大洗鹿島線紀行(5)鹿島詣

これにて、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の全線乗車となった。もうひとつの鹿島臨海線は貨物専用線で、訪問できないため、この旅の最後の締めとして、鹿島神宮に参拝しようと思う。陽もやや傾いてきたが、時刻は15時前なので、大丈夫である。

先に、帰りの鹿島線の時刻表を確認しておこう。鹿島線も毎時1本の運行である。ときわ路パスを駅員氏に見せて、途中下車をする。


(鹿島神宮駅と小さな歓迎塔。折り返し水戸行きの列車が、発車を待っている。)

駅前はとても広く、閑散としており、東京方面への高速バスも発着している。小さな歓迎塔と観光案内所があり、駅から700m・徒歩10分らしいので、レンガ造りの連絡道路を歩いて行こう。しかし、自分以外の参拝者の姿は殆ど見かけない。鉄道での参拝が不便であるため、車や高速バスでの参拝が多いのであろう。

神社は、駅から左手の丘の上にあるらしく、駅前の急坂を上っていくと、途中に立派な銅像が立っている。この鹿島を代表する偉人・塚原ト伝(ぼくでん)の銅像である。鹿島神宮の神職家生まれの戦国時代の剣の達人(剣聖)で、16歳で武者修行の諸国行脚をし、剣の道を極めたといわれ、一生涯負けたことがないとの事。鹿島新当流の開祖でもあり、あの室町幕府将軍足利義輝(よしてる)や甲斐武田家軍師山本勘助にも、剣の指南をした。また、「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」と、剣の平和思想を説いた人物である。


(鹿島神宮への連絡道路。レンガで装飾された洒落た道路になっている。)

(剣聖・塚原卜伝の銅像。ここは、生誕の地になっている。)

坂を登り切り、交差点を左折すると、鹿島神宮の参道になっている。少し鄙びた土産店や飲食店が軒を連ね、220mほどと長くはなく、大鳥居も見える距離である。この大鳥居は、東日本大震災で御影石の大鳥居が倒壊してしまったため、境内の樹齢500-600年の巨杉(きょさん)を四本切り出して、平成26年(2014年)に同じ大きさの鳥居を再建したとのこと。この新しい大鳥居は山形で製作され、竣工復興祭には、3万5千人もの参拝者が集まった。なお、一の鳥居は、別の場所にあり、北浦湖畔の大船津地区に水上鳥居がある。


(鹿島神宮参道。なお、市名は、「島」でなく、「嶋」を当てている。)

(杉で造られた大鳥居。高さ10.2m、幅14.6mもある。)

ここで、簡単に鹿島神宮の由縁について触れておきたい。この鹿島神宮は、常陸国の第一宮として、全国の鹿島神宮の総本宮となっている。また、東国の要の大社として、伊勢神宮や香取神宮と並ぶ古来神宮のひとつになっている。平安時代の延喜式(えんぎしき※)では名神大社、戦前までは官幣大社(かんぺいたいしゃ※)であった。

御祭神は、武神である武甕槌大神(たけみかつちのおおみかみ)とされる。天照大御神(あまてらすおおみかみ/伊勢神宮の御祭神)から命を受け、香取神宮御祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ/刀剣の武神)と共に出雲国に行き、大国主命(おおくにぬしのみこと/出雲大社の御祭神、因幡の白兎の神)と話し合って、国護りを成就した神である。いわゆる、日本神話の建国神のひとりとなっている。

この東国における神功は大きく、関東開拓の源といわれ、伝説上では、初代神武天皇が即位した紀元前660年頃(皇紀元年)の創祀とされている。また、武神でもあることから、東国征伐の拠点・祈願地として重要な社となり、既に奈良時代や平安時代には、天皇家や藤原氏から国の守護神として信仰されていた。その後、時代が下がっても、源頼朝、徳川家康、水戸藩主や藩士達の信仰も厚かったとのこと。現在も、6年毎に天皇陛下から、勅使(ちょくし/使者のこと)が派遣されており、高い格式の神社になっている。

御神徳としては、武道の祖神、決断力の神としてもちろんのこと、農商工業の守護や、常陸(ひたち)古来の例により、縁結びや安産にもご利益がある。また、奈良時代の頃、北九州の防人(さきもり※)として出兵する人達の道中安全祈願から、「鹿島立ち」の起源となり、交通安全や旅行安全の祈願も良い。


(鹿島神宮境内案内図。境内の広さは、東京ドーム15個分もある。)

大鳥居を潜り、幅の広い参道を歩いて行くと、朱色の大きな楼門(ろうもん)が建っている。江戸時代初期の寛永11年(1634年)、水戸藩初代藩主の徳川頼房(よりふさ/光圀の父)が、家康の病気平癒を感謝して奉納したとされ、阿蘇神社(あそじんじゃ/熊本県阿蘇市)や筥崎宮(はこざきぐう/福岡県福岡市)と共に、日本三大楼閣になっている。また、掛かる扁額は、あの日本海海戦の東郷平八郎の直筆とのこと。高さは13mあり、昭和40年代に、桧皮葺きの屋根を銅板葺きにした。


(国重要文化財の楼閣。)

楼門を潜ると、広い砂利敷きの境内になり、直ぐ右手に鹿島神宮社殿が鎮座している。この夕刻迫る時間でも、大勢に参拝者が列を作っている。この社殿は、本殿・石の間・幣殿(へいでん)・拝殿の四つの建物からなる大きなもので、元和5年(1619年)に徳川二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)が奉納した。先に並んで、参拝しておこう。


(国重要文化財の拝殿。)

警備が厳重な伊勢神宮と違い、御祭神が祀られている一番奥の本殿の近くまで、行くことができる。本殿の背後にある巨杉は、この鹿島神宮で最も古い御神木と伝えられているもので、根回り12m、高さ約40m、樹齢1,300年といわれ、猛烈な神気を放っているのが肌で感じられる。なお、昔は、20年毎に式年遷宮(※)を行っていたが、今は、行っていないとのこと。


(国重要文化財の本殿と御神木。)

この社殿のある場所から、奥参道が更に延びているので、行ってみよう。300mほどの長さの奥参道は、21万坪もの鬱蒼と茂った大きな森となっており、杉の他、シイ・タブ・モミの巨木が聳え、一千種もの植物が繁茂し、この森は県天然記念物になっている。毎年5月1日には、流鏑馬の神事を行うそうで、参道の地面に馬が駆けた跡も残っている。この流鏑馬が行われることから、かつては、「奥馬場」とも呼ばれていた。

また、この鹿島神宮では、馬ではなく、鹿を神の使いとしている。奈良時代、鹿の背中に御祭神の分霊を乗せて、奈良の春日大社に分祀をした伝説があり、境内の鹿園では、本物の日本鹿が大切に飼育されている。ちなみに、地元J1プロサッカークラブ・鹿島アントラーズの「アントラー」は、鹿の角のことで、この鹿島神宮の神鹿が由来になっている。


(奥参道。南限北限の植物が共生しており、植物学的にも貴重である。)

この奥参道の突き当りの鬱蒼とした場所に、小さな茶屋兼売店があり、先代の本宮である奥宮(おくのみや)が鎮座している。慶長10年(1605年)、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し、その御礼として奉納されたもので、現在の社殿を建てるにあたり、ここに移築したものである。御祭神は、本宮と同じ武甕槌大神(たけみかつちのおおみかみ)の荒魂となっている。


(奥宮。明治後期には国宝に指定された。現在は国重要文化財になっている。)

奥宮前から、左右に参道が分かれているので、右の方に行ってみよう。巨杉がそびえ立つ平坦な参道を150mほど歩いて行くと、山の宮の要石(かなめいし)がある。

近世以前、地震は地中にいる大ナマズが起こすと広く信じられており、その頭を押さえつけていると伝えられている霊石であるが、地面にひょっこりと、真ん中に凹みがある石が20cmほど露呈しているだけである。

万葉集では、「石の御座」とも呼ばれ、古代の大神奉斎の座位(磐座/いわくら)として使われたらしい。この石は、掘るに従って大きくなるといわれており、その深さも果てがないと伝えられている。試しに、水戸藩二代藩主・水戸光圀(黄門様)が掘ってみたが、七日七晩掘っても掘っても、果てがなく、全く掘り切れなかったとのこと。また、掘るに従って、怪我人が続出したので、掘るのを止めたと伝えられている。この霊石のお陰で、この鹿島エリアは、大地震の被害が少ないといわれている。


(山の宮。社殿はなく、鳥居と玉垣のみある。)

(霊石の要石。信仰上からは、伊勢神宮本殿床下の心の御柱に相当するとのこと。)

奥宮まで戻り、今度は左手の参道に行ってみよう。45度もありそうな急坂を200m下って行くと、しっとりとした感じの狭い山谷に、どんな干ばつでも水が絶えなかったといわれる、御手洗(みたらし)がある。昔は、ここで禊(みそぎ)をしてから参拝したそうで、古くは、こちら側が参道であった。

今でも、1日40万リットル(約2,500石)もの湧水があり、水も大変清らかで、大鯉が悠々と泳ぎ、のんびりとした気分にさせてくれる。なお、この御手洗の池は、大人が落水しても、子共が落水しても、胸の高さ以上に水位が上がらない不思議がある。今でも、年間で一番寒い大寒の日(1月20日、または、21日)に、禊が執り行われているとのこと。


(御手洗池。後背地には、この湧水を利用した公園も整備されている。)

ここで、少し休憩をしよう。御手洗池の隣に大きな茶屋があり、団子や軽食、飲み物などを提供している。名物と書かれている大きなみたらし団子を一本購入してみる。タレは砂糖醤油の甘辛ではなく、焦げ味噌なので少し辛く、ちょっと珍しいかもしれない。なお、広大な境内には、数軒の茶屋や食事処があり、一服しながら散策するのも楽しそうである。


(湧水茶屋・一休。御手洗の水を持ち帰るペットボトルも販売している。)

(みたらし団子。税込み350円。秘伝の特製味噌がけとのこと。)

時刻は17時前である。そろそろ、駅に戻ろう。参拝者も徐々に少なくなってきている。

帰りがけの参道に、グリーンの大テントが目立つ常陸秋蕎麦店があったので、早めの夕食を取ろうと思ったが、もう閉店とのこと。この鹿島神宮では、常陸産蕎麦を使った蕎麦店が多く建ち並び、門前蕎麦が名物になっているらしい。次回、食べに来ようと思う。


(参道の常陸秋蕎麦店「うちだや」。)

無事に参拝が終わり、鹿島神宮駅に戻って来た。少し待ち合わせになり、17時47分発のJR鹿島線佐原(さわら)行き電車に乗車する。鹿島線起点駅の佐原に行き、成田線の成田と総武本線の千葉を経由して、東京へ帰ろう。東京まで比較的近い様にも感じるが、各駅停車や快速の場合、所要時間は3時間もかかる。

駅を出てしばらくすると、北浦に架かる長さ1,236mの北浦橋梁を渡る。斜陽が湖面に眩しい陽の道を作り、この旅の終わりを彩ってくれた。


(JR鹿島線北浦橋梁からの北浦。)

(おわり/大洗鹿島線編ダイジェスト版)


(※延喜式/えんぎしき)
平安時代中期に編纂された律令の施行細目を記した書。全50巻。その内の9巻と10巻が、神名帳(じんめいちょう)になっており、朝廷公認の神社一覧になっている。但し、朝廷に反抗的な神社や独自路線の神社は掲載されなかった。
(※官幣大社/かんぺいたいしゃ・近代社格制度)
明治政府が国家神道を推進するにあたり、神社の社格を設け、それに応じて援助を行っていた。軍国主義的なため、戦後のGHQの指示により、制度は解体された。上から、大社・中社・小社・別格官幣社・諸社(郷社・村社など)・無格社となる。上位の大社・中社・小社は、朝廷祭祀機関である神祇官(※人ではない)が祀る神社は官幣(かんぺい)、地方官(国司)が祀る神社は国幣(こくへい)と分かれるが、同格の場合の差はない。
(※防人/さきもり)
西暦663年の朝鮮半島・白村江の戦いに敗れた大和朝廷は、唐の侵攻に備え、北九州沿岸を守る兵を配置した。任期は3年。東国から兵が供給され、武器や食料は自弁、遠路でもあるため、大変な負担であった。特に、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)や相模(神奈川)出身の者が多かった記録がある。後に、地元筑紫の兵に委ねられるようになり、10世紀初めに消滅した。
(※式年遷宮/しきねんせんぐう)
建物や調度品を新調し、御神体を遷す、最も大きな祭事。古代の建築様式をそのまま今に伝え、学術的に貴重な一面もある。しかし、莫大な資金がかかるので、取りやめた有名な神社も多い。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
鹿島神宮参拝のしおり(鹿島神宮発行・発行年不明)
歴史のまち「鹿嶋」再発見 まち歩きマップ-かしま散歩-
(発行元不明・新鉾田駅にて入手)
ようこそ鹿島神宮へ(観光マップ/発行元不明・新鉾田駅で入手)

【取材日】平成29年(2017年)5月4日
【カメラ】RICOH GRII

2017年7月15日 FC2ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正

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