下仁田駅見学と町の散策が終わったら、上信線に再び乗り、起点の高崎駅に戻りつつ、古い木造駅舎のある駅や気になった駅を訪問してみよう。上信線は木造駅舎のある駅が多いので、今日一日では、全て回り切れない感じである。カメラ撮影の露出が十分な日没前まで、進める駅まで進もう。
駅の広い待合室で少し待っていると、昔ながらの肉声の発車案内がある。改札係の若い駅員氏にフリー乗車券を見せて、お礼を言い、1番線の日野自動車ラッピングの6000形電車に乗り込む。綺麗なラッピングが施されているが、車内に入ると、それなりに昭和な電車の雰囲気である。
(6000形車内。第9回絵手紙列車として、絵手紙が車内に展示されていた。)
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下仁田1304======1312千平
上り高崎行き普通(普)34列車・高崎行き(6000形2両編成)
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穏やかな冬の昼下がり、下仁田駅から3-4人の乗客を乗せて、定刻の13時04分に発車。徐々にスピードを上げるが、白山トンネルから先は徐行運転となり、上信線一の難所を恐る恐る走る。鬼ケ沢橋梁を越えて、コンクリートで固められたアンカー壁横を抜けると、直ぐに千平駅に到着する。この駅で、途中下車をしてみよう。
(千平駅名標。上信電鉄オリジナルの建て植え式駅名標は、この細いフォントが特徴になっている。下仁田駅等にある吊り下げ式駅名標のフォントとは違う。)
最前方の運転室後ろの扉から、自分だけがホームに降りると、直ぐに発車して行ってしまった。この千平駅は、明治44年(1911年)8月に追加設置された駅で、当初から無人駅であった為、切符販売は近隣の民家に委託していたが、電化後は車内販売になった。起点の高崎駅から29.9km地点、19駅目、所要時間約55分、所在地は富岡市南蛇井(なんじゃい)乙、標高235mであり、上信線の駅の中では、最も秘境の雰囲気のある駅になっている。
なお、大正13年(1924年)の電化前に、追加設置された駅は他にもあり、馬庭駅(まにわ-)、上州新屋駅(にいや-)、七日市駅(現・上州七日市駅)、神農原駅(かのはら-/無人)が該当する。うち、上州新屋駅、上州七日市駅と千平駅(無人)の三駅が地元請願設置であった。当時の社員数は約150人おり、高崎駅と下仁田駅に5-6人、他の駅は2-3人の駅勤務であった。
ホームを眺めると、長さ70m程ある直線の単式ホームで、高崎方に待合所等が集まり、下仁田方の先端部は少しカーブし、砂利敷きのホームが残っている。なお、1日の乗車客数は約20人で、上信線で最も少ない駅らしい。
(下仁田方からホームを望む。かつての三両編成に対応する為、ホームは長い。)
(下仁田方の第四種踏切脇高所からの千平駅全景。※同年秋の追加取材時に撮影。)
集落よりも、やや高い山際に駅がある。線路の向かいとホーム南側は小さな崖になっていて、古レールのホーム柵が作られている。刻印を探してみると、昭和24年(1949年)・八幡製鉄所製30kgレール等が見られる。おそらく、戦後の近代化工事の際、更新設置されたのであろう。
(古レールのホーム柵。)
下仁田方の先は、鏑川の渓谷が始まり、山も迫っているので、木々が鬱蒼と茂っている。駅間距離は、線内で二番目に長い2.7kmとなり、途中の1.1km先に赤津信号所がある。なお、下仁田駅との標高差は約17mで、駅間距離相対平均勾配率は6.2パーミルであるが、アップダウンが多く、最小半径160mの急カーブと最大16.7パーミルの勾配がある区間になっている。
(下仁田方。枕木柵と鉄板の小さな延長部がある。)
高崎方は、駅のすぐ横に深い沢を渡る小さなデッキガーター橋があり、その先に山に登る道の踏切と、大きな岩を真っ二つに切り裂いた切り通しがある。なお、千平駅北の大桁山(おおげたやま/標高835m)の南東麓には、鍬柄岳(くわがらだけ/別名・石尊山「せきそんさん」、標高598m)と呼ばれるどんぐりを立てた様な奇岩の岩峰があり、南蛇井から千平間の直線区間からも見える。岩場の鎖を使って、垂直に登り降りするそうなので、一般観光客の訪問は難しい。頂上に石祠が祀られており、展望は360度見渡せ、素晴らしいらしい。
グーグルマップ・鍬柄山(山と鎖場の画像あり)
(高崎方。ホームの直ぐ先に鏑川支流の小倉川が流れている。)
この駅には、駅舎は無く、木造トタン造りの開放式待合所と簡易トイレがある。待合所のロングベンチには、手作り座布団が置かれ、清掃もまめにされており、地元住民の駅への愛着を感じられる。
(ホームの開放式待合所。)
(造り的には新しいので、戦後に建て直されたものらしい。)
山際の高台にあるので、道路からの長いコンクリート階段を上がらなければならない。なお、地元設置請願駅なので、土地建物共に地元寄付で建設された。地元の高校生のものらしい自転車が、道端に置かれているのも、長閑な風景である。
(駅出入口と連絡階段。※完全逆光の為、同年秋の追加取材時に撮影。)
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ここで、上信線最大の難所となった、不通渓谷(とおらずけいこく)を見に行こう。昭和5年(1930年)に作られた上野鉄道唱歌の中にも、木曽の寝覚の床の例えの一節がある。駅の長細い連絡階段を下りて、一車線の町道に降りる。鏑川は駅の南方に流れており、千平駅到着前に大きな鉄橋が見えたので、そっちに行ってみよう。駅右手の西の方に歩いて行く。
この付近は、大桁山(おおげたやま/標高836m)麓の高低差の大きい地形で、大きな古農家と畑があり、人や車も殆ど通らず、とても静かである。線路と平行して暫く歩き、踏切を過ぎると、下り坂になって、線路と別れてしまう。この踏切近く【赤色マーカー】には、大きな30kmポストと木造保線小屋が残っている。後ろには、小さな神社も祀られている。
(83号踏切付近。※同年秋の追加取材時撮影。)
木造の古い保線小屋は、この先の難所区間入口の保線員詰所、資材置き場らしい。右手の小さな長屋根は、架線の点検に使う竹製の架線梯子置き場である。国鉄の頃には、良く見られたが、最近は見かけなくなっている。
(木造保線小屋。)
坂を下って行くと、大きな赤いローゼ鉄橋【カメラマーカー】が架かっている。この不通橋(とおらずはし)は、川面からの高さもかなりあり、思っていたよりもスケールが大きい。橋は余りにも高く危険な為、転落防止用のハイフェンスが、両側欄干に張られている。
ここは紅葉の名所でもあるそうで、シーズンになると、観光客も訪れる。高さはビル七階建て相当の20m位あり、バンジージャンプも一時行われたらしい。なお、余談ではあるが、かつては事故が多かった為、心霊に敏感な人は、訪れない方が良いらしい。
(昭和59年(1984年)3月竣工の不通橋。順光の南側から撮影。
橋脚下の岩盤落盤復旧工事の際に、ハイフェンスが取り付けられた。)
(下流方の鏑川。丁度、この橋付近が渓谷の出口になっており、鮎釣りも良いらしい。
周りよりもかなり低いので、昔から水害は少ない。※同年秋の追加取材時に撮影。)
橋を渡り切ると、対岸の線路が見える。崖は30m程の高さがあり、この崖の縁に線路をよく敷いたものと思う。なお、当時の下仁田村としては、村の発展に大きく貢献する上野鉄道(こうずけ-)の開通は、大歓迎であったが、蒸気機関車の煤煙の影響を懸念する養蚕農家の意見もあった。その為、線路を通すのが容易であった、鏑川南岸の馬山地区(まやま-)を避け、この北岸の険しい場所に敷設した経緯がある。
(不通橋南詰から。対岸の断崖上に線路が敷かれている。)
不通橋から上流方を見ると、不通橋よりも更に低く、幅が最も狭くなっている所に、旧橋と水道橋【黄色マーカー】が見える。車は通れず、人のみが通れる幅であり、かなりの高さがある。
(上流の旧橋と水道橋。※同年秋の追加取材時に撮影。)
旧橋の近くまで行ったが、高所恐怖症の上、雑木で行き手を阻まれて、諦めてしまった。隣りにある水道管らしいものは、甘楽多野用水の不通水管橋である。不通橋から見えたコンクリートアーチは、人道橋の方ではなく、この水管橋のものである。人道橋は鉄桁を渡し、コンクリートの橋板と鉄製の細い手摺りを付けただけの簡易な構造になっている。
富岡付近から上流の鏑川は、大きな河岸段丘になっており、川面が農地よりもかなり低い。昔は、天水に頼った農業であった為、日照りの年は収穫量が激減し、大変であった。そこで、水利が悪い下流の富岡市周辺の農業用水兼防火用水として、昭和11年(1936年)から16年間の歳月をかけて、総延長24kmの甘楽多野用水が整備された。下仁田駅近くのきよしや食堂駐車場から見える堰が取水口となっており、鏑川の右岸を経由し、この水管橋で向かいの山を貫いて、千平駅北東4.5kmの丹生湖(にゅうこ)まで流れている。この湖から、一ノ宮と富岡を抜けた用水は、福島や新屋(にいや)を潤し、吉井まで達している。なお、平成になってから、この水管橋を改修した際、アーチ橋は当時の貴重なものとして、架け替えずに残されている。
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不通橋の南側から西を見ると、不通渓谷が真っ直ぐに見える。橋を渡ったこの鏑川南岸は、馬山地区の集落と国道254号線があり、ねぎ畑と蒟蒻畑(こんにゃく-)が広がっている。また、下仁田町南野牧の神津牧場(こうず-)アンテナショップ「神津牧場ミルクバー」が、国道沿いにあり、美味しいアイスクリームが食べられる。
(不通橋南側から上流の不通渓谷を望む。※光学ズーム撮影、112mm相当。)
なお、神津牧場は、明治製菓・明治乳業グループが経営した事もある国内最古の西洋式牧場である。昭和10年(1935年)から始まった、内山峠を越える県道(現在の国道254号線)建設には、当時5万円(現在の1億円弱相当)の寄付をした。現在は、公益財団法人の経営になっている。
公益財団法人神津牧場公式HP
(つづく)
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左は馬山の不通橋か
右は大桁山迫る
小さな駅よ千平
しかしその名はなつかしく
上信電鉄新鉄道唱歌20番より/鈴木比呂志作詞・昭和56年。
【参考資料】
「なんじゃいコクヤ・こくや通信/不通橋」
(佐藤商店公式HP/地元南蛇井の米穀・酒販店)
「利根川/利根川水系農業利水協議会群馬県支部情報誌 VOL.21」
(同支部発行・2003年)
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)
同年秋の追加取材撮影は、カメラ機種が違う為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。
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