流山線&竜ヶ崎線紀行(4・流山線編)馬橋散策

馬橋駅東口の階段を降りると、狭い駅前に送り迎えの車が出入りし、居酒屋やコンビニエンスストアなどが建ち並んでいる。駅からまっすぐに幅の狭い県道が延び、現・水戸街道の国道6号線は離れている場所【グーグルマップの黄色の道路】にある。


(駅東口から続いている県道。※夏の追加取材時に撮影。)

元々、萬満寺(まんまんじ)【寺マーカー】の門前町であるが、江戸時代には、江戸と水戸を結ぶ水戸街道の「間の宿(あいのしゅく※)」としても栄えた。間の宿は、正規の宿場の間にある宿泊ができない一時休憩地で、悪天候などの緊急時のみ、宿泊が許されていた。なお、両隣の正規の宿場は、松戸宿と小金宿である。

また、馬橋という地名は、旧水戸街道に架けられている橋【赤色マーカー】の名称が由来になっている。何度も洪水で橋が流され、村人や街道を往来する旅人も困り果てていた。萬万寺ゆかりの高僧の助言により、馬の鞍を模した橋をかけたところ、流されなくなった。人々は大いに喜び、この付近を馬橋と呼ぶ様になった。なお、平安時代中期から江戸時代までは、下総牧(しもふさまき/江戸時代は小金牧とも言われた)と呼ばれる馬の放牧育成地でもあり、馬が身近であったためであろう。室町時代の書物にも、「まはし」の地名が見られる。


(長津川に架かる馬橋。江戸から見ると、丁度、馬橋の玄関口にあたる場所らしい。今は、昭和60年7月に架け替えられた、平らなコンクリート橋になっている。馬を模したデザイン装飾はないが、洒落た欄干が取り付けられている。)

先ずは、この町の古刹である法王山萬満寺(ほうおうざんまんまんじ)【寺マーカー】に行ってみよう。駅前からの県道をまっすぐに歩き、突き当たりのT字路を左に曲がった先にある。通りから見ても、立派な大寺である。山門からは松の回廊と呼ばれる美しい参道が延びる。


(萬満寺山門と墓参りの休憩所を兼ねている鐘楼堂。後ろのドーム型の建物は、寺が経営する清風幼稚園である。)

鎌倉時代の建長8年(1256年)小金城主であった千葉頼胤(よりたね※)が、一族の菩提寺として、真言宗の大日寺を開いたのが始まりである。後に、現在の千葉市に移転してしまったが、南北朝時代の康暦(こうりゃく)元年(1379年)、14代・千葉満胤(みつたね)が、関東管領(※)の足利氏満の「満」の字を取って、臨済宗萬満寺を再興したという。江戸時代には、代々の徳川将軍家の保護を手厚く受け、水戸街道沿いの古刹としては、最大規模の朱印地70石・境内1万2千坪の大伽藍を成した。

しかし、長い寺史を刻んでいるので、何回かの大火で焼失している。明治41年(1908年)3月8日には、日本鉄道(現・JR常磐線)を走る蒸気機関車が出す排煙中の火の粉で火災が発生し、本堂、書院や庫裏(くり)を焼失してしまった。境内のほとんどの建物は再建であるが、往年を偲ばせる立派なものである。


(昭和62年に再建された新本堂。)

なお、本堂手前の仁王門だけは、明治の火難を免れ、江戸時代末の慶応元年(1865年)再建の最古の現存木造建築物になっている。正月、3月と10月の例祭の年3回、仁王像の股を潜る股くぐりが名物である。源頼朝に仕え、鎌倉幕府成立に大きな役割をした千葉常胤(つねたね)の孫娘が天然痘にかかったが、この仁王像の股を潜った所、治ったという。今は、無病息災の御利益が得られるとして、大勢の人々が潜りにやって来る。

左右に安置された寄木造りの仁王像は、鎌倉時代の作と伝えられているが、詳しくは分かっていない。国の重要文化財に指定されている。仁王像はガラスと金網に遮られ、外からは見難い。小さな階段が据え付けられており、脛や足首の部分はかなりテカテカになっている。幅はかなり狭いので、メタボの人は無理そうである。


(仁王門。)

仁王門を潜ると、本堂右手前に小池と高座の六角堂がある。江戸時代、義真(ぎしん)というとても優秀な寺小僧がいたが、あまりにも悪戯好きのため、寺を追い出されてしまった。日頃から馬鹿にされていた寺男が、「懲らしめてやれ」と捕まえ、蓑巻きにして坂川に放り投げたところ、白蛇がスルリと抜け出し、何処かへ行ったと言われる。白蛇は古来から弁財天の使いと信じられており、村人達から、「義真は弁財天の化身である」と祀られる様になった。また、本堂左手前には、水掛不動尊と水子地蔵も安置されている。


(義真弁財天。地元では、小僧弁天とも言われている。学業や知識にご利益があるとのこと。)

(水掛不動尊。新しい感じである。現在の境内は狭いが、由縁物が多い。)

水掛不動尊の後ろに鳥居【鳥居マーカー】が見えるので、行ってみよう。なんと、社殿がない。この馬橋王子神社の地元関係者らしい年配男性がふたりおり、挨拶をして、事情を伺った所、昨年秋に不審火で全焼してしまったとのこと。なんとも罰当たりな人がいるものである。


(全焼した馬橋王子神社。旧社格は村社であるが、大きな神社である。)

氏子や地元企業の寄付を約1億円集め、火災に強い鉄筋コンクリートの社殿に建て直す予定と話してくれた。御神体の鏡は不思議なことに火の手に巻かれず、無事であったそうで、仮社殿に安置されている。また、東日本大震災の直前、前触れの様に鳥居が綺麗に折りたたむ様に倒れたという。やはり、何か不思議な力があるのかも知れない。


(仮社殿。主祭神は、幸江序命「さちえわけのみこと」である。)

この馬橋一帯は、かつては砂丘であった。そのため、水利は良くなく、雨請いの神様であるお諏訪さま(諏訪明神)を、鎌倉時代後期の嘉元(かげん)4年(1306年)に勧請した。また、萬満寺の守護神になっており、同寺が別当寺(べっとうじ※)であった。室町時代に当時流行していた熊野十二社の王子権現を再勧請し、王子権現社になり、明治政府の神社分離令で独立。それ以降は、王子神社になっている。なお、旧・馬橋村の役場がここに置かれていた。


(新社殿完成予想図。街中に沢山掲示されており、地元の信仰もとても厚いと感じる。)

おふたりから再建の熱意を感じ、千円の少しばかりの金額であるが、参拝時に賽銭箱に納める。御礼を言い、現在の水戸街道である国道6号線の八ヶ崎交差点【青色マーカー】に行ってみよう。富士見坂と呼ばれる長い上り坂の県道を歩く。この県道が旧水戸街道で、5分程歩くと、4車線の大きな国道に出る。この交差点の一角に江戸時代の道標が保存されている。「左 水戸街道 右 印西道」と刻印されているが、印西道(いんざいどう)は現存していない。江戸時代後期の文化3年(1806年)の年号、庚申信仰(※)の青面金剛尊と「総州葛飾郡馬橋村」の刻印も見られる。


(水戸街道の道標。正面の水戸街道の文字の上に、青面金剛尊の文字と円形の雲形がある。)

(交差点歩道橋上からの国道6号線水戸方面。今も重要な街道として、車の往来は非常に多い。)

駅に戻ろう。昭和高度成長期から、東京のベッドタウン化しているため、新しい家並みになっているが、古い建物も僅かに残っている。富士見坂の途中のたばこ兼銘茶店【黄色マーカー】、T字路角の呉服洋品店【緑色マーカー】が特に目を引く。


(富士見坂途中のたばこ兼銘茶店「十字屋」。小屋のような質素な佇まいである。ブリキ看板に文字が薄っすらと残る。築年は不明であるが、昭和30年代から40年代にかけてと思われる。)

(T字路角の呉服洋品店「しなの屋」。昭和30年代の看板建築らしい。この石造風看板の裏側は何にもなく、イミテーションであるが、一見、本物そっくりである。現在は廃業し、有料自転車預かり所になっている。)

馬橋東口近くには、本町通り商店街がある。廃れ気味の昭和の商店街であるが、昔ながらの菓子店【菓子マーカー】があるので立ち寄ってみよう。肉屋の様にショーケースが店先に張り出し、個食の和菓子の他、おにぎりやおこわなども取り揃え、ひとつから購入できる。男性客も昼食がわりに買って行っている。
馬橋本町通り商店街公式HP「山長餅和菓子店」


(馬橋本町通り商店街入口。※夏の追加取材時に撮影。)

(山長餅和菓子店。※夏の追加取材時に撮影。)

昭和39年(1964年)創業とのこと。昭和の雰囲気満点の和菓子店はとても懐かしい。店頭販売がメインであるが、店内にテーブルもあり、そこで頂くこともできる。年配の夫婦が、「いいですよ」と快諾してくれ、お茶も頂いた。


(みたらし団子は税別60円と安い。甘さはかなり控えめで、少し塩っぱい位である。)

反対側の西側路地に入ると、静かな住宅地が続き、時代に取り残された様なバラック風の建物【紫色マーカー】や町銭湯【風呂マーカー】も残っていた。


(昭和バラック風の店舗。いつ頃のものかは不明である。居酒屋とコインランドリーが入っており、若い男性がのんびりと洗濯をしていた。※夏の追加取材時に撮影。)

(現在も営業している馬橋バスセンター。金属煙突の町銭湯である。脇の空き地を見ると、薪がうず高く積み上げられていた。※夏の追加取材時に撮影。)

(つづく)


(※間の宿)
正規の宿場には、宿場や周辺の村落に道路整備などの公役が課せられていたが、間の宿には課せられていなかった。本陣や旅籠は設けられなかった。
(※千葉氏)
元々は、京都から赴任した国司の次官(役人/現在の副知事に相当)であったが、4年の任期の後、土着武装した豪族である。上総(千葉県中部)、下総(千葉県北部)、常陸(茨城県南部)に勢力を置いていた。源頼朝の再起を助けたことから、鎌倉幕府では要職を務め、下総を治めた。
(※関東管領)
室町幕府から派遣された関東十カ国を治める役人。足利尊氏の四男とその子孫が世襲した。
(※別当寺)
江戸時代までは、神仏合祀が一般的であった。神社を管理する仏寺を別当寺と言う。当時は、神主よりも住職の方が上位であった。明治政府の国家神道政策により、神仏分離された。
(※庚申信仰)
平安時代から大正時代まで、特に江戸時代に盛んだった民俗信仰。元来は、中国の道教に由来し、人間の体内には、生まれながらに三匹の虫である「三尸(さんし)」がおり、60日に一度の庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し、地獄の閻魔大王にその人間の罪悪を告げて、寿命を縮めると考えられていた。それを防ぐ為、集落内での夜通しの宴会が、庚申の日に行われた。また、仏教の青面金剛や帝釈天、神道の猿田彦神に結びついている。日光東照宮の有名な三猿「見ざる、聞かざる、言わざる(、思わざる/本来は4つある)」はこの庚申信仰由来であり、「ざる」は猿で、猿田彦神から来ている。各地には、3年18回の庚申を記念する庚申塔が多数見られる。

【参考資料】
現地観光案内板・歴史解説板
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)

※馬橋散策は後日の追加取材です。散策には、2時間から3時間かかります。

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