイバルしたもので、JR東日本主催の信州デスティネーションキャンペーンに合わせたという。オリジナルの先頭車両は3枚窓で全く違うが、この2枚窓の湘南顔にも意外に似合っている。なお、10形電車は、高度成長期の昭和33年(1958年)から昭和61年(1986年)まで運行された。Hゴム(※)で窓ガラスを固定した当時の最新仕様であったが、下回り(走行装置)は大正時代のものをそのまま流用したため、正味約60年間も使われていた。
(10形リバイバルカラーの3000形第2編成。)
この3000形第2編成(3003+3004)と第4編成(3007+3008)には、架線の霜取りパンタグラフが搭載されている。また、全車が中間車両の先頭車両化改造になっており、廃車された京王6000系の運転台を移植している。難度の高い改造のため、京王電鉄の系列会社が改造した。
(京王6000系運転台を移植した3000形運転台。ワンハンドルマスコンである。)
車内の広告枠には、10形電車の現役時代の写真が展示されていた。隣の白地に赤・青ラインの電車は、東京の東急電鉄からの譲渡車5000形(元・東急5000系)である。本家では、下膨れ2枚窓の愛嬌顔とオール緑色から、「アオガエル」の愛称で呼ばれ、渋谷駅前に鎮座しているので、一般の人も知っている人も多いであろう。当時は、「アオガエル」に対する「シロガエル」と呼ばれ、親しまれた。
(オリジナルの10形電車とシロガエル5000形電車。)
列車は定刻に発車。梓川の谷底から車坂の急勾配を駆け上がり、ものの2分で淵東駅に到着。先頭車乗務員室前ドアに行き、フリーきっぷを中年男性の運転士に見せ、ひとり自分だけが下車する。美しい田園の中にある無人駅で、上高地線一の難読駅名になっている。
水田の中に駅があり、少し離れた場所に市立保育園と新しい感じの民家が建て並ぶ。松本のベットタウンとして、開発が進んでいるのであろう。「何で、こんな場所に駅が」と思うが、駅向かいの山中に集落があり、その請願設置駅になっているらしい。ホームの向かいは、小さな果樹園があり、美味しそうな桃がたわわに実っている。
島々駅までの全通2年後の大正13年(1924年)2月20日開業、起点の松本から12.7キロメートル地点、所要時間約27分、松本市波田、標高696メートルの終日無人駅である。なお、上高地線の追加設置駅は、現在に至るまで、この淵東駅と西松本駅(※)のみである。
(渕東駅全景。)
(崩れかけた感じの駅出入口。簡易テントの駐輪場と老桜がある。)
東西方向に配された単式ホーム1線の棒線駅になっており、開業当時から駅舎や改札口はないが、古レールを使った開放式の待合室が佇む。松本方のホーム横には、山の中の集落に向かう市道が横切っており、反対側は国道158号線「野麦街道」に接続している。
(開放式の待合所と観光駅名標。昭和29年[1954年]撮影の古い写真では、オールトタンの木造であったので、建て替えられたものらしい。)
踏切横からホームの擁壁を見ると、開業当時の古い擁壁が1両分だけ残り、そのまま嵩上げされている。終点の新島々方には、昭和高度成長期(昭和25年から35年頃)に増設された金属・コンクリート製延長ホームが残る。延長部を入れて、全体の有効長は電車2両分の約50メートルであるが、開業当初は松本寄りの1両分だけである。
(嵩上げされた旧ホーム。開業当時のホームはかなり低い。)
延長部からホームと松本方を望むと、水田の中を少し走った後、河岸段丘を斜めに横切るダウンアップがある。松本方からやって来ると、雑木林と住宅に挟まれた場所から、広大な水田の中に飛び出す感じがあるので、インパクトがある。
(延長部からの松本方。ホーム側に木製電柱が残るが、今は使われていない。)
振り返って、新島々方を望む。左カーブをした後、堀割りの下り急勾配になり、梓川の谷底に降りる。北アルプスの稜線も手に取れる近さである。なお、この付近の梓川右岸(南岸)の河岸段丘は、三段構えになっている。松本方の隣駅の波田(はた)駅は最上段の縁にあり、この渕東駅が中段になる。更に下って、最下段の新島々駅に到着する。
(野焼きの煙が上がる新島々方。)
(つづく)
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(※西牧氏)
13世紀頃、牧場経営のため東下した皇子一族・滋野氏とされる。鎌倉幕府が任じた信濃国守護の小笠原氏と勢力を長い間争った。戦国時代末期、西牧氏は甲斐武田信玄側に付いていた。信玄の逝去後、松本城主になった小笠原氏の報復を受け、滅亡した。
(※kW/キロワット)
瞬間の電力の大きさを表す。1kW=1,000W。kWh(キロワットアワー)は、時間を掛け算した電力量になる。
(※Hゴム)
H形断面のゴムで、窓を車体に固定する方法。角は丸くなる。最近は、耐久性や水漏れのため、採用されなくなっている。小さなパーツであるが、全体の印象に大きく影響する。
(※西松本駅)
開通当初、現在の渚駅は西松本駅として開業したが、現・西松本駅開業時に渚駅に改称し、駅名を譲っている。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
昭和電工株式会社公式サイト資料(赤松発電所について)
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