真壁めぐり その1

夏から初秋にかけて、とても忙しかったが、11月下旬に入り、少し落ち着いてきた。どこにも出かけることができなかったので、関東近県の日帰り観光に行ってみよう。鉄道旅行がメインの趣味ではあるが、鉄道から一時離れていた20代の頃、自家用車を使い、関東や信州エリアの旧街道、宿場町や寺社などの観光や長距離ドライブをよくしていた。その影響で、今のローカル線の旅と沿線観光や歴史探訪が一体化した、旅スタイルができたと言える。

今旅は、関東に残る古い町並みを見に、まだ訪問したことのない町へ出かけてみたい。歴史的建造物が多く残る町として、個人的に関東五指に入ると思われるのは、埼玉県南部の川越、千葉県北東部の佐原(さわら)、群馬県南東部の桐生(きりゅう)、栃木県南部の栃木市、茨城県中西部の真壁(まかべ)がある。他にも、行田(ぎょうだ/埼玉県北部)、大多喜(おおたき/千葉県南東部)、古河(こが/茨城県西部)などにも、古い町並みが残っている。特に川越は、近年国際観光化が著しく、テレビでもよく取り上げられている。実際、海外からの観光客や若者も多く訪れ、都内の有名観光地以上に混雑している。これらの中でも、未訪問の上、最も訪問しにくい真壁を選んでみた。

さて、真壁と言われても、場所がわからない人が多いだろう。茨城中西部、霊峰・筑波山北麓の平地にある。いつも乗る常磐線の車窓から見ると、丁度、筑波山の裏側にあたる。

交通アクセスは大変悪く、基本的に車でないと訪問しにくいが、何とかして公共交通機関で行こう。南の常磐線側からのアクセスは、路線バスを乗り継がないとならないために断念し、北からのアクセスを検討する。まずは、都内から東北本線の小山まで行き、水戸線に乗り換え、岩瀬という駅から路線バスで行けるようである。至近の関東圏でありながら、片道3時間以上の所要時間に驚くが、それだけに興味も増す。

11月30日土曜日、快晴。撮影もベストと思われるので、決行しよう。天気予報は終日快晴、風も無いが、気温は低く、現地の最高気温7度、最低気温マイナス1度なので、十分な防寒対策をする。また、今回は、先日導入したリコーGRIIIの試写も兼ねている。

早朝5時に起床し、出発。東武伊勢崎線(スカイツイリーライン)経由で久喜(くき)まで行き、久喜から小山まで東北本線に乗り換えることにした。夜明け前の暗闇の中、北に向かって列車が快走する。伊勢崎沿線の秋冬はとても寒く、車内暖房は過剰と思われる程かけられ、居眠りしてしまいそうになる。久喜に到着後、小山方面の下り列車もすぐにやって来て、朝の7時に小山に到着した。ここから、水戸線の水戸方面行きに乗り換え、35分程で最寄り駅の岩瀬で下車する。ここまでの所要時間は、約2時間30分もかかる。


(岩瀬駅に朝7時40分過ぎに到着。列車交換設備を有する、やや大きな駅である。土曜日のためか、閑散としているが、平日のこの時間は地元高校生達で混み合うだろう。)

約20分後にバスがやって来るので、それまでは駅の周辺で時間を潰そう。暖の取れる喫茶店やコンビニエンスストアがあれば良いのだが、さすがに何もない。駅の待合室も半開放で寒く、体を動かしながら、周辺を見て回る。この岩瀬は、小山・筑西(ちくせい)・笠間・友部・水戸と結ぶ水戸線主要駅の筑西から笠間間にある城下町で、首都圏向けの近郊農業と石材業が盛んである。霞ヶ浦に注ぐ桜川の源流域にあり、平安時代の有名歌人・紀貫之(きのつらゆき)が詠んだ「西の吉野、東の桜川」と言えば、聞いたことのある人も多いだろう。近くの雨巻山や櫻川磯辺稲荷神社などは、全国でも屈指の桜名所である。

駅前のロータリーは綺麗に整備されているが、時折、送迎の地元住民の車とタクシーが来る程度で、静まり返っている。国鉄時代後期の没個性的な駅舎出入口横に、水戸線・岩瀬駅開業記念碑がひっそりと建っているのは、この水戸線の歴史を感じさせる。また、筑波山の北側一帯のハイキングコースの拠点になっているらしく、大きな案内板も設置されていた。


(岩瀬駅駅舎正面。業務委託の有人駅で、町の中心部に向いた北口のみである。)

(水戸線・岩瀬駅開業100周年記念碑。水戸線の前身、水戸鉄道開業時の駅として、明治22年[1889年]1月16日に開業した。)

駅前から、岩瀬の町並みを望む。南北と東を山で挟まれ、東西に桜川が流れ、西のみ平地が開き、水戸線を底辺に東西に「目」の字を横倒しにした町並みになっている。なお、岩瀬城は駅から右手の小山の上にある。戦国時代は下野国(しもつけのくに/現・栃木県)と国境を接し、交通の要衝地であった。江戸時代に入ると、笠間藩の領地になっている。


(駅前の様子。正面左が富谷山で、石切り場も見える。この山の向こう側には、陶芸の里で有名な益子[ましこ]がある。雨巻山は正面右。)

凍てつくような冷さの中、待っていると、派手なピンク色のバスがやって来た。普通の路線バスではなく、関東鉄道パープルバスに運行を委託した、桜川市のコミュニティーバスらしい。利用客が非常に少なく、民営ベースでは採算が取れないのであろう。普通の路線バスの半分程度のミニバスは、「ヤマザクラGO(ゴー)号」と名付けられている。車内の自動音声案内も桜川市出身の声優・櫻川めぐ氏が担当し、市の観光大使も兼任しているとのこと。


(桜川市コミュニティーバス「ヤマザクラGO号」筑波山口行きに乗車。由来は、雨巻山の山桜から。営業ナンバープレートの数字も、「39−39(咲く、咲く)」のこだわり様である。)

定刻通りの7時57分に発車。乗客は自分を入れ、ふたりだけである。このバスは、旧岩瀬町役場の桜川市岩瀬庁舎を起点とし、この岩瀬駅を経由して、筑波山登山口の筑波山口が終点になっており、南北に縦走する。その途中、下宿バス停が真壁の中心地になっているらしい。市のコミュニティーバスなので、病院、学校や市庁舎前にバス停が多く設けられ、所要時間がかかるのは致し方なかろう。

市の地域医療センターに寄った後、筑波山に向かう県道を真っ直ぐに南下する。筑波山のシルエットも徐々に大きくなってくる。沿道は水田や畑が多く、今朝の冷え込みによって、真っ白になっている。今秋は暖かな日が続いていたので、霜を見るのも今年初になる。途中のバス停から、年配のおばあちゃんが乗車し、30分程で下宿バス停【A地点】に自分ひとりが下車する。なお、運賃は乗車区間に関係なく、起点から終点までの全区間乗車しても、1乗車大人200円と安い。

歩道のない二車線の通りに降ろされると、早速、バス停前の古い旅館が迎えてくれた。町を代表する旅館のひとつの伊勢屋旅館【赤色マーカー】である。元々は、町一番の料亭「勢州楼」を営んでいたが、旅館業に転業したという。明治中期に建てられた木造町家建築で、西側の壁は改築補修されているが、全く窓がないのは防火対策の土蔵造りであった名残である。主屋の並びには、土蔵も残っている。


(下宿バス停前の伊勢屋旅館。懐かしいダットサントラックが停まっていた。主屋と土蔵は、国の登録有形文化財になっている。)

時刻は朝の8時30分過ぎで、観光散策にはやや早い。近くに町の歴史資料館【黄色マーカー】あるというので、情報収集を兼ねて先に立ち寄ってみよう。伊勢屋旅館の東の交差点を北に入った場所にある。開館時間まで待っていると、空気は冷たいが、日の当たる場所は暖かくなってきた。近くの写真店の女将さんが、近くの神社に飾る植木鉢を出しに来た。挨拶を交わすと、「今日は風がないので、暖かい日なのよ」と言う。北関東の秋冬の冷え込みは、都内の比ではないので、これでも暖かいのかと思う。


(真壁伝承館。歴史資料館、町立図書館とホールや会議室などの公民館機能を併設している。)

9時の開館時間になったので、歴史資料館に入ってみよう。出入口の正面の壁には、大きな猪の絵が描かれている。ここは、江戸時代の真壁陣屋跡であり、旧・真壁中央公民館などを建て替えたという。町並みの保存地区内であるので、景観に配慮した重厚な黒色の建物になっており、まだ新しい感じである。中に進むと、出入口にあった同じ黒猪の大きな旗が目に止まる。戦国時代の真壁城主・真壁氏の旗指し物で、戦の馬印として使われたという。武士の守り本尊の摩利支天(まりしてん/仏教の護法善神のひとつ)が、猪に乗っていることに由来しているらしい。


(戦国時代の真壁氏の旗指物[複製品]が展示されていた。※歴史資料館内は撮影可。入場無料。)

ここで、真壁について、簡単に触れておきたい。桜川左岸のふたつの支流に挟まれた平地にあり、町の西方に桜川が流れ、東方は筑波山から連なる山地になっている。戦国時代の真壁氏の城下町として発展し、江戸時代以降は、木綿取引の市や酒などの醸造業が栄えた在郷町(商業町)であった。400年前の中世の町割りがそのまま残り、102棟の国登録有形文化財の建築物が現存し、平成22年(2010年)に国の重要伝統的建築物群保存地区に指定されている。これだけの規模でありながら、全く観光化されておらず、今や珍しい。また、約3万年前からの旧石器時代から、人々の生活の痕跡があり、5世紀頃に築いたとされる古墳もあるとのこと。水利が良く、肥沃な平地に恵まれていたためであろう。


(常設展示室。真壁の歴史や町並みの解説、発掘品などが多数展示されている。)

江戸時代に入ると、徳川家康の命により、真壁を支配していた真壁氏は、水戸の佐竹氏と共に秋田に移封され、有力武将の浅野長政が治める真壁藩が成立。後に浅野氏が笠間に移封されると、真壁藩は廃され、笠間藩の飛び地になったという。この真壁陣屋には、13人程の役人が詰めていたらしい。現在の真壁の町並みは、江戸時代初期の真壁藩時代に完成したとされている。


(戦国時代と現代の真壁の町並みの対比地図。桜川支流のふたつの川に挟まれた水利の良い城下町で、縦横の赤線は、戦国時代から使われている道路である。なお、中央やや下の赤い部分が、この真壁伝承館の場所になる。地図の上が東、下が西になる。)

事前の歴史勉強が済んだら、向かいの事務所に行き、観光散策マップや歴史資料を貰う。観光案内所はないので、入手したマップを片手に回ってみよう。9時15分にこの真壁伝承館からスタート。まずは、町のシンボル的建築物である旧真壁郵便局【赤色マーカー】に向かう。伝承館から西に向かった、すぐの場所にある。町家建築が多い真壁の中でも、新しい歴史的建造物であるが、他にはない外観から、よく紹介されている。

一見、コンクリート建築に見えるが、昭和2年(1927年)築の木造モルタル洗い出しの洋風建築である。五十銀行真壁支店の移転先の新店舗として建てられ、戦後に中央吹き抜け部に床を張り、郵便局に転用したという。無人であるが、日中は観光拠点として開放されており、自由に見学や休憩ができる。また、建物の前に文化庁の国登録有形文化財の認定プレートが掲げられ、地元特産の真壁石のスタンドに組み込まれている。

なお、第五十銀行真壁支店は、地元資本の真壁銀行を前身とし、現在地の東向かいに開業した。大正14年(1925年)に土浦を拠点とする五十銀行(元・第五十国立銀行)に吸収合併され、更に昭和10年(1935年)に常陽銀行に合併されている。戦後の昭和30年(1955年)に常陽銀行が移転し、翌年から郵便局に転用。昭和61年(1986年)まで使われたという。その後、個人所有を経て、桜川市の所有になっている。


(町のシンボルである旧真壁郵便局。玄関が東向きの中央にあり、左右に大きなコラムがあるのも、当時よく見られた銀行建築様式である。また、南側にもコラムの出っ張りがあり、ここにも出入口があったが、早期に閉鎖されたという。)

(国登録有形文化財の認定プレート。真壁石は国産最高級の御影石で、東京赤坂の迎賓館にも使われている。)

建物中央の2、3段の階段を上がり、正面玄関から入ると、天井が高い大きな部屋にカウンターがあり、利用客のスペースは意外に狭い。この広い部屋の中央には、太い柱が一本あるのみで、木造建築としてはかなり思い切った設計であるが、二階の大部分は郵便局に転用の際に増築されている。元々は、吹き抜け天井に回廊が付けられていたという。


(当時のままの郵便局窓口。郵便局の歴史や観光案内のパンフレットが置かれている。イベント時には、観光案内拠点になっている。)

客側はコンクリートパネルを合わせた土間であるが、カウンター内は一段高い板床になっており、奥も見学できる。なお、毎年2月から3月に、ひな祭りが盛大に行われている。来年の令和3年(2021年)は18回目を数え、今や160軒が参加する町一番の観光イベントになっており、団体観光客がバスで押し寄せるという。


(真壁のひな祭りの様子の展示パネル。)

(第5回目のひな祭りの開催ポスター。各家で大切に受け継がれている雛人形を飾り付けし、見学もできる。)

この旧真壁郵便局の見学後は、町中に点在する町家建築の商家を見学してみよう。国登録有形文化財の102棟全ては無理なので、ガイドに掲載されている代表的な商家を選ぶと良さそうである。交差点から見た、旧真壁郵便局の並びの商家も良い雰囲気で、昭和の町に迷い込んだと錯覚してしまう。


(旧真壁郵便局と町家建築の商家。)

(つづく)

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