流山線&竜ヶ崎線紀行(12・竜ヶ崎線編)竜ヶ崎駅へ

このまま、このコロッケトレインこと、9時55分発の関東鉄道キハ2002に乗り、終点の竜ヶ崎駅(※)に行ってみよう。といっても、途中駅はひとつ、たったの4.5kmの旅である。これ以上、どうしようもない位にシンプルであるのが、潔く感じる。竜ヶ崎線の開通以前、常磐線(当時は、日本鉄道土浦線)に乗るには、佐貫駅がまだ無く、藤代駅に行く必要があった。徒歩で約1時間30分、大きな荷物も運ぶならば、それ以上かかっていたはずである。竜ヶ崎線開通当時は、一気に時間をワープする魔法の様な乗り物であったに違いない。

ここで、竜ヶ崎線の歴史をおさらいしてみたい。この付近の中心地であった龍ケ崎を常磐線が経由しなかったため、町の有力米穀商が中心になって出資し、常磐線開通から4年後の明治33年(1900年)8月14日に蒸気軽便鉄道・龍崎鐵道が開通。大正4年(1915年)に国鉄と同じ狭軌1,067mmに改軌し、普通鉄道にグレードアップした。しかし、太平洋戦争中の国策により、昭和19年(1944年)に鹿島参宮鉄道に吸収合併された。戦後になると、鹿島参宮鉄道と筑波常総鉄道の合併により、関東鉄道が設立され、現在に至っている。延伸や廃線のない開業当時のままの単一路線であり、関東エリアでは、蒸気機関車が最後まで走っていたという。近年は、東京のベッドタウン化が急速に進み、龍ケ崎に大学も進出している。第72代横綱・稀勢の里(きせのさと)が、龍ケ崎市内の小中学校に通っていたことでも、最近話題になった。

10人程の乗客を乗せ、定刻通りに発車。発車後、直ぐに半径207mの左急カーブをそろりそろりと曲がって行く。カーブを抜けると、住宅地内の上り微勾配の直線になり、時速60kmまで一気に加速。ハイパワーな直列6気筒、総排気量12.8リッター、最大出力330馬力の新型ターボディーゼルエンジンが噴き上がる。電車は静かでスマートであるが、気動車は昔の蒸気機関車に通じる荒々しい力強さがあり、この体感がとても楽しい。また、竜ヶ崎線では、コンクリート枕木化と重軌化(※)の大規模な線路改良が行われており、中小民営ローカル線としては高規格な線路になっている。佐貫駅先の急カーブなど一部を除けば、殆どが直線で急勾配もない。


(佐貫駅を発車する。※当列車の最後尾から撮影。)

佐貫市街地を抜けると、左右に広大な畑が広がる。列車は高速のまま、昔ながらのジョイント音を刻みながら、一直線に走り抜ける。流鉄線が車体を揺らしながら、のんびりと走るのと全く逆の弾丸列車の様である。平台と呼ばれるこの付近は、利根川が土砂を運んだ平坦部であるので、勾配は殆どない。


(佐貫市街地を抜け、畑と荒れ地が広がる平台を走り抜ける。幾つかの第四種踏切もあり、タイフォンを鳴らす。※当列車最後尾から、後方の佐貫方を撮影。)

前方に小さな集落が見えると、所要時間4分程で、唯一の途中駅である入地(いれじ)駅に到着。乗降客はおらず、直ぐに発車になる。再び、直線の線路を爆走する。


(入地駅を発車。丁度、路線の中間地点にある。※当列車最後尾から、後方の佐貫方を撮影。)

すると、2キロポスト(佐貫駅から2.5キロ)付近では、急に「パタン、パタン、パタン、パタン」とジョイント音が短く連続する様になり、短尺レール(※)が使われているらしい。もしかしたら、大正時代の改軌当時のレールかもしれない。なお、キロポストは、東京寄りの佐貫駅起点でなく、終点の竜ヶ崎駅からのキロ数になっている。国鉄やJRは東京駅が起点(0kmポストの設置駅)であるが、古い地方民営鉄道では、地元本拠地を起点とすることも多い。混乱を避けるため、JRと同様に東京方面行きを上り列車(起点行きが上りなので、本来は下り列車)と案内することもある。

新利根川の支流・江川を小さなデッキガーター鉄橋で渡ると、竜ヶ崎線名物の大S字カーブ区間に入り、最大半径1,200mのカーブを減速せずに気持ちよく抜けて行く。ミキスト(※)の頃は、今よりも長い5、6両編成程度だったので、撮影名所であっただろう。
グーグルマップ 竜ヶ崎線大S字カーブ


(竜ヶ崎線の大S字カーブ区間。線路周辺は、田や荒れ地が広がる。※上り佐貫行き列車最後尾から、後方の竜ヶ崎方を撮影。)

タイフォンを鳴らしながら、ふたつの第四種踏切を連続して通過。1キロポスト(佐貫から3.5km)と大きな踏切を過ぎる。この1キロポスト付近の左手の空き地に、廃止された門倉駅があったという。


(門倉駅跡は踏切横にあった。小さな案内看板がある。龍ケ崎市街地の西の入り口付近にある。※上り佐貫行き列車最後尾から、後方の竜ヶ崎方を撮影。)

線内最大らしい下り10パーミル勾配と返しの上り8.3パーミル勾配のダウンアップをこなし、県道4号線の陸橋をアンダーパスすると、大きなショッピングセンターが右手に寄り添う。急減速して、少しだけ左に曲がり、時速20kmの微速でホームに静かに入ると、終点の竜ヶ崎駅に到着。ここまで、佐貫駅から約7分しかかかっていない。なお、佐貫駅や竜ヶ崎駅では、微速進行をするが、先年の常総線取手駅での列車暴走事故(※)を教訓に安全対策をしているらしい。線路にも速度照射式のATS地上子(※)が幾つも設置されている。


(終点の竜ヶ崎駅に到着。右手に車両区がある。※上り佐貫行き列車最後尾から、後方の竜ヶ崎方を撮影。)

ホーム側の三つの乗降扉が開くと、乗客が改札口に足早に向かい、入れ替わりに佐貫駅に向かう乗客がぞろぞろと乗り込む。ふと、運転室を覗くと、運転台横の乗務員扉下にタブレットが置かれている。竜ヶ崎線は列車交換設備が無く、この路線の短さであるので、全線一閉塞・同時一列車のみの運行になっている。


(終点の竜ヶ崎駅に到着すると、乗客は足早に改札に向かう。)

今日はとても寒いので、下車後は改札寄りの乗降ドア以外は、直ぐに締め切りになった。最後に改札口に寄り、佐貫駅で買えなかった1日フリー切符を中年の駅長氏にお願いすると、若い駅員氏に伝言し、発券して貰った。

竜ヶ崎線の延伸計画について、触れてみたい。開業当時から経営安定を求め、龍ケ崎の東10kmにある稲敷郡柴崎村伊佐津(いさつ/現・稲敷郡伊佐津)までの延伸計画を立てていた。開業二年後の明治35年(1902年)10月29日には、鉄道敷設の免許が早々に下りている。稲敷郡東部は、利根川がもたらした肥沃な土壌と水利を利用し、米作りが盛んであった。伊佐津は霞ヶ浦に注ぐ小野川の川湊として栄え、利根川を利用した東京への米などの物資の輸送も盛んであったので、大きな需要が見込めた。


(延伸イメージ図。赤線は正確なルートを示したものでは無い。龍ケ崎の中心部を通る案もあったらしい。)

竜ヶ崎駅手前の門倉駅付近から分岐し、龍ケ崎の外周部を周り、八代、長峰、根元や柴崎を経由して、伊佐津に至る約14kmの計画であった。しかし、金融恐慌、日露戦争の開戦、米の大凶作などの社会情勢や、免許が下りた年と翌年は赤字決算であったこともあり、敷設できぬまま、免許を返納している。

なお、現在の関東鉄道常総線(当時は、常総軽便鉄道/取手から下館間)も、この頃から因縁があったという。明治44年(1911年)に常総線の敷設計画が明らかになると、取手駅では無く、佐貫駅での連絡を政府に陳情した。開通から10年しか経過していないが、路線キロ4.5kmの小さな鉄道の生き残りを、必死に模索してたと考えられる。結局、常総軽便鉄道の申請通りに取手から下館間の敷設が許可されたが、戦後の合併で同じ会社になるとは、思えなかったであろう。もし、佐貫駅で連絡をした場合、江戸崎、潮来(いたこ)、鉾田(ほこた)まで延伸し、更に水戸まで至る南茨城横断鉄道の大構想があったという。あくまでも想像の世界であるが、とても興味深い。

最後に、唯一の途中駅である入地駅を紹介したい。実は、過去に途中駅が三駅もあった頃がある。

開通時には、南中島駅と門倉駅のふたつが開業し、1年後の明治34年(1901年)1月1日に入地駅が追加開業した。しかし、南中島駅と門倉駅は、鹿島参宮鉄道時代の昭和32年(1957年)4月26日に廃止されている。どうやら、戦時中の昭和19年(1944年)10月に、途中駅の三駅は休止駅になり、南中島駅と門倉駅はそのまま廃止になったらしい。何故か、三駅の中で最も年間乗降客数が少ない入地駅のみ、昭和23年(1948年)11月7日に復活している。


(待合室に掲げられたレトロな木製駅名標。新しい感じなので、復刻されたものらしい。)

かつては、小さな木造駅舎と一線スルー式(※)の列車交換設備があった。今は、単式ホームとコンクリート製開放式待合室がある。向かい側に線路跡のスペースとホーム跡の一部が確認できる。なお、列車交換設備が廃止された時期は不明である。鹿島参宮鉄道時代の昭和34年(1959年)頃の写真では、もう撤去されているので、かれこれ60年以上たっているらしい。


(佐貫方の踏切横からの入地駅全景。終日無人駅であるが、簡易IC乗車券の入出場機が、駅出入口のブルーテント内に設置されている。)

(総コンクリート造りの簡易な開放式待合室である。)

(佐貫方外壁には、以前使われていたらしい関東鉄道オリジナルの駅名標が保管してあった。)

(つづく)


(※地名表記について)
市名は、龍ケ崎市(旧漢字とケが大きい)、関東鉄道の路線名と駅名は竜ヶ崎線・竜ヶ崎駅(新漢字とケが小さい)。地元では、龍の字が難しいため、竜ケ崎と書く場合がある。また、竜ヶ崎線の前身・龍崎鉄道は、読みは同じであるが、ケがない。
(※重軌化)
軽いレールから、重いレールに交換すること。レールの1mあたりが重いほど、高規格で輸送密度の高い路線に向く。明治や大正時代に開業した古いローカル線では、建設費を抑えるため、1mあたり30kgや37kgの軽いレールがよく使われていた。近年は、幹線と同じ50kgを使うことが多い。なお、東海道本線などの主要幹線や新幹線では、更に重い60kgレールを使っている。
(※短尺レール)
1本のレールの長さは25mが基本で、それよりも短いレールのこと。長さ30フィート(約9.14m)の輸入30kgレールなどがある。
(※ミキスト)
Mixed Trainの略。ひとつの列車に客車と貨車を併結して運行する貨客混合列車のこと。輸送密度の低い地方民営ローカル線や国鉄ローカル線では、よく見られた。列車のスピードアップが難しく、各駅毎の貨車の連結や切り離しに時間がかかるなどため、現在は見られない。
(※取手駅での列車暴走事故)
平成4年(1992年)6月2日朝8時15分頃、関東鉄道常総線取手駅で4両編成の列車がオーバーランし、駅ビルに激突した大事故。乗客1名死亡、251名負傷。ブレーキ故障と運転士のブレーキ復旧取り扱いミスが原因である。
(※ATS地上子)
線路(二本のレールの間)に設置された自動列車停止装置(ATS)システムの保安装置。この上を規定速度以上で列車が通過すると、非常ブレーキが自動的にかかり、緊急停車する。
(※一線スルー式)
一方は直線の本線とし、分岐器(ポイント)の分岐側を副本線とした列車交換設備。本線側は、優等列車を高速で通過できる利点がある。

【参考資料】
関東鉄道七十年史(公式社史本/関東鉄道・1993年・龍ケ崎市立中央図書館所蔵)

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