雨雪を避けるホーム上の屋根を旅客上屋と呼ぶ。雨雪だけではなく、かつては、蒸気機関車から吐き出される煤煙が、ホームで待つ乗客に降り掛からない様にする役割もあった。なお、天竜二俣駅の大型旅客上屋は、全ての柱が木製ではなく、古レールの金属柱に置き換えてあったり、一部補強しているのが特徴になっている。
その金属柱部分も、1番線と2・3番線ホームでは、構造が少し違う。両ホームの旅客上屋共に、長さ40m・幅2.6mの大きさがあり、柱は11列、中央の6列目の柱と両端2列が金属柱・補強柱になっている。上りの1番線は、古レールを切断し、新たな三角形の金属板を溶接した全金属製。下りの2・3番線は、木製柱に金属柱を貼り合わせた補強柱(木と金属の合材)になっている。長い旅客上屋のため、両端の剛性を上げ、梁がしならないようにしているらしい。
【天竜二俣駅旅客上屋の柱配置図】
上り、下りホーム共に同じ配置、大きさ。
◯印は、1番線は金属柱、2・3番線は金属柱で木製柱を補強。
□印は、木製柱のみ。
上り1番線ホームに上がって、見てみよう。屋根下の小屋組みも、斜めに上がる登り梁や、梁同士を挟んで強度を上げた挟み梁がある。意外に複雑な構造になっているのが判る。
(構内踏切スロープ下から、上り1番線ホーム旅客上屋。)
(上り1番線ホームの梁構造と新所原方端部の金属柱。)
1番線ホームの中程の駅舎側木製柱には、金属製の建物財産標も残っていた。傷みも激しいが、「S15・1(昭和15年1月/1940年1月)」と登録年月が読める。勿論、開業年のもので、駅開業日より約5ヶ月前に竣工・登録されたらしい。
(国鉄時代の建物財産票。)
掛川方の端部に行ってみよう。金属柱の上部を見ると、古レールを切断し、Y字に大きく広げている。三角形の金属補強板を溶接してあるのが特徴で、4つの金属柱を互いに連結し、力強い雰囲気になっている。なお、古レールをこの様に加工した例は、全国的に珍しいという。
(1番線ホーム掛川方端部の金属柱。※構造が判る様に、露出オーバー気味に調整済み。)
この1番線ホーム掛川方の金属柱には、アメリカ・カーネギー社(CARNEGIE)の1911年(明治44年)製造の古レールがある。ちなみに、この駅で確認できる一番古いレールとされる。判断しにくいので、白チョーク粉を撒いてある(不注意により、冒頭のCが一部欠けて撮影)。
(カーネギー社製の古レール。下から文字が始まっている。)
純国産の八幡製鉄所の1929年製(昭和4年)8月製造の30kgレールもある。他の二柱は錆で刻印が崩れ、判読が難しい。なお、八幡製鉄所の生産開始は、明治34年(1901年)になるので、かなり初期製造のレールである。大正時代の頃までは、国産レールの品質が輸入レールに及ばなかった為、英国やアメリカからの輸入されたレールが、多く使用されていた。また、鉱山の坑道支柱や工事・建築用としても、大量に輸入されている。鉄道駅の古い旅客上屋の柱に、輸入レールがよく見られるのは、その為である。
(八幡製鉄所製古レール。刻印は上から読む。)
ちなみに、八幡製鉄所製レールの刻印の読み方は、以下の通りになる。
・「丸にS」のマークが、八幡製鉄所の刻印。
・レールの重さ(最初はヤード当たりポンド、後にメートル当たりキログラム表示)。
・レールの種類(Aは高速路線用、Bは低速・貨物路線用/BはAよりも、高さが低く扁平)。
・製造年(西暦表示/戦時中のレールの一部は、皇暦で表示したものもある)。
・製造月(縦棒で表示/8本あるので、8月に製造)。
重さを30ポンドとすると、1ヤード約0.91cmに対しての約14kgになり、非常に軽過ぎる為、このレールはキログラム表示である。なお、ポンドはキログラムの倍が目安になっている。発注者が刻印されている場合もあり、国鉄(官鉄)の場合は「工」の刻印、民営鉄道の場合はアルファベット表示もある。輸入レールは、メーカーによって表示が違うので、更に複雑になる。
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2・3番線ホームの旅客上屋を見てみよう。中央6列目と両端の柱は、木製柱に古レールが側面を当て、数カ所のボルトで固定されている。こちらは、輸入レールはなく、全て八幡製鉄所製レールである。なお、中央6列目は線路に対してレールを直角にし、ホーム内側に向い合っている。両端部は線路に対して並行して内側に向い合い、内枠の様になっている。両端部天井に補強の筋交いがあるのは、1番線ホームと同じである。
(2・3番線ホーム旅客上屋下と掛川方金属補強柱。)
両端部の金属補強部は、1番線よりも細く、上部の連結構造も簡易になっている。このふたつの旅客上屋は、同時期に建築されたものだが、違いが大きくて興味深い。1番線ホーム工事の際、加工に手間がかかったので、こちらは簡易にした可能性がある。
(2・3番線ホーム掛川方の上部構造。三角形の金属板も小さい。)
切羽板の外側には、ラッパ状の部品が取り付けられており、昔の構内放送スピーカーらしい。また、2番線側の柱の上に国鉄財産標が掲示されている。
(掛川方の切羽板とラッパ。雨樋の屈折部横に財産標がある。)
ふと、古い旅客上屋下から眺めるのも、何だか良い。切羽板の隙間光も年月を感じさせる。
(2・3番線ホーム旅客上屋端部から掛川方を望む。)
□
駅舎本屋と1番線の島式ホームの間には、2線分の廃線跡があり、植栽がされ、子供向けのトロッコやモニュメントが設置されている。
トロッコ線の名称は、「てんぱま線」。駅員達の手造りらしく、コミカルな顔の表情とポリ管の取って付けた煙突が面白い。なんと、ふたり乗り並列漕ぎの自転車トロッコ車両の後部には、客車も付いている。数十メートルの線路が敷かれており、切符や入場券を購入し、保護者付き添いで利用できるとの事。訪れた小さい子供達に大人気になっている。
(名物の子供トロッコ列車「てんぱま線」。第三セクター化後のものらしい。)
この廃線スペースは、国鉄時代の佐久間線の発着ホームになる予定であった。この天竜二俣駅から天竜川に沿って遡り、銅鉱山のある佐久間を経由し、飯田線の中部天竜駅までの山間部を繋ぐ路線として、計画された。
昭和42年(1972年)から工事が進められたが、国鉄末期の国鉄再建法により、工事は凍結され、そのまま未成線になっている。駅東側の山にトンネル跡、天竜川沿いにトンネルや築堤等が今も残り、その一部は民間に払い下げられたり、転用されたりしているという。
※赤星マーカーは天竜二俣駅、黄星は佐久間駅、青星は中部天竜駅。なお、ルートはイメージで、正確な計画路線位置は示していない。
(佐久間線ホームになる予定であった駅舎側ホーム。)
佐久間銅山からの銅鉱石輸送を目的とした路線であったが、昭和45年(1970年)に閉山になっている。かつての光明電気鉄道(現在は廃線)や遠州鉄道も、佐久間までの延伸開業を計画していた時期もあった。
また、明治時代中頃の国の鉄道建設計画では、掛川駅から天竜二俣駅、飯田線の浦河駅(中部天竜駅の豊橋方に3つ隣の駅)を経由し、更に北西に延伸して、国鉄明知線明知駅(現在の明知鉄道明智駅)に接続。中央西線恵那(えな)駅に至る「遠美線」の大構想もあった。帝国議会で決議もされたが、大正12年(1923年)に発生した関東大震災の為、無期限延期になった。
(つづく)
2020年6月2日 ブログから転載・文章修正・校正。
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