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東幡豆1127======1130西幡豆
下り1161列車・普通・吉良吉田行
名鉄6000系6009編成(←6209+6009)2両編成
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東幡豆駅(ひがしはず-)から、隣の西幡豆駅に行こう。蒲郡線の名鉄6000系トップナンバーの6009編成がやって来る。低山帯切り通し部の大ピークを越え、そのまま真っ直ぐに走り、小野ヶ谷川(おのがやがわ)を渡ると、所要時間約3分で西幡豆駅に到着する。
(建て植え式駅名標。)
西幡豆は、隣の東幡豆が三河湾観光の中心地であったのと対照的に、西尾市と市町村合併前の幡豆町行政の中心地であり、旧幡豆町役場(現・西尾市役所幡豆支所)、小中学校や市立図書館を擁する大きな町になっている。町中心部と駅は、海岸から約600m入った内陸にあって、三河湾に注ぐふたつの川が流れる、広い平野部になっている。また、町の南東部には、戦国時代以前築城の寺部城址があり、古くからの中心地であった痕跡がある。
グーグルマップ・西幡豆寺部城址
(国土地理院国土電子Web・西幡豆周辺。)
この西幡豆駅は、町のやや東の外れに位置し、昭和11年(1936年)7月延伸時開通、起点の蒲郡駅から7駅目、12.9km地点、所要時間約19分、海抜15m、所在地は愛知県西尾市西幡豆の終日無人駅になる。東西に配された一面二線の島式ホームは、4両編成まで対応できる列車交換可能駅で、構内右側進行の特例駅である。なお、構内右側進行は、線路北側の吉良吉田方に構内踏切があり、上り蒲郡行き列車が踏切を高速通過するのを防ぐ、安全対策の為である。
(西幡豆駅ホーム全景。この駅もホームが狭い。)
また、かつては、名古屋からの直通特急も停車した主要駅であった。昭和35年(1960年)3月、西尾線の架線電圧が直流600Vから1,500Vに昇圧されると、当初は、「三ヶ根号(さんがね-)」、後に、「三河湾号」の愛称の直通特急が運転された。昭和41年(1966年)3月からは、毎時30分・2往復の名古屋本線直通特急が走ったが、各駅停車は毎時1本のみという、観光路線としての最盛期を迎えている。
当時は、蒲郡から名古屋までの国鉄との旅客争奪競争もあった。単線ローカル線でありながら、50kgレール交換による重軌化とカーブ半径を緩和し、最高速度を時速95kmまでアップさせた。昭和40年代に入ると、名車として有名な名古屋鉄道7000系特急パノラマカーが投入され、蒲郡線内の停車駅は、吉良吉田・西幡豆・東幡豆・西浦・形原と終点蒲郡であった。なお、昭和50年(1975年)頃までが、名古屋直通と観光路線の蒲郡線の最盛期であり、国鉄も快速列車増発を行った為、蒲郡から名古屋までの、蒲郡線の優位性も次第に失われてしまったという。
(蒲郡方。700m先に大ピークがあり、長い登り勾配が続く。)
(吉良吉田方。住宅地が多く、三河鳥羽駅まで、真っ直ぐに伸びている。)
吉良吉田方の構内踏切から改札口までは、東幡豆駅と同様に連絡路があり、開業当時のものと思われる古いトイレや、蒲郡線廃線対策の啓蒙看板がある。なお、蒲郡線が正式線名であるが、この幡豆郡が西尾市に市町村合併された事や、かつては、直通運転をしていた西尾線と運行が一体化していた事から、地元では、通称「西蒲線(にしがません)」とも呼ばれている。
(構内踏切横の古いトイレ。)
(廃線対策啓蒙看板。駅からハイキング等のイベントも、時々開催している。)
この駅にも、片勾配屋根の木造小型駅舎があるので、行ってみよう。東幡豆駅の半分程度の大きさで、改札口や待合室は非常に狭い。なお、特急や急行の停車駅であったが、隣の東幡豆駅よりも早い、昭和60年(1985年)に無人化している。
(ホームからの駅舎。)
駅舎は北に面して建っており、駅前広場もある。駅員の生活する宿舎は、別にあったと考えられ、裏に井戸のポンプ跡も残っている。
(駅前からの駅舎。)
出札口は板で閉鎖され、出入口横には、自動券売機が設置されている。吉良吉田方の窓下にロングベンチがあり、採光窓が大きく、意外に明るい。
(改札と待合室。)
(待合室内のロングベンチ。線路側も腰上から全面採光窓である。)
駅前には、広いスペースがあり、何軒かの商店と民家が建ち並んでいる。小さなテントの骨組みがある方形平屋は、隣の昭和風商店の松野屋が、かつて営業していた構内売店である。駅前であるのに、構内の名称とは面白く、関東に鉄道には見られない形態と思う。名古屋鉄道の公認売店で、かつては、終点の吉良吉田駅前にもあったという。
この構内売店は、昭和30年頃から営業していたもので、新聞、雑誌、牛乳、菓子やパンの販売の他、店によっては、コーヒー、うどん、関東煮(かんとうだき/おでんの事)のファーストフードや、無人駅化後の切符の委託発売もしていた。なお、昭和50年代前半頃まで、名古屋鉄道のローカル駅に良く見られた様である。電車の待ち時間に、常連客がのんびりと立ち寄ったのであろう。
(松野屋と構内売店跡。今も、松野屋では、煙草や新聞を販売している。)
駅の近くの古い家屋を見ると、太陽のコロナマークとキンヨー印と記された、錆びたブリキ看板がある。キンヨーとは、名古屋の老舗繊維商社である、タキヒヨー株式会社(瀧兵)のブランド名らしい。
(二階窓にブリキ看板を掲げる古い民家。)
この西幡豆は、三河湾に面する漁港の町でもあるが、繊維産業も盛んであった。現在も、多くの織物工場が残っている。幡豆一帯は、古くから良質な絹の産地として、朝廷に絹糸を貢いていた。奈良時代末期、幡豆天竺村(現・西尾市福地)にインド人が漂着し、助けて貰ったお礼に綿花栽培を伝授され、この幡豆が日本の綿花栽培の始まりの地になっている。後の15世紀になると、日本の気候に適した品種が中国から輸入され、大量栽培されるようになり、16世紀初めには、この幡豆での綿花生産も定着したという。
また、温暖な幡豆は、稲作に適していたが、水利が乏しかった事情もある。江戸時代には、綿花と麦作の二毛作が行われる様になり、農家の有力な現金収入になった。そして、幡豆や蒲郡では、大量に生産される綿花を使い、織布作りも盛んになっていった。戦後は、「ガチャンと織れば、1万円儲かる」のガチャマン景気が続き、世界中に製品を輸出し、地元幡豆のみならず、戦後日本の復興に大きく貢献している。かつて、繊維の街で有名であった名古屋は、このエリアの綿花・織布産業が支えていたのである。
【参考資料】
名鉄昭和のスーパーロマンスカー(徳田耕一著・JTBパブリッシング刊・2015年発行)
2017年7月14日 ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正
2025年1月14日 文章修正・加筆・校正
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