知多蔵めぐりの旅(4)半田観光 半田赤レンガ建物と紺屋海道

JR武豊線半田駅の見学を終えた所である。駅から北850mに古い街道と赤レンガの建物があるそうなので、行ってみよう。少し距離があるので、タクシーを行きだけ使う。


(JR半田駅前の安全タクシー。昭和26年創業の知多半島を営業エリアとする、地元タクシー会社である。)

昭和風ネーミングな「安全タクシー」という駅前タクシーに乗り、半田赤レンガ建物【赤色マーカー】に数分で到着する。明治時代当時のレンガ建物としては、国内五指に入る大きさだったらしい。明治31年(1898年)竣工した、カブトビール(加武登麦酒/元・丸三麦酒)の工場跡で、現存するビール工場の遺構は大変珍しいとのこと。ミツカン四代目中埜又左衛氏と敷島製パン(現・パスコ)創業者の盛田善平が、会社設立に関わっている。なお、敷島製パンも、名古屋の有名醸造メーカー盛田のグループ企業である。

この赤レンガ建物は高さ20.8mの五階建て、東側の一部は二階建てのハーフティンバー建築(※)で、幾つかの大きなレンガ建物が寄り添う。なお、一部は取り壊されてしまったが、全体の4/5が良好な状態で残っている。基本設計はドイツで行い、東京日本橋の装飾や横浜レンガ倉庫を設計した明治建築界三大巨匠のひとり、妻木頼黄(つまきよりなか)氏により実設計が行われた。また、建物の北側には、太平洋戦争中の米軍機銃掃射の跡も残っているという。


(半田赤レンガ建物のハーフティンバー東側エントランス。正面玄関として使われている。当時、運搬用トロッコの軌道とプラットホームが、ここにあったという。)

建物の西側に回ってみると、何棟ものレンガ建築の集まりになっているのが判る。レンガの積み方も、建物によって、長手積み、イギリス積み、フランス積みが混在している。なお、建物全体の半分弱が、公開活用されている。


(半田赤レンガ建物の西側。大きな教会のようにも見える。)

当時、恵比寿ビールの日本麦酒、札幌麦酒(現・サッポロビール)、大阪麦酒(現・アサヒビール)とジャパン・ブルワリー(現・キリンビール/元々は外資系)の四大ビールメーカーが、市場を寡占していた。そこで、半田に新しい産業を生み出すという気概を持って、カブトビール(丸三麦酒)を設立したという。後に東海エリアでトップシェアを誇ったが、昭和8年(1933年)に大日本麦酒(※)に合併されてしまい、その10年後にブランドが消滅してしまった。

太平洋戦争中は、中島飛行機(現・スバル/富士重工業)の倉庫として使われ、戦後は、食品用でん粉製造会社・日本食品化工のコーンスターチ工場として使われていた。平成8年(1996年)に半田市に譲渡。文化的価値が高く、老朽化が進んだことから、平成26年(2014年)に改修と耐震工事が行われ、保存展示と知多半島全体の観光紹介拠点として活用されている。また、国登録有形文化財、近代化産業遺産と半田市指定景観重要建造物になっている。


(エントランスホールに入ると、大きなビール樽が迎える。)

(エントランス奥の案内板。)

保存の状態は大変良く、カブトビールの歴史などを解説している常設展示室は有料(大人200円)であるが、それ以外の内部は無料で見学できる。また、奥の大きなホールは、有料で貸し切ることも出来る。エントランス奥には、復刻したカブトビールの生ビールが飲めるカフェバーもあるので、一杯試飲するのも良いだろう。当時のカブトビールは、ドイツビールを参考にし、設備も原料もドイツから取り寄せていた。

また、柱がないために建物の壁は大変厚く、建物全体を壁で支える役割もあるが、ビール工場として低温を保つため、幾つかの空気層を設けた複壁などの特殊な構造になっているという。


(東側ハーフティンバーから接続している、北側のレンガ建物の廊下。)

(レンガ建物内のホール。廊下は天井が低いが、ホールは高い。貸し切り時でない場合は、開放されており、椅子に腰掛けて、雰囲気を楽しむ事も可能。)

なお、復刻カブトビールの生が飲めるカフェバーが、東側ハーフティンバーの一角に併設している。地元食材のツマミも提供している。当時のカブトビールは、パリ万博で受賞する程の高品質であったというので、驚きだ。


(復刻カブトビールの生ビールが飲める併設カフェバー。)

レンガ建物の南には、紺屋海道(こんやかいどう)【カメラマーカー】と呼ばれる旧街道があるので、散策をしながら、名鉄知多半田駅に戻ってみよう。街道といっても、やっと車一台が通れる細い路地が住宅地の中に延びている。

江戸時代に半田港が開港される以前、千石船が出入りする大野港と下半田を結んでいた街道である。上半田と呼ばれるこの付近の中心的な通りで、多くの人たちが行き交う、賑やかな場所だった。なお、「紺屋」は、「こんや」とも、「こんの」ともいわれ、船の帆を染める染物屋が、数軒あったことが由来になっている。当時は、この付近まで波が打ち寄せていた。

街道を暫く南下して行くと、火除けの神様である秋葉神社【鳥居マーカー】がある。江戸時代中期の明和3年(1766年)に、失火による大火があり、村の主要部を焼き尽してしまった。それ以降、住民の防火意識が高まり、この上半田に四箇所もの秋葉神社が建立された。現在も、秋葉講と世話人代表を置き、地域ぐるみで代参や保存活動をしているという。


(街道沿いにある秋葉神社。かつては、この裏方まで、海が迫っていたらしい。)

(明治8年創業、自家製煎餅店の米市商店には、手作り暖簾が掛かる。あいにく店休であった。)

(所々に黒板塀の旧家が並ぶ。先の大きな屋根は、浄土真宗大谷派の順正寺。)

路地の一角には、大きな山車庫(だしこ/山車の車庫)もある。この半田は、300年の歴史を誇る春の山車祭りが有名で、町内に山車が31両もある。この細い路地にも、二階建て相当の大きな山車が、牽き廻されるという。


(上半田北組の唐子車の山車庫。)

順正寺前まで来ると、街道は二股に分かれ、140m南が現在の街道の出入口になっている。また、名鉄知多半田駅の近くには、国登録有形文化財の旧中埜(なかの)家住宅があるが、あいにく補修工事中であった。

(つづく)


(※ハーフティンバー建築)
半木造半壁の洋風建築。北ヨーロッパで良く見られた。
(※大日本麦酒)
明治39年(1906年)、日本麦酒(恵比寿ビールの元祖)、大阪麦酒(現・アサヒビール)と札幌麦酒(現・サッポロビール)の三社が合併して誕生した。後に、東京麦酒(東京ビール)、日本麦酒鑛泉(-こうせん/ユニオンビール、元祖・三ツ矢サイダー)や丸三麦酒(カブトビール)も合併した。韓国のハイトビールや中国の青島ビールも同社系列であった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令により、戦後に財閥解体がされ、朝日麦酒(現・アサヒビール)と日本麦酒(現・サッポロビール)に分割された。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
半田観光ガイド(半田市発行)
半田赤レンガ建物リーフレット(同所発行)
知多半島ぶらぐる散歩(知多半島観光圏協議会・名古屋鉄道発行)

2018年4月29日 ブログから転載・校正
2024年1月20日 文章修正・校正

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