上信線紀行(28)根小屋駅と上野三碑

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山名1500===高崎商科大学前===1505根小屋
上り(普通)38列車・高崎行(6000形2両編成)
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上信線沿線二大神社のひとつ、山名八幡宮(やまな-)の門前駅である山名駅から、高崎方へふたつ目の根小屋駅(ねごや-)に行ってみよう。お母さん駅長氏にお礼の挨拶をし、改札口から見送られながら、15時丁度発の日野自動車広告ラッピング車の6000形に乗車する。山名駅からS字カーブの急勾配で丘陵東麓に上がると、見事な冬晴れの下、
赤城山や雪を頂く日光連山が遠くに見える。


(大学前駅付近からの展望。この丘陵際の烏川西岸も、宅地開発が進んでいる。)

高崎商科大学前駅を過ぎ、高台から下ると、根小屋駅に所要時間約5分で到着。鎌倉時代から戦国時代頃まで、この丘陵地帯には、山城が幾つか築かれていた。根小屋の地名もありきたりであるが、元々は、城下の家臣達が生活する場所を指すそうで、古くからの武家集落があった名残と思われる。

根小屋駅は、電化改軌直後の大正15年(1926年)6月1日に追加設置された駅になっており、起点の高崎駅から3.7km地点、3駅目、高崎市根小屋町、標高85mの曜日時間限定委託業務駅である。駅周辺はやや疎らであるが、徒歩20分程の場所に城山団地と呼ばれる戸建ての大規模新興住宅地があり、高崎のベッドタウン駅として、意外に乗降は多い。


(建て植え式駅名標は、細いフォントの上信電鉄標準仕様である。)

先に、お母さん駅長氏に挨拶をして、見学と撮影の許可を貰うと、「好きに撮っていって下さい」と、にこやかに返して頂いた。北西-南西に配された単式ホーム一面一線のシンプルな駅であるが、幅員が広く、狭い感じはしない。高崎寄りに、木造モルタル建築の駅舎と昭和風のロングベンチ付き開放式待合所が並んでいる。

また、初老の優しい感じのお母さん駅長が、勤務している駅として良く知られており、地元住民や学校の生徒達とも顔なじみの様である。耳をそばだてて、地元住民との会話を聞いてみると、家庭的で、鉄道会社では無い感じも良い。女子中学生が南蛇井までの切符を求めると、「高いわよねえ」と話しているが、沿線一般住民の認識でもある。3kmまでの初乗り運賃は180円と若干高いが、高崎-下仁田間の34km1,110円は、JR高崎線上野-高崎間102km1,940円と比べても、地方民営鉄道として標準的に感じる。


(下仁田寄りからホーム全景。)

旅客上屋兼開放式待合所の背面には、昭和な駅広告看板がずらりと並ぶ。一番左端の地元高崎にある大学受験予備校の看板が、妙に異彩を放っている。男子の名前は、「合格大ちゃん」と予備校らしいこじ付けと感じるが、女子の名前は、何故、「ソフィー」なのかは判らないので、ここは笑う所である。若い男女のイチャつきイラスト駅広告看板など、今では難癖が付きそうであるが、大らかな昭和の雰囲気である。


(地元予備校の広告看板。隠れた名物看板かもしれない。)

下仁田方は、半径220mの左急カーブをすると、16.7パーミルの上り勾配になって、丘陵に上がる。この先の山名駅までは、丘陵の高台を走るので、上信線の中でも唯一の高所展望地になっている。手前下に烏川と新幹線高架が見え、天気が良ければ、赤城山や日光連山も眺められる。また、丘陵を下る幾つかの沢や鏑川の支流も、小さな鉄橋で越える。


(下仁田方と山名丘陵。高崎側の丘陵地は、宅地化されている場所も多い。)

高崎方には、嵩上げがされていない旧ホームの一部が残る。戸建ての住宅も多く、ふたつ目の踏切先の小川をピークとするアップダウンを越えると、大きく右にカーブをする。そのまま、烏川の低地帯に下って行くと、カーブを抜けた先に烏川橋梁がある。また、線路脇に廃業した昭和風の酒店があって、ちょっとした撮影スポットになっている。


(高崎方。緩い上り勾配になっているので、駅は勾配の谷にある。)

(廃業した宮一商店と折り返してきた下り下仁田行き6000形。)

駅舎を見てみよう。ホームよりも一番低くなっており、スロープと階段がある。改札口のポールは無く、まるで民家の様な作りで、古いながらも大変綺麗である。窓や引き戸に嵌められたガラスは、僅かに歪むアンティークガラスのままになっている。


(ホーム側からの駅舎。近年、外壁は、クリーム色から青色に再塗装された。)

(改札口。ポールや鎖は設置されていない。)

駅部分は、やや高いコンクリート瓦屋根になっており、母屋(駅員宿舎)部分は、南蛇井駅と同じ棟落ちのある切妻トタン屋根になっている。ふたつの建物が直角に合体した様な構造になっており、母屋から飛び出した部分も多く、何回か増改築されたのであろう。また、棟落ちの軒下に、古い木製駅名標が掲げられている。


(駅前からの駅舎。色々な建物が集合している感じがして、面白い。)

(駅舎母屋側。駐輪場もあり、荒れている。)

待合室は大変狭い。6畳程度の長方形の西向きで、向い合せの低い座面の木造ロングベンチが据え付けられている。お母さん駅長氏曰く、「住み込みで勤務していたので、(駅の部分よりも)母屋の方が大きいのよ」との事。まるで、どこかのお宅にお邪魔した様な、不思議な感じがする。


(待合室と駅出入口。有人駅なので、掃除や整理整頓も行き届いている。)

(駅出入口側からの出札口と待合室。黄色いベンチと座布団が並ぶ。)

待合室の一番奥の通用口扉に、猫の写真が額縁に飾られている。お母さん駅長氏に尋ねると、世話をしていた駅猫トラがいたが、6年前に亡くなった。20歳まで生きて、大往生したそうなので、猫としてはとても長寿であったらしい。しかし、猫が苦手な利用客もいて、色々と大変な事もあったと言う。


(駅猫トラの遺影。まるで、駅の守り神の様な佇まいである。)

時刻は夕方の16時を過ぎ、斜陽になってくると、中高生が数人やって来る。ホームで16時11分発の下り下仁田行き列車を待っており、これから帰宅するのであろう。待合室の懐かしい振り子時計が、「カチコチ、カチコチ」と、時を刻んでいた。


(列車到着時刻には、お母さん駅長氏もホームに出て、安全を見守る。)

山名駅から根小屋駅に添っている丘陵には、古代石碑の金井沢碑(かないざわひ)と山ノ上碑がある。今旅では、時間の関係で訪問ができなかったが、高崎駅に実物大の精巧なレプリカが展示されていたので、簡単に紹介しよう。


(展示された上野三碑の実物大レプリカ。)

この根小屋駅から丘陵の方に登って行くと、奈良時代に建立された石碑である金井沢碑【赤色マーカー】がある。山名八幡宮西の山中に山ノ上碑と古墳【黄色マーカー】があり、吉井駅で下車観光した多胡碑(たごひ)【青色マーカー】と合わせて、上野三碑(こうずけさんぴ)となる。

根小屋駅から徒歩約20分にある金井沢碑は、奈良時代初期の西暦726年に建てられた高さ111cmの石碑で、地元豪族の三家氏が、仏教を信仰して、祖先を供養するために建立したものである。9行112文字の漢字が刻まれているが、風化が激しく、読みにくい部分もある。なお、江戸時代に発見されたらしく、それまでは、土に埋もれていたらしい。


(金井沢碑の実物大レプリカ。)

《原文 ※碑文は縦書き、段落位置は原文のまま。》
上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子■為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次若蹄
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地請願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月廾九日

《現代語訳》
上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子□が(発願して)、祖先および父母の為に、
ただいま家の刀自の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の刀自、その子の若刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって、お祈り申し上げる石文である。神亀三年(七二六年)丙寅二月二十九日

※原文の■=判読不明箇所。
※刀自(とじ)=主婦、女性の尊称。

碑文冒頭には、「上野国群馬郡(こうずけこくぐんまぐん/群は旧字)」の文字が見られ、現存する最古の「群馬」の文字と言われている。なお、現在の「群馬」は、古くは「車(くるま)」の漢字一文字で表していたが、和銅6年(713年)の好字(こうじ)二文字令により、一文字の地名は二文字に強制的に変えられた。現在も、地名の殆どを二文字の漢字で表すのは、この政令が、後世に渡って暗黙の了承になっている為である。当時、地名における日本神話の影響や、中国風地名を排除する意図があった。

山名八幡宮西の山中にある山ノ上碑【黄色マーカー】は、飛鳥時代後期の西暦681年に建立された高さ111cmの石碑で、破壊されていない完全なものとしては、国内最古のものである。なお、先述の金井沢碑と関連があると言われ、当時、朝鮮にあった新羅国の石碑にも、良く似ているらしい。

放光寺(前橋市の山王廃寺)の僧侶・長利が、亡き母の黒売刀自(くろめとじ)の菩提を弔い、父母と自分の系譜を記した石碑である。4行53文字が全て漢字で刻まれているが、漢文読みでなく、日本語の読みで読める。石碑の横に石碑よりも古い古墳があり、元々は、父の墓とされ、母を追葬したと考えられている。


(山ノ上碑の実物大レプリカ。)

是非、原文の日本語読みに挑戦して欲しい。意外に分かる文章であるのが、面白い。平仮名採用以前の日本語表記の特徴を表しているとされている。

《原文 ※碑文は縦書き、段落位置は原文のまま。》
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧

《現代語訳》
辛巳年(西暦681年)十月三日に記す。佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である長利が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

※屯倉(みやけ)=大和朝廷の地方統治機関で、烏川の近くに置かれた。金井沢碑の三家氏(屯倉から転じた)もその流れの一族。

このふたつの石碑は、鏑川の辺りにある多胡碑と全く内容が異なるものであるが、古代の様子を伝える貴重な史跡として、覆屋が建てられ、大切に保存されている。現在、上野三碑は、ユネスコの世界記憶遺産の登録を目指している。

なお、多胡碑は平地の公園にあるので、観光時の服装で構わない。金井沢碑と山ノ上碑には、山中の茂みや階段を登る為、山行きハイキングの服装が良い。また、山ノ上碑から金井沢碑まで、「石碑の路(いしぶみのみち)」と呼ばれる6kmのハイキングコースもあり、万葉集の中の上野国を詠んだ29の碑が建てられている。再訪時には、是非、訪れてみたい。

(つづく)

車の音の止まりしに
駅夫の声に驚きて
まっぴらゴメンと二・三人
降り行く客の根小屋駅

上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。


【参考資料】
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館・2004年)
高崎市公式HP「上野三碑」

2017年7月26日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
2017年7月27日 音声自動読み上げ校正

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