湊線紀行(16)平磯駅、磯崎駅と車両。

平磯町のアイドル、鯨の大ちゃんに無事に会った後、湊線に戻ろう。その前に、湊線で唯一、海が見える踏切があるというので、立ち寄ってみる。大ちゃんの塔の交差点を登ったコンビニの横にある、沢メキ踏切【下記グーグルマップ赤色マーカー】である。


(沢メキ踏切。)

丁度、殿山駅からの切り通しを抜けた場所にあり、テーブル状の平磯駅に登る大築堤(盛り土)の接続部にあたる。交差する道路は海に向かっての急坂になっており、突き当たった交差点の先が太平洋になっていて、高低差で海が見える感じである。なお、反対の内陸側は、大きな水産加工団地になっている。

なお、登坂のための助走もあり、通過は一瞬で、列車内からは気が付きにくい。時計と手持ちの時刻表を確認し、暫く待つ。踏切警報機が鳴り始め、ディーゼルエンジン音が徐々に大きくなると、右手の雑木林から、下り列車が飛び出してきた。列車までの距離を目視できず、シャッターを切るタイミングが難しい。


(沢メキ踏切を通過する下り列車と太平洋。※追加取材時に撮影。)

平磯駅へ上がるS字大築堤も、湊線最大のスケールである。自分が使っている単焦点広角のスナップ向けカメラでは難しいが、望遠レンズが使えるカメラならば、撮影しやすいだろう。なお、この踏切付近に、夏季のみの臨時海水浴駅の平磯入口停車場があった。阿字ヶ浦までの開通による、殿山駅の開業と共に廃止になっており、それらしい平坦なスペースが少しある。大正14年(1925年)から昭和3年(1928年)の3回の夏しか、営業しなかったという(※)。


(平磯駅に上がるS字大築堤。※追加取材時に撮影。)

撮影を終え、駅に向かおう。沢メキ踏切は殿山駅と平磯駅の中間地点にあり、どちらの距離も大差がないが、昨日に殿山駅に訪問したので、平磯駅に向かう。大築堤下の団地を抜け、旧市街地に入ると、タールを塗った古い物置や萬屋(よろずや)がぽつんとあり、昭和の雰囲気を感じる。


(タール塗りの古い倉庫。※追加取材時に撮影。)

立ち寄った萬屋でジュースを買い、路地から抜けると、とても古い商家が一軒だけある。出入口左横の銅板の屋号が目を引く。「なぜ、こんなところに」と撮影していると、向かいの理容店の主人と店の扉越しに目が合い、話を伺うと、昭和の初め頃、本町通りから引っ越してきた海産乾物屋と言う。この銅板屋号は珍しく、町内には3軒しかないとのこと。海辺より遠いこの高台に越してきた理由は聞けなかったが、湊線の開業に対応したか、津波被害によるのではないかと思う(※)。


(銅板屋号のいれぼし屋。「入」の間に点「・」があるので、いれぼし屋とのこと。ここで、干物の製造も行っていた。もちろん、昭和初期の建物である。※追加取材時に撮影。)

理容店の主人にお礼を言い、もう少し歩くと、住宅地の中に突然、平磯駅がある。以前は、茨城交通の直営スーパーマーケットに併設されていたが、他社に譲渡後、最終的に閉店となり、新しく駅舎を設置し直した。なお、スーパーマーケットの跡地は、大部分が新しい住宅地になっている。

駅開業は大正13年(1924年)9月3日、起点の勝田駅から10.8km地点、7駅目、所要時間約20分、ひたちなか市平磯町、標高約24mの終日無人駅である。海岸から徒歩約10分の海岸台地上の高台にあり、当初の武平鉄道計画(ぶへいてつどう/勝田の旧字「武田」の武、平磯の平)では、この駅が終点であった。


(平磯駅出入口。待合室はなく、建物に自動券売機とトイレが備え付けられている。)

なお、自動券売機はあるが、改札と待合室は廃止され、自由に出入りできるので、あまり鉄道駅の雰囲気はない。なお、勝田からこの平磯までの区間の乗客が多く、この先の終点・阿字ヶ浦のまでの利用客は少ない。勝田方面に向かう場合、二等辺三角形になる線路位置の関係により、車の方が早く行くことができるためであろう。

大正15年(1926年)に列車増発のため、ホームの増設をしている。昭和15年(1940年)と17年(1942年)にも、ホームの新設や貨物側線の増設などが行われ、単式ホームと島式ホームの2面3線に側線を擁する大きな駅であった。しかし、戦後の茨城交通時代の経営合理化のため、単式ホームのみになり、何度か大規模に改築されているので、開業当時の面影はない。島式ホームや貨物側線があった、広いスペースが残る程度である。戦時中は、帝国陸軍水戸飛行場への軍需物資や建築資材の積み下ろしもしていた。


(勝田方端からホームを望む。最盛期の6両編成に対応しているが、今は、駅出入口側の阿字ヶ浦寄りに停車する。半径400mの大きなカーブのため、ホームの全景は見られない。)

(向かいの島式ホームと側線の跡地。現在は、保線用資材置き場になっている。)

阿字ヶ浦寄りの旅客上屋下にあるデザイン駅名票は、町のマスコットの鯨の大ちゃんと無線所(現・平磯太陽観測センター)のパラボラアンテナが描かれ、鉄道駅としては、洒落たベンチが置かれている。


(デザイン駅名標と小洒落たベンチ。)

ホーム端から阿字ヶ浦方を見てみよう。ポイント跡の小カーブをこなし、その先の半径402mの右カーブを曲がると、川の谷間を渡る上り下り10パーミルのV字形築堤に差し掛かる。


(阿字ヶ浦方。)

反対側の勝田方は、左カーブ後に10パーミルの大築堤の下り勾配になり、ここが滑り台の頂上のような感じになっている。


(勝田方。広いスペースが残っているのは、大規模駅の名残であろう。)

ここで、本取材時に立ち寄れなかった隣駅の磯崎駅も紹介したい。第2次延伸開業時の終着駅である。当初、那珂湊から平磯駅までの延伸計画であったが、地元古刹の酒列磯前神社への参拝者や磯崎岬観光の需要に期待して、この駅まで延伸した。平磯駅との駅間距離は約2.5kmになる。

駅開業は大正13年(1924年)9月3日、起点の勝田から13.3km地点、8駅目、所要時間約24分、ひたちなか市磯崎町、標高約28mの終日無人駅である。

開業の翌年、那珂湊と同様に蒸気機関車の機関庫や詰所も併設されていたが、阿字ヶ浦への第3次延伸後、昭和4年(1929年)頃に廃止されている。その際、駅舎本屋の待合室を増設し、ホームも改築した。現在は、1面1線の単式ホームのみの小さな無人駅になっており、機関区時代の面影はない。以前は、給水塔も残っていたという。


(磯崎駅ホーム全景。この駅も大きくカーブしている。機関区廃止後は、2面2線の列車交換可能駅であったが、戦後茨城交通時代の合理化により、交換設備は廃止されている。※追加取材時に撮影。)

(デザイン駅名票。地元名産のサツマイモをふたつ描く。※追加取材時に撮影。)

昭和9年(1934年)に構内カーブの緩和のため、ホームと線路の付け替えを行っており、一時は駅舎(木造駅舎本屋とこの待合室)が二重の珍しい駅であった。木造駅舎は既に取り壊され、駅前に旧ホームの縁石の一部が残っている。なお、昭和52年(1977年)12月に、駅員が無人化されているので、この頃までは木造駅舎があったと思われる。


(駅前から。左手前のレンガ縁石が旧ホーム跡らしい。※追加取材時に撮影。)

最後に、湊線の現役車両を簡単に紹介したい。全線非電化路線のため、ディーゼルカー(気動車)によるワンマン運転を行っている。朝夕のラッシュ時は2両編成、閑散時間帯は1両の単行、行楽シーズンなどの混雑時は最大3両編成になり、混雑時は車掌が乗務する場合もある。自社発注車両と他社からの譲渡車両があり、4形式8両(うち、自社発注車両は2形式3両)が運用されている。

なお、湊線の気動車は、伝統的に車両型式・車番を連続した3桁、または、4桁の数字で表していた。例えば、国鉄制式であれば、「キハ20-1(キハ20形1号車の意味)」であるが、湊線制式では、車番(湊線への入線の順)を一の位にし、「キハ201」の様にする。近年の新型軽快気動車は、その制式に当てはまらなくなっているが、その影響は残っている。

【キハ205】
湊線最古参の看板車両。昭和40年(1965年)に帝国車両で製造された元・国鉄キハ20の最終番号車両522号車で、平成8年(1996年)2月に水島臨海鉄道より譲渡。民営ローカル線向けの姉妹車を除き、純粋な元・国鉄キハ20としては、唯一の現役車両である。先日、念願の塗り替えが実施され、お披露目運行も行われたという。老朽化と動態保存のため、鉄道ファン向けのイベントや催事に運行を行っている。

20m鋼製車体、自重32.0トン、最高時速95km、定員95名、180馬力ディーゼルエンジン、コイルばね台車、セミクロスシート、帝国車両製造(現・東急車輛製造)。


(再塗装前のキハ205。同形式のキハ201から204があったため、追番で205になった。)

【キハ3710形01、02】
茨城交通時代の自社発注車両。平成7年(1995年)と平成10年(1998年)に製造・導入され、2両が在籍する。茨城交通カラー(略して、茨交カラーと呼ぶ)と呼ばれる、アイボリーに赤と青のラインを纏っていたが、平成21年(2009年)に公募されたツートンカラーの新標準塗装に変更された。湊線の新型軽快気動車の代表的車両である。「3710」は、湊「みなと」の語呂合わせ。なお、ラッピング車両として使われることもある。JR九州キハ125形の姉妹車になる。

18.5m鋼製車体、最高時速95km、定員123名、自重28.9トン、330馬力新潟鐵工所製ディーゼルエンジン、空気ばね台車、オールロングシート、新潟鐵工所製造(現・新潟トランシス)。


(新標準塗装「曙光(しょこう)の大地」のキハ3910形01。往年の国鉄気動車を思わせるツートンデザインは、観光パンフレットにもよく掲載されている。)

【キハ37100形03】
茨城交通時代の自社発注車両。平成14年(2002年)に製造・導入した1両のみ。アニマルトレインやラッピング車両として使われる、広報担当車両。事実上のキハ3710形の二次車で、ブレーキの二重化や半自動ドア化を行っている。主要諸元はキハ3710形と同じで、車番も01ではなく、3710形の追番の03になっている。


(阿字ヶ浦駅に到着した、アニマルトレイン塗装のキハ37100形03。)

【ミキ300形103】
兵庫県の三木鉄道(旧・国鉄三木線/平成20年[2008年]に廃線)から譲渡された、富士重工製の新型軽快気動車LE‐DC(第4世代・ボギー車)。車体の塗装や車番を変えることなく、三木鉄道時代のまま運用している。ブレーキシステムが違うため、他の車両と併結運行が出来ない。キハ205の代わりにイベント運行が行われることがある。

18.5m鋼製車体、最高時速95km、定員116名、自重29.7トン、295馬力日産ディーゼル製ディーゼルエンジン、空気ばね台車、セミクロスシート、富士重工業製造。


(ミキ300形103。平成10年[1998年]製になる。)

【キハ11形】
元・JRの新型軽快気動車。JR東海と東海交通事業から平成27年(2015年)に譲渡。同形式は3両あり、一部の改造と塗装の変更をしている。かつて、湊線に同形式(元・国鉄キハ11形のキハ111、112、113)があったため、形式はそのままに車番を5、6、7に改番(4は欠番)し、区別している。なお、保守修理の部品取り用として、2両が追加購入され、湊機関区に留置されている。

18m鋼製車体、最高時速95km、定員110名、自重28.2トン、330馬力カミンズ製ディーゼルエンジン、ボルスタレス台車、セミクロスシート、新潟鐵工所製造(現・新潟トランシス)。


(キハ11形5。5は平成元年[1989年]製、6と7は平成5年[1993年]製になる。車体表記は国鉄・JR風にハイフォンが入る。JRのキハ11形気動車の中でも、最も初期型になる。)

これらの旅客用営業車両の他、保線モーターカーやバラスト散布用の貨車ホキなどもあり、那珂湊駅併設の湊機関区に留置されている。特筆であるのは、昭和60年(1985年)に東武鉄道から譲渡された無蓋(むがい)貨車トラ1形2両で、車籍はないが、倉庫代わりに使われている(※)。また、2000年代前半までは、貨物用の30トン級凸型ディーゼル機関車ケキ100形(B-B軸※)も在籍していたが、廃車になっている。


(湊機関区留置のトラ1形5、6[車体表記はトラ15、16]。茨城交通時代の社章のままである。東武鉄道杉戸工場の昭和41年[1966年]製、自重8.5トン、荷重17トンの小型二軸貨車は、今では大変珍しい。※追加取材時に撮影。)

(つづく)

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(※平磯入口停車場)
公式記録では、大正14年(1925年)7月17日に新設届があり、殿山駅開業日と同日の昭和3年(1928年)7月17日に廃止になっている。最後の年は、駅営業を行っておらず、実質的に前年までの営業であった。
(※津波被害)
昭和8年(1933年)3月3日、三陸沖を震源とするマグニチュード8.1の巨大地震により、太平洋沿岸に大津波が発生した記録がある。三陸地震として知られているが、現地の被害詳細は不明。なお、明治以降、先年の東日本大震災と合わせて、三陸沖を震源とする大地震は3回も起きている。
(※無蓋貨車とトラ1形)
無蓋貨車とは、風雨を避ける屋根のない貨車のこと。一時、東日本大震災の被災線路復旧工事に使われたという。取材後の平成30年(2018年)に、2両とも譲渡された模様。
(※B-B軸)
鉄道車両の車軸の数をアルファベットで表記する。A→1軸、B→2軸、C→3軸、D→4軸、E→5軸。F→6軸。B-B軸ならば、車両の前後に各2軸・計4軸8輪がある。

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