二時間程の半田観光の後は、もうひとつの蔵の町である武豊町(たけとよちょう)に行ってみよう。名鉄知多半田駅から四駅先の知多武豊駅が最寄りになり、特急も停車する。なお、知多武豊駅手前の駅に、珍名駅の上ゲ(あげ)駅があり、「ゲ」の送り仮名も珍しい。
11時41分発の下り内海行き特急に乗車したが、うっかり、ひと駅乗り過ごしてしまった。河和線(こうわせん)河和方面と知多新線内海方面が分岐する富貴(ふき)駅で下車する。対向式ホーム二面二線の小さな分岐駅であるが、昭和時代の名鉄らしい駅舎が残っており、見学を兼ね良しとしよう。なお、知多新線は昭和49年(1974年)以降に河和線から分岐し、順次開業した知多半島南西部の単線電化路線である。
(富貴駅。昭和7年開業の有人駅である。)
気を取り直して、上り普通列車に乗車し、富貴駅から知多武豊駅に11時59分に到着する。富貴駅と同じ対向式ホーム二面二線と昭和風名鉄駅舎の地上駅になっており、駅前の小さなロータリーにタクシーが1、2台停まっていて、のどかな雰囲気である。
(知多武豊駅と待機タクシー。)
丁度、昼なので、昼食を取りたいと思う。駅前のファミリーマートの通り向かいの愛嬌のあるイラストの小屋【食事マーカー】が目に留まる。たこ焼きなどを売る軽食スタンドらしく、地元住民も頻繁に立ち寄っているようだ。
(可愛らしいイラストが目に止まる。)
ちょっと、立ち寄ってみよう。「看板のパンダ焼きとはなんだろう」と思ったが、パンダの焼き型を使った大判焼き(今川焼き)のことらしい。しかし、店頭のメニュー表に書かれていないので、今はやっていない様子である。このパンタ焼きは全国各地にあるらしいが、東京上野公園の桜木亭が有名であろう。日中国交正常化の際、ランランとカンカンが贈呈されたのがきっかけなので、このパンダ焼きもその頃の昭和のおやつである。
(知多武豊駅近くのたこ焼き屋「よっちゃん三代目」。)
店正面を覗いてみると、向かいのコンビニや食堂よりも面白そうなので、昼食はここに決めた。早速、看板商品のたこ焼き(税込300円)とデラックスやきそば(税込340円)を注文する。
廃業した地元スーパーの一角にあり、そのテナントだったので、通りに背を向けているらしい。早速、店先の椅子を借りて、店横で食べさせて貰おう。たこ焼きは、中はトロッと柔らかで、タコの具や味もしっかりしている。デラックス焼きそばは、肉、イカと目玉焼きが入り、パンチが効いた少し辛口な屋台の味付けで、どちらも量が多く、安くて良心的である。他に団子やお好み焼き、モダン焼き、ねぎ焼きもあり、注文に応じて作ってくれる。お好み焼きと焼きそばは、肉玉、イカ玉、両方入りのデラックスが選べる。
(自家製のたこ焼きとデラックスやきそば。)
大将に店名を尋ねると、よっちゃん三代目とのこと。旅のブログで紹介しても良いかと聞くと、「ぜひ頼むよ!」と快諾して貰えた。若い頃は東京で仕事をしていたという。武豊訪問時には、是非、立ち寄ってみたい。
【たこ焼き・よっちゃん三代目】
定休日不明、営業時間不明。駐車場はないが、店頭に1台分スペースあり。
名古屋鉄道河和線知多武豊駅前、ファミリマート向かいの旧ハイ・マート武豊店横。
グーグルマップ・よっちゃん三代目
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さて、満腹となった所で大将にお礼を言い、武豊の町を散策してみよう。天気は大丈夫であるが、雲が多く出てきて、晴れたり、曇ったりしている。
この武豊も知多半島東側の港町で、温暖な気候から、半田と同様に醸造業が盛んである。同じ醸造業と言っても、半田が酢づくり、武豊はたまり醤油と味噌づくりが盛んである。蔵のある場所は、駅から少し離れた港付近なので、歩いて行く。
名鉄の踏切を渡り、みゆき通りを東に歩いて行くと、古い昭和の商店が連なっている。途中の手作りパン屋兼カフェの隣に観光協会の案内所【iマーカー】があるので、観光ガイドマップを貰っておこう。
(みゆき通り。閉店している店が多い。)
途中にJR武豊線の終点である、武豊駅【電車マーカー】がある。その近くから、南の方に歩いて行くが、道路の右側に長細い空き地がずっと並行している。昔、武豊駅から港へ1km程延びていた線路の跡である。
JR武豊駅近くの曲がり角から、600m南に歩くと、小高い場所に住宅が集まっていて、武豊の醤油・味噌蔵が集まっている大足・里中地区に入る。「蔵の小径」と名付けられた小さなプレートが埋め込まれている、南側の路地に入ってみよう。
(大足・里中地区の路地「蔵の小径」入口。)
細い路地を進んで行くと、住宅地の中に黒板塀(※)の見事な大蔵があり、とても驚く。武豊は良質な水と温暖な気候により、古くから味噌やたまり醤油造りが盛んで、戦前の最盛期には約五十軒もの醸造所があった。今は七軒の醸造所だけになり、うち五軒が伝統的製法を守っている。蔵の周り一帯は、濃厚な味噌・醤油の香りが漂い、その雰囲気が一層強調されている。
巨大な黒い大蔵に圧倒される伊藤商店「蔵元・傳右衛門(でんえもん)」【赤色マーカー】は、江戸時代後期の文政年間に創業し、250年の歴史がある。元々は、吉野家と呼ばれる造り酒屋だったそうで、その技術を活かし、味噌づくりをしている。発酵に使う醪(もろみ)は、改良されながら、200年以上受け継がれているとのこと。
(伊藤商店の大蔵。屋根も壁も真っ黒で、迫力があり、青空も反射する程である。)
(伊藤商店の長い熟成蔵。まるで、大塀である。)
伊藤商店より南に下った場所には、南蔵(みなみぐら)【カメラマーカー】と呼ばれる醸造所がある。昔の雰囲気を最も残し、観光パンフレッや旅のテレビ番組でもよく紹介されている。この細い路地を通り抜けるだけでも、この武豊に来た甲斐があると実感できる。
(南蔵の看板と路地入口。)
(南蔵の路地。両側に醸造蔵や作業場が並ぶ。)
濃厚な味噌の香りが、辺りに充満している。工場を覗くと、大きな杉桶が並び、三角巾頭の女性従業員が機械を使って作業をしている。南蔵の味噌は、国産大豆100%に自然海塩のみで、ふた夏三年間熟成し、保存料は一切使わないという。なお、伝統的製法を守るため、一般観光客の蔵見学は行っていないとのこと(伝承の醸造菌を守るためと思われる)。
(南蔵の醸造蔵。通りからも、男性の背丈程の杉桶が見える。なお、桶なので、蓋は無い。)
蔵前で、トラックに積み込みをしている年配の男性従業員に会ったので、挨拶をする。「いつ頃から、造っているのですか」と尋ねると、「壁の木札を見てごらん」と指差す先に古めかしい木製の商標看板が掲げられており、明治5年(1872年)創業とのこと。
青木弥右ヱ門(やえもん)は初代当主だそうで、農家の出身であったが、明治維新の自由な空気に触発され、味噌やたまり醤油の生産を始めた。江戸時代以前から、この地域では酒づくりが盛んであったが、神戸の灘酒に押されて廃れてしまい、不要となった醸造設備を味噌づくりに転換したのが始まりだったとのこと。また、大豆が満州から直輸入される様になったのも、後押しになった。
(南蔵の商標木札。弥右ヱ門の名は襲名されており、五代目になる。)
路地を抜けると、道も開けて明るくなり、小さな休憩公園(山起ポケットパーク)がある。丁度、ここが、蔵の小径コースの折り返し地点になっている。
工場の傍らには、大きな平石が積み上げられているが、これは杉桶に使う重り石らしい。杉樽に大豆を仕込んだ後、板を敷き詰めた上に積み上げる。なお、ひと桶の原材料6トンに対し、南蔵では、1〜2トン載せる(岡崎の八丁味噌は約3トン)。桶の数は90本程あり、うち35本程が味噌仕込み、残りは、たまり醤油仕込みとのこと。ここで造られる三年熟成豆味噌「里の味」は、1kg1,400円もする最高級品になっている。
(杉桶の重り石。)
武豊の醸造所で作られている味噌は、豆味噌や赤味噌と呼ばれる三河の特産品で、大豆と塩を原料に二、三年かけて長期自然熟成される。また、豆味噌からたまり醤油が出来、濃厚な旨味と独特な香りが特徴で、刺身、煮魚の他、鰻タレや煎餅タレにも使われている。最近は、海外にも輸出される程の高級ブランド品になっているという。
(つづく)
(※黒板塀)
この地域の蔵の黒壁は塀ではないが、黒板塀という。魚油や油煤を染み込ませた、防腐処理をした縦長の羽目板を、壁面下部に張り付けた黒壁のこと。羽目板の無い黒壁の蔵もあるが、外観は似ているので、一概に黒板塀といわれているらしい。
【参考資料】
現地観光案内板・解説板
武豊町観光ガイドマップ「再発見武豊」(武豊町観光協会発行・2014年)
知多半島ぶらぐる散歩(知多半島観光圏協議会・名古屋鉄道発行)
2018年4月29日 ブログから転載・校正
2024年1月20日 文章修正・校正
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