昼過ぎの13時45分である。金堂地区から五箇荘(ごかしょう)駅に戻ろう。予想以上に見ごたえがあり、予定よりも散策に時間がかかってしまった。豊郷(とよさと)駅近くにある国登録有形文化財の豊郷小学校旧校舎群と、沿線一の大社「おたがさん」こと、多賀大社にも立ち寄る予定であるが、時間的に両方は無理そうである。寺社の参拝目安時間は16時頃までであり、門前の店屋も閉まって、つづら歩きの魅力が半減してしまう。どちらかと言えば、多賀大社がメインであるので、豊郷小学校旧校舎群は泣く泣く諦める。できれば、明日に時間を作って、訪問できればと。また、昼食も五箇荘で取りたかったが、時間節約のために抜きにした。15時前には多賀大社に着くであろう。
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五箇荘1418======1435高宮
近江鉄道本線・上り8106列車・米原行き
800形第三編成(←1803+803)・2両編成(ワンマン運転)
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実は、茅葺き旧家が残る旧中山道沿いにも、古い洋館の旧五箇荘郵便局が残っている。しかし、急ぐあまり見落として通り過ぎてしまった。14時過ぎに五箇荘駅に到着。昼下がりは上下毎時1本の電車のところ、今度の上り列車は14時18分と接続が良い。途中主要駅の高宮で下車し、支線の多賀線に乗り換える必要がある。
(14時過ぎに五箇荘駅に戻る。駅に人気はなく、ひっそりとしていた。)
(駅時刻表。平日と土日祝日の運行本数にあまり差がない。)
雲ひとつない晴天で蒸し暑い。駅舎軒下の陰で休んでいると、突然、上り東京行き新幹線が轟音をたてて通過し、びっくりする。ここは京都から米原の新幹線駅間の中間付近であるので、時速200キロ以上出ているようだ。今は盛り土で見えないが、かつてはホームから鈴鹿の山並みが正面に見え、景色が楽しめたのだろう。
(五箇荘駅横を通過する上り新幹線。)
上り米原行き列車が定刻通りに到着する。2両編成の車内には50人近く乗車している。高校生達が多いので、八日市に学校があるのだろうか。運動ジャージ姿の生徒が多く、祝日(休校日)の部活動の帰りらしい。沿線に並々と続く住宅を見やり、琵琶湖に注ぐ大河の愛知川と犬上川を渡って、並走している東海道新幹線と別れると、途中乗換駅の高宮に所要時間約17分で到着。乗り換え時間は10分ほどしかないが、さらっと駅構内を見学してみよう。
(建て植え式駅名標。五箇荘駅と同じ唐草装飾付きのフレームである。)
この高宮駅は本線主要駅のひとつである。起点駅の米原から9.9キロメートル、7駅目(開業時は彦根起点1駅目・愛知川終点)、所要時間約23分、標高105メートル、彦根市高宮町、日中のみ駅員が配置されている。周辺は平坦地が広がり、宅地化が進んでいる。それなりに駅構内は大きいが、オフィスビルや商店街が駅前になく、静かな住宅地に面してある。ちなみに、北九州の民営鉄道・西日本鉄道(西鉄)天神大牟田線に同名駅があるそうだ。
(高宮駅。木造駅舎は取り壊され、地域コミュニティセンター併設の近代的な鉄筋コンクリート造りになっており、一見すると、駅に見えない。)
(駅舎側の米原・彦根方面1番線ホーム全景。旅客上屋と構内踏切はそのままである。踏切部分のホームがすり鉢状に低くなっているのが特徴。)
彦根から愛知川間の第一期工事前期の明治31年(1898年)6月の駅開業で、近江鉄道でも最も古い駅のひとつになる。開業当初は唯一の途中駅であったので、大きな集落が形成されていたのであろう。この高宮は旧中山道沿いの二番目に大きな宿場町であり、室町時代から特産の麻織物「高宮上布」(現在は、国の伝統的工芸品の近江上布として知られている)の取引でも栄えたという。
ほぼ南北に配された駅構内は、本線の相対式ホームと多賀線ホームの2面3線、本線間の中線1本を配す。下り2番線と多賀線3番線は一体化しており、矢じり状の変形ホームになっている。また、ホーム北側彦根方に本線分岐器から枝分かれした留置線が3本あり、電車や貨車が若干留置され、彦根の車両区の補助として使われているらしい。
(米原方と構内留置線の電車。未確認であるが、かつて、3番線の東側にもうひとつホームがあったらしい。)
多賀線は大正3年(1914年)3月の開業である。多賀線専用ホームの3番線は北側から東側に向かって大きく湾曲し、米原彦根方からの下り列車が、左方分かれ分岐器で乗り入れできるようになっている。米原からの直通列車をスムースに通すためで、現在も土日祝日に朝夜上下1本ずつのみ残る。なお、近江鉄道の黄色い電車800形や「あかね号」の連結面袖下に車体をえぐった独特の三角形スラントがあるが、この高宮駅多賀線ホームの急カーブに対応するためである。近年に緩和改良され、青い電車の900形はスラントがなくなっている。
(駅舎側上り1番線ホームから、本線貴生川・八日市方面下り2番線と多賀線3番線ホームを望む。)
(2番・3番線の矢じり状ホーム。枝分かれして開いた部分に待合所と構内踏切が設けられている。)
(コンクリート剥き出しのホーム待合所。明かり取り付き木枠戸や縦格子窓が残るので、多賀線開業の大正時代から戦前のものと思われる。)
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高宮1446======1453多賀大社前
近江鉄道多賀線・下り3419列車・多賀大社前行き
800形第六編成(←806+1806)・2両編成(ワンマン運転)
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3番線からの14時46分発多賀大社前行きに乗車しよう。黄色い800形ワンマン運転2両編成の乗客は10人ほど。昼下がりであるため、とても閑散としている。本線電車が到着する毎、わらわらと乗り換える客が多く、自分のような観光客風の乗客は半分くらいである。しかし、沿線の宅地化が進み、大きな工場もあるため、朝夕の通勤通学時間帯は混雑するという。
(昼下がりの車内で発車を待つ。)
多賀線の中間駅はひとつしかなく、路線長はたったの2.5キロメートル、所要時間約7分である。元々は、軽便参詣鉄道を地元有力者達が計画し、敷設免許も下付されていた。後に近江鉄道に譲渡され、大正3年(1914年)3月に開業。短距離の枝線であるため、全線一閉塞の単線(列車交換なし)になっており、朝夕以外の日中の運転頻度は毎時上下1本と少ない。かつては、沿線工場の原料輸送・製品出荷も担っていたが、貨物輸送は廃止されている。
定刻に発車する。女声自動アナウンスの多賀大社の縁起が始まると、いかにも参詣鉄道という雰囲気になる。左大カーブから直線先の新幹線盛り土の下を潜り、右手に植栽越しの大工場が見えると、唯一の途中駅であるスクリーン(駅)に停車。典型的な企業通勤駅として追加設置された棒線駅である。なお、半導体・液晶製造装置の国内大手企業のひとつであるスクリーンは、写真製版用のガラススクリーンが社名由来とされ、約150年の社歴を誇る。線路を挟んだ反対側には、巨大なブリヂストン彦根工場もあり、周辺は内陸工業団地になっている。
(スクリーン駅を発車する。※列車最後尾から後方の高宮方を撮影。右手には、ブリヂストン彦根工場の福利厚生施設が建っている。)
2、3人が下車すると、スクリーン(駅)をすぐに発車。さして飛ばさず、ウィンウィンとゆっくり走る。田畑が残る住宅地、工場や遠く鈴鹿の峰々を右窓に眺め、今度は名神高速道を潜ると、終点の多賀大社前に到着する。
(キリンビール滋賀工場と鈴鹿の山並み。※帰路時に撮影。)
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行き止まり線路の駅舎側1番線ホームに到着。ドアが開くと、乗客が次々に降りていく。自分も最後に続いて降りると、ホームに降りた途端、妙に埃っぽい。長い間、無人駅であるのがすぐにわかる。米原周辺では最も有名な古刹の玄関駅であるので、少し残念に感じる。
(多賀大社前駅1番線ホームに到着。)
多賀線開通年の大正3年(1914年)3月に開業。以来、平成10年(1998年)3月までは「多賀」の駅名であった。駅自体は大きく、建て直された神明造り風の切妻屋根大型駅舎と3面2線のホームを擁している。多くの参詣客を捌くためか、線路両側にホームが接する配置になっており、各ホームを車止め部の通路で行き来をするので、いわゆる頭端式ホームだ。頭端部横には団体客や繁忙期用の臨時改札口も設ける。
(頭端式ホーム全景。普段は1番線のみ使われているらしい。)
典型的な門前終着駅であるが、かつてはセメント工場やキリンビール工場への貨物引込線が延伸し、旅客貨物共用駅でもあった。構内高宮方に長い留置線(専用側線)が3本ほど残り、名神高速道の高架下先まで約300メートル延びている。かつては、近江鉄道オリジナルの凸型電気機関車がゆっくりと貨車の入換仕業をしていただろう。
駅から南東2キロメートルの山中に住友セメント工場があり、石灰石列車が運行されていたという。また、南西1キロメートル付近には、キリンビールの国内主力工場のひとつである滋賀工場もあって、製品の出荷に使われていた。ともに線路や架線は剥がされているが、道路として一部残っているらしい。
(1番線ホームから高宮方を望むと、広い構内と貨物側線跡がある。線路上を横断している高架橋は名神高速道。)
駅前に出てみよう。現駅舎は平成14年(2002年)に地域公民機能を併設した複合施設に改築され、とても大きな観光案内所も改札口横に併設している。駅員は無人化されたが、駅事務所、出札口や改札口はあり、初詣などの多客時は駅員が臨時で詰めるという。
(再建された多賀大社前駅。)
(国鉄風ステンレス改札ボックスが設置された改札口。風対策のためか、アルミ引き戸がある。)
なお、この「お多賀さん」こと多賀大社と、「お伊勢さん」こと伊勢神宮を結ぶ参詣鉄道構想があったので、驚きだ。夢のような大構想に思えるが、戦前の昭和3年(1928年)10月に敷設免許を下付されている。用地買収も進んでいたが、世界恐慌と戦争拡大のため、未着工のまま終戦になり頓挫した。
その基本計画によると、電気普通鉄道(軌間1,067ミリメートル)、延伸距離15マイル40チェーン(約25キロメートル※)、建設費225万円(当時/現在の約60億円に相当)、途中駅5駅、トンネル1箇所、車庫1箇所であったという。
近江鉄道の延伸部分は、終点貴生川から草津線の西側に出て南下。滋賀・三重県境をトンネルで抜けて、現・三重県伊賀市玉滝を経由し、伊賀上野の現・伊勢鉄道広小路を新たな終点とした。広小路から伊賀線に乗り入れ、近鉄大阪線を経由・東進して、伊勢方面に向かうルートであった。ちなみに、伊賀線は大正11年(1922年)に全通している。この伊賀線の開通も大きなきっかけであったと思われる。また、本線が明治33年(1900年)12月28日に貴生川まで全通開業した際、伊勢神宮への初詣客向けの大幅割引キャンペーンを実施。正月三ヶ日で2万7千人が利用したという逸話も残っている。すでにこの時期には、参詣連絡鉄道構想の下地ができていたのであろう。
(路線イメージ図。赤色マーカーが広小路駅。※ラインは大まかであり、正確なルートを示したものではない。)
大きな駅前ロータリーの東側には、立派な大鳥居が構え、大古刹の期待があがるところである。なお、この駅前の大鳥居は二の鳥居であり、一の鳥居は高宮の旧中山道にある。さっそく参詣してみよう。
(多賀大社二の鳥居。)
(つづく)
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(※ マイル・チェーン)
日本の鉄道初期においては、イギリスからの技術輸入であったため、イギリス式単位のヤード・ポンド法を用いた。距離や曲線半径などをマイルとチェーンで表記した。1マイルは約1.6キロメートル、1チェーンは約20m。チェーンとは、棒状鎖の尺で測ったのが由来。現在は、メートル法制定のため、国内でのマイル表示は原則不可になっている。
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