君ヶ浜駅の北側にある、広大な畑の中の第四種踏切まで、散策してみよう。大きく迂回するので、駅からの距離は約500mあり、徒歩10分位である。
グーグルマップ・君ヶ浜駅北の19号踏切と木挽踏切(航空写真)
農耕用トラクターが横断するので、このふたつの踏切の幅員はその分程度はあり、外川方は19号踏切、銚子方は木挽踏切(こびきふみきり)になっている。木挽踏切先の砂防林はとても大きく、この広々とした畑の海側の終端も、砂防林との境界である。なお、第四種踏切は沿線四ヵ所にあり、ここの他に、観音-本銚子間(もとちょうし-)のグリーンベルト内と西海鹿島駅横にある。
(農道から、外川方の19号踏切を望む。)
(銚子方の木挽踏切。線路は盛り土になっているので、前後にアップダウンがある。)
広々とした春の畑を眺めていると、下り外川行きの青いデハ1001が通過して、15分後に外川駅から折り返して来た。上り勾配を力走しながら、タイフォンを大きく響かせて、銚子方の砂防林に向かう。
この20パーミルの急勾配は、通称「君ヶ浜の坂」と呼ばれており、海鹿島駅から下り、君ケ浜駅付近が谷底部分になって、再び、上り急勾配になる。なお、太平洋戦争中、車両整備や電力事情が悪化し、この坂を上れない事があった。乗客が降りて、電車を押したエピソードもある。
(上り銚子行き列車。19号踏切脇にて。)
電車が行き去ると、とても静かで長閑になり、春の土の匂いもする。時刻は8時前になった。太陽も大分上がってきたので、君ヶ浜駅にそろそろ戻ろう。ホームで待っていると、「ファーン」とタイフォンが遠くで鳴り、白い2000形電車が松林の中をそろそろと下って来た。
(君ヶ浜の坂を下る電車。君ケ浜駅ホームから撮影。)
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君ヶ浜758======800犬吠
下り外川行き(2000形2002+2502・2両編成)
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2両編成の白い2000形電車に乗車すると、自分を入れて、4名だけの乗客である。低いモーター音が唸りを上げて発車し、ゆっくりとジョイントを噛んで行く。
駅横の踏切を過ぎ、そのまま真っ直ぐに走ると、少し左に曲がり、20パーミルの長い上り勾配を真っ直ぐに走る。住宅地の中であるが、電車よりも背の高い雑木林が両側に続いているので、全くの別世界に感じる。所々、雑木林を切れ込む様に踏切があり、最後の踏ん張りの様な雑木林トンネルを抜けると、犬吠駅(いぬぼう-)に到着する。運転士に1日フリー切符を見せて、下車をしよう。
(タイル製の大型駅名標。)
(外川方より、ホーム全景。)
タイル貼りの単式ホームは、4-5両編成が停車でき、半径500mの緩いカーブの中にある。なお、初日の出の終夜運転の際は、終点の外川駅まで行かず、この駅で折り返し運転となっている。
この犬吠駅は、昭和10年(1935年)に追加設置された臨時駅で、起点の銚子駅から5.5km地点、8駅目、所要時間17分、所在地は銚子市犬吠埼、標高24mの時間限定有人駅である。犬吠埼燈台還暦祭の燈台前駅として開業し、400m外川寄りの場所に、旧・犬吠駅が別にあった。
当時、燈台前駅と犬吠駅は別々にあり、旧・犬吠駅は、銚子遊覧鉄道時代の終着駅であった。近くの海辺に立つ旅館暁鶏館(ぎょうけいかん)の利便の為に設置され、当時、銚子遊覧鉄道の重役が経営していた事がその理由である。しかし、この燈台前駅が臨時設置されると、旧・犬吠駅の利用客数が激減してしまい、昭和16年(1941年)に廃止した後、燈台前駅を犬吠駅に改称し、普通駅に昇格した。駅名改称の表向きの理由は、防諜(ぼうちょう/軍事上、灯台の存在を隠す)の為となっている。
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銚子方は、20パーミルのロングストレートの上り勾配の雑木林を抜けて、ホームに到着する。まるで、雑木林のトンネル出口の様に見える。周辺は、住宅と畑が混在している。
(銚子方とグリーントンネル。)
外川方は、ホーム先に県道踏切があり、8.3パーミルの緩やかな登り勾配が続く。終点の外川駅までは900mあり、周辺は新興住宅も多く、銚子郊外のベットタウンになっている。
(外川方と県道踏切。)
ホーム柵代わりのアーチ建築には、各所に装飾絵タイルが嵌め込まれており、趣向を凝らしてある。職人氏の手作りと思われるので、非常にコストが掛かっているらしい。
(ホームの装飾タイルいろいろ。クリックすると、拡大。640×480pixel。)
銚子方寄りに改札口があり、歓迎門や木製の洋扉があったりと、鉄道駅とかけ離れた雰囲気がある。足元には、オリジナルキャラクターのゴリラのタイル絵もある。木扉の後ろに、国鉄風の変形六角形のボックス改札があり、出札口や待合スペースは、ホテルのフロント風になっている。
(歓迎門と改札口周辺。照明が落とされているので、暗くなっている。)
(改札口と改札ボックス。)
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駅舎内には、ロビー風の待合スペースや銚子電鉄直営の大きな売店があるが、駅員や観光客が来る時間帯前なので、照明は落とされ、売店も閉まっている。
駅員のいない時間の為、中は暗いので、外に出てみよう。ローカル線の途中駅としては、巨大な駅舎であり、沿線一の観光駅としての威容がある。白を基調とし、大屋根と階段上の小尖塔、教会風の縦窓と、鉄道駅離れしているデザインである。
平成2年(1990年)12月、地元工務店時代に建てられたこのポルトガル宮殿風駅舎は、特徴のある美しいデザインにより、「第一回目選定26駅・関東の駅百選」に選ばれている。なお、ポルトガル風の由来は、犬吠埼がポルトガルのロカ岬と友好関係による。
グーグルマップ・ロカ岬(ポルトガル南西部)
かつては、正面玄関上に大きな絵タイル、軒下最上部には大きな紋章のある、美しい文様入りの青色タイル貼りであったが、老朽化と塩害の為に1/3が剥がれ落ちてしまった。近年改装され、正面のタイルを全面貼り直し、絵タイルと紋章は撤去された。なお、改築前の犬吠駅は、二階建て相当の高さの切妻家屋の妻面を出入り口とし、駅出入口を囲う様なコの字の大きな庇とその下に開放形改札がある、平屋の木造駅舎であった。しかし、昭和23年(1948年)9月のアイオン台風で倒壊した後は、このポルトガル風宮殿駅舎が新築されるまで、長らく再建されなかった。
(駅前広場からの犬吠駅。)
(犬吠駅出入口。以前は、道路に面した場所にも、小さなアーチがあった。)
駅舎手前には、福祉団体が経営する列車レストランがあり、平成21年(2009年)頃まで、営業していたらしい。この車両は、昭和34年(1959年)・東急車輌製造の相模鉄道2000系電車(モニ2022)で、軸重が重ずぎて、銚子電鉄では運行されなかったが、貴重な荷物電車である。また、出入り口横にも、銚子電鉄デハ501のハーフカット廃車体を利用した、観光案内所があった(※)。
(元・相模鉄道モニ2022。台車や下回りの機器は取り外されている。)
駅前広場はとても広く、色とりどりのタイルに埋め尽くされ、イベントも開催されている。ホーム柵代わりのアーチには、五つの出窓アーチと大きな出入口があり、初日の出やイベント等の繁忙時の臨時改札口として、使われている。なお、左側の木々の裏側にも、大アーチが七つ続いている。
(駅前広場とホームのアーチ部。荒れているが、花時計もある。)
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この犬吠駅は、銚子半島観光の玄関駅として、テレビの旅番組でも良く取り上げられているが、明治末までは、交通が大変不便な土地柄であった。明治30年(1897年)6月に、総武本線の前身である総武鉄道が銚子まで延伸開通すると、風光明媚な犬吠埼周辺への観光客誘致や交通手段確保の機運が上がり、外川までの延長を計画した。しかし、土地買収に失敗して、計画は頓挫してしまった。そこで、ヒゲタ醤油関係者等の地元有力者や有志により、人車鉄道の計画が、明治42年(1909年)に持ち上がった。
人車鉄道とは、馬や蒸気機関車等の馬力・蒸気動力ではなく、4-6人乗り位の小型客車を人力で押す簡易な鉄道である。有名な人車鉄道としては、熱海方面行きの豆相人車鉄道(ずそう-)や、千葉県内ならば、県営大原大多喜間人車鉄道(国鉄木原線以前に敷設)等があり、軽便鉄道法公布以前の弱資本鉄道として、全国に幾つか開業している。
計画では、現在の本銚子駅付近から、ほぼ真っ直ぐに犬吠駅を目指す路線で、笠上黒生駅(かさがみくろはえ-)や海鹿島駅(あしかじま-)は経由しなかった。この人車鉄道計画も、県の補助等が得られず、頓挫してしまう。しかし、これが、大正2年(1913年)の銚子遊覧鉄道開業のきっかけになり、現在の銚子電気鉄道につながっているのである。ルートは、今の県道244号線に沿ったそうで、終点は外川までであり、犬吠から燈台への短い支線も計画されていたので、とても興味深い。なお、本銚子から犬吠までの距離は、約3kmである。
(稲生神社を経由する本銚子駅横から犬吠駅間の道路が、県道244号線。)
(つづく)
(※)列車レストランと観光案内所は、塩害による老朽化により、解体撤去された。
【参考資料】
RM LIBRARY 142「銚子電気鉄道(上)」(白土貞夫著・ネコパブリッシング刊)
2017年7月15日 FC2ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正
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