天浜線紀行(32)金指駅 前編

気賀(きが)関所の見学と昼食も済ませた。ふたつ東隣の駅、天浜線の11つの登録有形文化財駅の最終訪問駅になる金指(かなさし)に向かおう。今度の天竜二俣方面の上り列車は、11時59分発になる。駅のホームに二十人近い人々が待っており、ざわざわと賑やかな感じは、天浜線本社中核駅の天竜二俣以上に感じる程だ。上下列車共に同じホームで発着する事、両隣の西気賀や金指で列車交換をする為、上下列車の発車時刻の時間差が小さい事、春夏は駅舎の待合室で待つ人が少ない事が理由らしい。構内踏切に差し掛かると、タイフォンを大きく鳴らし、列車がホームに進入して来る。


(上り128列車掛川行きTH2108が、到着する。)

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【停車駅】◎→列車交換可能駅 ★→国登録有形文化財駅
気賀★1159==気賀高校前==1204金指◎★
上り128列車・普通掛川行(TH2108・単行)
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到着した上り列車から、数人下車し、10人程が乗車する。短時間の乗車なので、最後尾に立席で良いだろう。駅スタンプラリー用の回数券も、忘れずに取っておく。


(気賀駅を発車する。最後尾から撮影。)

定刻に発車。ローカル線としては、乗客は20人位で程々に混んでいる。町の東境の井伊谷川(いいのやがわ)のプレートガーター鉄橋を渡ると、都田川に沿って走り、第三セクター転換後に新設された気賀高校前(現・岡地)に停車する。川は離れ、国道と共に山際に寄って行き、進行方向左手に多数の建物が見えてくると、気賀から所要時間5分で金指に到着。このまま、列車交換の為、8分間停車すると言う。何人かの乗客も、タバコを一服する為に降りて来ている。

ちなみに、街道時代の姫街道は、気賀より進路を南東に取り、県道216号線に沿って、三方原(みかたはら)の遠州鉄道西鹿島線自動車学校前駅の方角に向かった。この線路に並走していた区間の国道362号線は、秋葉街道である。


(金指駅に到着。)

三ヶ日から西気賀まで乗車したTH3501が下り新所原行きとして、2番線に到着する。3、4人の乗客が乗降した後、お互いに汽笛を「ピーィッ」と鳴らし、発車していった。


(さわかや色のTH3501と列車交換をする。)

この金指駅は、二俣西線の三ヶ日(みっかび)から、昭和13年(1938年)4月に延伸開通した際に開業した。国鉄二俣線が全線開通する昭和15年(1940年)6月までの約2年間は、二俣西線の終着駅であった。今でも、列車交換も多く、有人駅として、天浜線の主要駅のひとつになっている。

起点の掛川から23駅目、41.9km地点、所要時間約1時間20分、標高7m、終点の新所原(しんじょはら)からは14駅目、25.8km地点、約50分になる。浜松市北区引佐町金指(いなさちょうかなさし)にあり、駅前に広がる金指地区と、北側の山向こうの小盆地の井伊谷(いいのや)地区の玄関駅になっている。

この駅は有人駅なので、先に駅長氏に撮影見学の許可を貰おう。構内は、東西に配された島式ホーム1面2線の列車交換可能駅となっており、1本の側線と木造駅舎も残っている。東側の天竜二俣方の東端は、乗降に使われておらず、昔の盛り土部と背の低い樹木が植えられている。また、構内ポイントはY字ポイントではなく、北側の上り1番線が本線、南側の下り2番線が副本線となる片開きポイントである。


(天竜二俣方と旧ホーム。)

ホームには、短足な国鉄風駅名標と観光案内板がある。嵩上げ工事時に建て植え直されず、そのま工事した為であろう。両隣の駅名が学校前名も、全国的に珍しいかもしれない。また、隣の木製の道標型駅名標は、天浜線開業10周年記念として、設置されたもの。


(短足な建て植え式駅名標。)

(道標式駅名標と観光案内板。)

この駅の最大の見所は、ホーム西寄りに建てられた短い旅客上屋である。中央一列の柱を三角形に組み、上部は変形トラスが組まれた独特な構造になっている。また、ホームの南側を見渡すと、かつて、構内がとても広かった印象を受ける。側線も1本だけ残っており、天竜二俣方で行き止まりになっているが、複数の貨物側線があったという。


(構内踏切横から旅客上屋全景。昨日、訪問した岩水寺駅も一列柱であるが、それよりも複雑な構造をしている。)

(旅客上屋近景。)

側面の切羽板は岩水寺駅と似ているT形、屋根は天井板が無いストレート葺き、梁は弥次郎兵衛の様な構造になっており、面白い。柱の間には、木製ベンチや国鉄風プラスチックベンチも置かれている。実は、天浜線の木造旅客上屋としては、終戦直後の建て替えになり、一番新しいとの事。

また、現役での上下線両用の島式ホームとして、天浜線唯一になっている。ちなみに、遠州森駅、天竜二俣駅と三ケ日駅の島式ホームは下りホームになっており、天竜二俣駅上りホームと気賀駅は、片側のみ使用している。土台のプラットホームは開業時の昭和13年(1938年)竣工であるが、旅客上屋は終戦直後の昭和23年(1948年)に建て替えられた。開業当時の旅客上屋があったが、建て替えの理由は不明という。


(弥次郎兵衛の様な梁組み。)

(A型の主柱とベンチ。)

◆国登録有形文化財リスト「天竜浜名湖鉄道金指駅上屋及びプラットホーム」◆

所在地 静岡県浜松市北区引佐町金指字東金指1033-2
登録日 平成23年(2011年)1月26日
登録番号 22-0152
年代 [旅客上屋]昭和23年(1948年)建築(建て替え)※注
[プラットホーム]昭和13年(1938年)建築
構造形式 [旅客上屋]木造平屋建、スレート葺、建築面積48㎡。
[プラットホーム]コンクリート造、延長82m。
特記 西端に建つ上屋は切妻造スレート葺。
内側に傾斜した二本の柱を桁行に、4.6m間隔で配置し、
繋梁で固め、小屋をトラス組とする独特の構造になる。
プラットホームはコンクリート造で、延長82m。

※文化庁公式HPから抜粋、編集。
※文化庁では、昭和13年になっているが、天竜浜名湖鉄道に確認した所、昭和23年に建て替えられた。

かつて、この金指駅には、軌間762mmの軽便鉄道・遠州鉄道奥山線(元・浜松軽便鉄道/遠州鉄道に合併)も乗り入れていた。大正3年(1914年)に浜松から金指までの15.9km、大正12年(1923年)に井伊谷と古刹・方広寺近くの奥山までの25.7kmが延伸開通。東京オリンピック開催年の昭和39年(1964年)までの50年間運行され、当時、徒歩で片道約半日の所要時間を約1時間に短縮し、車長10m程の小さな気動車が走っていたという。

その為、奥山線の開業の方が早く、国鉄二俣線は後から乗り入れた形であった。今やその跡形は全くなく、現在の天浜線ホーム南隣にあったといわれる。長さ30m程の低床島式ホーム、上部が朝顔状にカーブした廃レール主柱の旅客上屋、天竜二俣方に待合室(詳細不明/史料写真不明瞭の為)があり、当時の国鉄二俣線唯一の連絡跨線橋が新所原方に設置されていた。

また、駅西方の引佐高校の近くには、この両線が交差したコンクリート製立体高架橋が残されており、井伊谷地区内に軌道跡が現在も残っている。気賀駅を出発した奥山線列車は、国鉄二俣線に並走して気賀方に西進し、井伊谷川の辺りにあった気賀口駅(現・ハローワーク付近)に停車。90度曲って、北に進路を取り、井伊谷川と神宮地川に沿って、盆地の西寄りに入って行った。

西側の新所原方は、3両分の嵩上げと近代化工事がされ、乗降に使われている。天浜線として、唯一の遮断機付き構内踏切があり、乗務員詰所が線路脇に建ち並ぶ。なお、早朝5時31分発の下り新所原行き始発列車が毎朝あり、夜間滞泊も行われているので、今も乗務員の宿泊に使われているかもしれない。

また、遠く向こうの線路右側のスペースは、井伊谷地区にあった住友セメント浜松工場の引き込み線跡である。国鉄二俣線内で最も遅い昭和60年(1985年)まで、鉄道貨物の取り扱いがあった。セメント工場は撤退したが、線路跡やトンネル等が残っているという。


(新所原方。この構内踏切は、跨線橋取り壊し後に設置されたという。)

構内踏切と連絡通路を通って、駅舎を見てみよう。気賀駅と同じ赤い洋風瓦の中型木造駅舎である。国鉄開通後、奥山線と共用していたらしい。


(ホーム側構内踏切横からの駅舎。)

(つづく)


2022年3月5日 ブログから転載・文章修正・校正。

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