田子の浦港から、駅まで戻ってきた。このJR吉原駅は、古くは、地元の町名(当時は村)である、鈴川駅と呼ばれていた。五つもの河川が注ぎ込む田子の浦港を挟んで、西隣には富士駅があり、駅間距離は4.9km、所要時間4分程度である。なお、富士川は、富士駅の西に流れている。
駅の開業は、富士駅まで開通した明治22年(1889年)2月。同年7月に、新橋から神戸までが開通し、今日の東海道本線の原形となっている。当時から人や物資の往来が多かった為か、開業一年後には、軽便馬車鉄道である富士馬車鉄道(軌間609mm単線/吉原-富士宮間14.1km/後年は、根方軌道に譲渡)も、開通している。
(昭和45年竣工の無粋な昭和国鉄風コンクリート駅舎は、二代目駅舎になる。)
吉原は、江戸時代から、豊富な富士山の湧き水を利用して、三椏(みつまた)栽培が行われ、それを原料とした和紙の生産が盛んになり、駿河半紙を代表する上質紙の産地として有名であった。なお、先程の妙法寺の達磨市も、この和紙の端くれを利用した、特産品がルーツである。明治時代以降は、機械化による洋紙の大量生産が始まり、国内一の製紙の町になっている。また、各製紙メーカーから鉄道を利用した製品出荷が行われており、岳南電車からJRへ、大量の貨車の受け渡しを行っていたので、貨物留置線が何本もある大きな駅になっている。しかし、JR貨物の合理化により、貨物の取り扱いは平成24年(2012年)春に、全廃となってしまった。
(東側ヤード。線路沿いの日本製紙に貨物専用線が延びていた。)
JRホームの構内連絡跨線橋を通って、岳南電車に直接乗換もできるが、線路下の歩行者用地下道とJR吉原駅北口からの道路を通って、行ってみよう。
岳南電車の開業は、戦前と思いきや、戦後と新しく、終戦直後の昭和24年(1949年)11月である。数多くの地方鉄道の開業に大きな影響を与えた、大正時代の軽便鉄道法の直接的な影響は無く、三島駅から伊豆半島を南下する伊豆箱根鉄道グループとして、先ずは、吉原本町駅まで開業した。また、開業時から、国鉄と同じ狭軌1,067mm(サブロク)の直流600V電化路線として開業しており、現在は、路線キロ9.2km、駅数10駅、所要時間片道約20分のミニ民営鉄道になっている。
開業は戦後であるが、地元の鉄道構想は明治末期からあった。浜沿いに東海道本線が開通すると、内陸側の吉原町周辺や沼津の住民から鉄道敷設の要望が高まった。現在の吉原本町付近と、東は沼津、西は富士市鷹岡(JR身延線入山瀬駅)や富士宮を結ぶ、根方鉄道(ねかた-)の構想が持ち上がっている。大正初期と太平洋戦争中に具体的な敷設計画が浮上したが、当時の経済状況から頓挫しており、戦後になって、その構想の一部が岳南鉄道として開通した様な感じである。なお、前出の富士馬車鉄道は、買収や譲渡の後、大正13年(1924年)に廃止になっている。
ここで、簡単に岳南電車の歴史をまとめてみよう。昭和中期以降も、鉄道貨物輸送が大変多く、国内では珍しい「貨主客従」の路線であった。この比重は、秩父武甲山の石灰石を輸送する、関東の秩父鉄道に似ている。なお、本来の鉄道は貨物がメインで、旅客はその運行の合間を利用するサブであり、旅客輸送に偏重した現在の日本の鉄道は、世界的には異端であると言える。
◆岳南電車(岳南鉄道)の略史◆
昭和11年(1936年)
吉原駅から、依田原町の日産工場(現・ジヤトコ)まで、貨物専用線を敷設。
昭和24年(1949年)
日産貨物専用線を利用し、吉原駅から吉原本町駅まで、岳南鉄道が開業。
昭和27年(1952年) 身延線入山瀬駅までの延伸許可取得。着工はせず、後年に失効。
昭和28年(1953年) 現在の終着駅である、岳南江尾駅まで開通。
昭和31年(1956年) 伊豆箱根鉄道グループから、富士急行グループに。
昭和44年(1969年) 架線電圧を直流600Vから、直流1,500Vに昇圧。
平成24年(2012年) 鉄道貨物輸送の全廃。
平成25年(2013年) 岳南鉄道から、子会社の岳南電車に鉄道事業を移管。
なお、平成24年(2012年)の鉄道貨物全廃により、経営状態が急速に悪化している。今後、地元自治体の支援を受ける為、経営のスリム化と健全性を明確にする目的から、今までの経営母体であった岳南鉄道から、子会社の岳南電車に鉄道事業を移管した。また、バス事業も展開していたが、富士急バスに譲渡している。
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細い路地に面した、岳南電車の吉原駅に入ってみよう。屋根の高い大きな切妻木造建築の駅舎は、JRホーム側は金属トタンで補修されており、妻面や北側出入口には、木造部分が露出している。妻面は、くの字に曲げた古レールでY字柱を造り、補強してあるのが面白い。勿論、この駅舎は、開業当時のものであろう。
コンクリートの小刻みな古階段を登る。駅出入口側の鉄パイプの改札口は、使われていないらしい。青帯の機械は、TOICA対応のJR東海の入出場記録機である。改札口横に引き戸付きの8畳程の待合室があり、暖を取る事ができる。暖かな土地柄であるが、富士山から吹き下ろす北風があると、結構寒い。
(駅出入口。)
(東側妻面は、碁盤目状の壁面が珍しい。これは、駅舎を短尺化した跡らしい。)
JR連絡口、駅出入口、ホーム側と取り囲む様に三方に改札がある。ホーム側には、可動式の仕切り柵があり、鉄道駅としては開放的な改札になっている。列車の到着前は閉めておき、到着時の混雑時には開放し、朝夕のラッシュ時は、複数の駅員が並んで改集札する。また、ホーム側改札上部には、最近設置されたらしい、駅時刻表とカラー観光案内板がある。
出札口の女性駅員氏から、全線1日フリー切符を購入し、時刻表と沿線マップも貰おう。懐かしい横長のD型硬券切符で、700円で全線乗り放題である。なお、JR東海線の連絡硬券切符の取り扱いがあり、JR吉原駅窓口では硬券の取り扱いは無いので、硬券収集ファンは見逃せない。また、オリジナルグッズも多く、色々と見本を展示してある。
(ホーム側から改札口を望む。右は駅事務室、左は乗務員区。)
ホームに進むと、木造駅舎に接続した屋根の高い鉄パイプ柱の大型旅客上屋があり、岳南電車独特のきのこ型で、無機質な感じがする中に複雑な梁構造の美しさがある。殆どの駅では、このきのこ型旅客上屋が設置されており、岳南電車のトレードマークになっている。ホームは、緩くカーブしながら先細になってゆく、頭端式の二線一面の幅広ホームになっている。高さ760mmの客車ホームではないが、古い電車ホームの為、車両の乗降口との段差が大きい。
(JR側の南側が、1番線側ホームになっている。)
(優美な梁曲と大きく湾曲したトタン屋根は、木造とまた違う良さがある。)
(2番線の車止め横には、倉庫らしい古い木造小建物がある。)
岳南電車の各駅は、全ての駅から富士山が望め、これも岳南電車の見所である。ホームには、ビュースポットの絵表示と足型があり、面白い。また、平成26年(2014年)に、情緒のある夜景が特徴の「日本夜景遺産(施設型)」として、岳南鉄道の駅や列車など全体が認定されている。これを機に、富士山の世界遺産登録と合わせて、観光客誘致にも力を入れている。
(立ち位置ステッカー。)
(青空に浮かぶ様な冠雪が美しい富士山も、冬の見所である。※再取材時撮影。)
ホーム先端から、吉原本町方を眺めると、岳南線とJRとの貨物渡り線と貨物留置線があり、旅客線は一番北の倉庫側である。貨物列車は長編成であった為、渡り線手前の貨物留置線もかなりの直線距離があり、出発線と到着線に分かれている。最盛期の昭和44年(1969年)には、年間100万tの貨物の取り扱いがあり、1日平均2,700t、ワム15t貨車積み換算で約180両もの貨車が行き来していた。かつては、旅客線よりも、貨物線や貨物留置線の方が、路線キロが長いと言われていた。
(岳南江尾方と貨物ヤード跡。)
見学していると、「フィー」とした空気式汽笛と共に、EF210形0番台牽引の東京方行き高速コンテナ列車が通過して行く。吉原駅の貨物取り扱い廃止前は、上下各1本が停車して、荷扱いを行っていた。手前の駅舎側に3番線の車止めがあるが、駅舎並びにあった貨物ホームに接する元・貨物側線のレールらしい。
(東海道本線上り高速コンテナ列車が通過。)
高速コンテナ列車が通り過ぎ、暫くすると、赤い湘南顔の岳南7000形単行電車が到着する。元は、東京の京王電鉄3000系の両運転台化改造車である。この折り返し列車に乗車して、ロケを兼ねながら、終点の岳南江尾駅まで行ってみよう。停車中の7000形から、「ツ、ツ、ツツツ・・・」と、コンプレッサ音が大きく響いているのも、懐かしい昭和の電車の音である。
(岳南7000形7002が到着する。)
(つづく)
【参考資料】
アイラブ岳鉄(鈴木達也著・静岡新聞社刊・2001年)
岳南電車吉原駅では、許可を取って撮影。
2017年7月13日 文章修正・校正
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