久留里線の旅は終了であるが、起点の木更津の古刹名所を巡ってみたので、最後に紹介したい。木更津駅には、陸側の東口と港側の西口があり、古い街並みは西口側に残っている。
西口階段を降りると、大きな国鉄ビルが今も建つ。駅向かいの旧・そごうデパートは一度閉鎖されたが、リニューアルオープンし、ロータリ周辺も再整備で綺麗になっている。また、木更津の古刹としては、中山晋平が作曲した童謡で有名な證誠寺(しょうじょうじ)があり、それに出てくるポンポコ狸が町のキャラクターとして、市民に親しまれているという。
(木更津駅西口の旧国鉄ビル。海運で栄えた木更津の貫禄を感じる駅舎である。)
(改札前の自由通路には、昭和の懐かしいボタン式電球点灯式の観光案内板が残っていた。)
駅舎向かい側の駅前ロータリー出入口付近には、「まちなか狸きぬ太くん」【赤色マーカー】が鎮座している。證誠寺の踊る狸をモデルにしており、逆立ちは新しい発想で木更津を見つめ直す、月は「ツキ(運)のある街を市民が得る」にかけているという。
(ロータリーの一角に置かれた「まちなか狸きぬ太くん」【赤色マーカー】。)
(マンホールにも狸が描かれていた。駅前高速バス乗り場近くにて【黄色マーカー】。)
木更津の地名由来は、日本神話の日本武尊命(やまとたけるのみこと)の東征伝説からとされている。日本武尊命が相模(現・神奈川県)から海路で上総(かずさ/現・千葉県)に向かったが、海神の怒りに触れ、海が荒れ狂って船が進めなくなった。そこで、武尊命の妃・弟橘媛(おとなたちばなひめ)が海に身を投じ、海神の怒りを鎮めたという。日本武尊命は無事に上陸出来たが、妃が犠牲になった海を見ながら、「君不去(きみさらず/しばらく、ここに滞在するという意味)」と呟いた。この言葉が転訛し、現在の木更津になったと伝えられている。
また、東京湾に面した千葉県西部の内房エリア中央部にある木更津は、古くから港町として栄えた。特に栄えたのは、江戸時代になってからである。慶長19年(1614年)大阪夏の冬の陣では、木更津の船頭達20数人が徳川水軍に加わって出陣したが、半数の犠牲者が出てしまった。この功労により、将軍・徳川家康より、江戸から木更津間の渡船営業等の特権を与えられると、木更津と江戸の交流が盛んになり、「花のお江戸と木更津船は、今が世盛り、花盛り」と謳われる程に栄えた。
江戸日本橋には、「木更津河岸」と呼ばれる木更津船専用岸壁が設けられ、江戸から出る船は、木更津を経由してから太平洋に出て、太平洋から江戸に入る船は、木更津を経由してから江戸に入港した(※)。当時は、木更津船「五大力船」(廻船)が通る際、他の港の船が進路を譲る程の勢いがあった。今は残っていないが、この木更津の町中に「江戸崎」と呼ばれる地名もあったという。
(駅前デパートの壁に描かれた、歌川広重画浮世絵「不二三十六景・上総木更津海上」と、木更津由縁の歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の浮世絵壁画【緑色マーカー】。)
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先ずは、西口ロータリー左手の木更津観光協会【インフォメーションマーカー】に行き、観光散策のガイドマップを貰おう。中年の女性案内係から、はずせない見所も教えて貰う。木更津の原点である港エリアの大橋、旧市街地の町並み、證誠寺の三つが主な見所との事。散策マップを広げて見ると、観光スポットが大変多く、徒歩4時間程度はかかりそうである。飲料水等の準備を整え、出発しよう。今の時刻は、午前10時前である。
木更津駅前からの大通りを進んで、先ずは、港エリアに行ってみよう。両側に屋根の高いアーケードのある立派な商店街が続いているが、廃業している店が多い。どこの地方中核都市でも見られる、郊外型店舗出店による既存商店街ドーナツ化であろう。静岡市の様に郊外の大型店舗出店を抑制し、駅前商業地を守らないと、小資本の地元商店は簡単に衰退してしまう。大資本に迎合したり、税収増加を皮算用するのではなく、地元経済が継続できる市政をして欲しい。何処へ行っても、同じ様な巨大ショッピングモールでは、多様な地方文化や景観も破壊される。
(駅前ロータリーから続く富士見通り【青色マーカー】。閑散としており、休日の日中の人影も殆ど無い。土産物の一店だけが、元気に営業していた。)
300m程歩くと、アーケードも終わり、その先の南方町浜通り(県道90号線)と交差する。この付近から潮の香りが漂い、右手に木更津港が見えてくる。ローソンがある交差点を右に曲がり、埋立地の道路を260m程進むと、巨大な歩道橋「中の島大橋」【カメラマーカー】に到着。それにしても、巨大な橋で驚く。長さ236m・高さ25mの日本一高い歩道橋の木更津の新しいシンボルになっている。
(木更津港付近の様子。観光客相手の水産会社の販売所も建ち並ぶが、観光客は殆どいなかった。)
(交差点角には、海の守り神である金比羅宮【鳥居マーカー】も鎮座する。江戸時代後期に奉納された石碑や祠も残る。)
(中の島大橋に到着。橋の登り口には、県知事揮毫の名称石碑もある。)
高所が大の苦手であるが、覚悟を決めて、登ってみよう。上に登るスロープの幅は車二台分よりも広く、渡しの部分もかなり広幅なので大丈夫そうである。しかし、真中を歩いてしまう。中央の渡しの部分は太鼓橋の様な大きなアーチ状になっており、4つの折り返しを経て10分程で頂点部に到着すると、美しく晴れ上がった東京湾の絶景が広がっている。恐る恐る欄干に近づいて、へっぴり腰になりながら、記念写真を撮ろう。若い人男性グループやカップルも遊びに来ているが、意外に家族連れの観光客も多い。高さは、ビル約10階に相当するという。
(つづら折りを折り返し、渡りの部分を登る。見た目以上に勾配は結構きつい。)
(頂上部から木更津の町並みを眺める。コンパクトな港になっている。駅の向こうの山側は、昭和時代の新興住宅地。)
(東京湾口方向。頻繁に船が行き交っている。遠くの大工場は、新日鉄の君津工場である。条件が良いと、富士山も見えるという。)
この木更津港付近は、魚もよく釣れるらしく、大勢の太公望が堤防釣りをしているのも下に見える。大橋の向かいの中の島では、毎年3月から7月まで、潮干狩りが楽しめるとの事。また、木更津の有名デートスポットになっており、夕日も格別という。頂点部欄干には、半畳分位のパリの某橋を模した誓いの錠前を取り付ける場所もある。
(頂上部にある愛の錠前。数は多く無いが、幾つか取り付けられていた。人気テレビドラマ&映画「木更津キャッツアイ」のロケ地として、有名になったのが由来。)
(木更津港に入港する小型バラスト運搬船と釣り人。東京の至近であるが、のんびりとした時が流れる。)
すこぶる天気もよく、この東京湾の絶景をしばらく楽しもう。気分も上々になってきた。
(つづく)
(※東京湾について)
江戸時代以前、湾である事が認識されていなかったので、江戸湾と呼ばなかった。伊能忠敬が日本全国の近代測量を実施してから、徐々に判明した。東京湾と呼ばれたのは、明治以降である。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
ぶらり木更津まち歩き(みなと木更津再生構想推進協議会発行・2014年/現地観光案内所で入手)
2018年5月6日 ブログから転載
2024年8月27日 文章校正・修正
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