湊線紀行(13)阿字ヶ浦駅

数人の乗客と共に、無料のシャトルバスに再び乗り、阿字ヶ浦(あじがうら)駅に戻ってきた。花々の鑑賞など、わたらせ渓谷鐵道の旅での花桃と桜以来で珍しいが、たまには良かろう。堅苦しい鉄道や威厳ある寺社などと対極なので、すこぶる気分転換になった。

さて、この阿字ヶ浦駅を見学してみよう。磯崎からの第三次延伸開通時の昭和3年(1928年)7月7日に開業。当時からの終着駅になっている。起点の勝田駅から14.3km地点、9駅目、所要時間約26分、ひたちなか市阿字ヶ浦、標高約30mの平磯から阿字ヶ浦の海岸沿いに広がる台地上にある。

当初の湊線は、漁業と観光が盛んであった平磯までの開通を目指していたが、地元古刹の酒列磯前(さかつらいそさき)神社や磯崎岬のある磯崎まで延伸することになった。その後、松村軌道(現・常磐線東海駅から村松村阿漕まで)が阿字ヶ浦方面に延伸する計画に対抗し、この阿字ヶ浦まで延伸した。鉄道が開通すると、別荘地や海水浴場が整備され、湊鉄道も直営の宿泊所や遊園地を建設したという。戦時中までは、陸軍水戸飛行場の最寄り駅のひとつでもあった。戦後の高度成長期には、空前の海水浴ブームになり、東京や北関東からの直通列車が多数乗り入れた駅としても有名である。


(踏切横からの阿字ヶ浦駅全景。)

ホーム周辺を見てみよう。南北に長い1面2線の島式ホームを配している。かつて、夏季の海水浴客を運んだ国鉄直通列車に対応するため、7両編成に対応する長いホームになっているが、現在は2番線の中央部分しか使われていない。駅舎本屋には、1番線を横切る構内踏切で結ばれている。かさ上げ工事もされ、近代化されているが、擁壁や使われていない場所は当時のホームのままになっている。なお、使われていない部分は、かつては自由に立ち入りができたが、鉄製フェンスで仕切られ、立ち入りができなくなった。


(長い島式ホームと機回し線跡。中央の3両分がかさ上げされている。)

(奥の3両分の旧ホーム。)

デザイン駅名標は勝田寄りにあり、温泉、あんこう、釣り針と海藻を組み込んでいる。那珂湊と並び、湊線を代表するデザイン駅名標として、メディアなどによく紹介されている。ひと目見て、典型的な海岸保養地であるとわかるデザインである。


(旧ホーム部分に建てられたデザイン駅名標。)

勝田方を見ると、ポイントで直ぐに纏まり、踏切を越えて行く。昔、出発信号機が民家の敷地内にあったというので、驚きである。


(勝田方。丁度、観光客を大勢乗せた3両編成のアニマルトレインが到着。)

ホームの西側には、開業翌年の昭和4年(1929年)7月に設置された、蒸気機関車時代のコンクリート給水塔も残る。機回し線も残るが、勝田方の分岐器が取り外しされた留置線になっており、夜間滞泊は行われていない。給水塔前には、アッシュピット(集灰坑)もあったという。

なお、湊鉄道の蒸気機関車は、ドイツ製アーサーコッペル社製小型タンク式蒸気機関車から始まり、以降、省鉄(後の国鉄)から海外製や国産の小型タンク式蒸気機関車の払い下げを受けていた。C形の国鉄制式蒸気機関車に縁がないと思われがちであるが、終戦後のごく一時期、C12形56号機が在籍した。元々は、相模鉄道時代の相模線(現・JR相模線)で使われていたが、国有化で余剰機関車になり、この湊線へ来たという。しかし、湊線で使われていた蒸気機関車が古典的な飽和式であったのに対し、近代的な過熱式であったためか、使いにくかったらしい。数カ月後に北海道釧路の雄別炭鉱鉄道に再譲渡されている。


(給水塔跡。湊線で使われていた小型タンク式蒸気機関車向けのサイズになっている。)

ここで、海水浴ブーム時の国鉄臨時直通列車の歴史について、少し触れておきたい。上野発阿字ケ浦行の急行あじがうら号が最も有名であるが、他にも北関東各地から直通列車が乗り入れ、夏季の阿字ヶ浦駅は、民営ローカル線の終着駅としては、大変な混雑であったという。阿字ヶ浦は、遠浅の綺麗な海水浴場として、人気が高かった。また、海水浴シーズンの後には、月遅れのお盆輸送があり、湊線の繁忙期でもあった。

戦後の高度成長に伴い、レジャーが大衆化した昭和41年(1966年)夏。宇都宮発の臨時快速しおかぜ号が設定され、高崎発常陸多賀行きの列車も小山で併結した(※)。翌年には、キハ20やキハ45の気動車6両編成になり、小山からの3両と真岡からの3両を下館で併結。更に、水郡線からの直通列車も入ることになり、阿字ヶ浦駅の側線の延長工事をしたという。

そして。昭和44年(1969年)7月23日に、上野発の急行あじがうら号が初運転になる。キハ58系6両編成の堂々たる気動車急行で、湊線内も国鉄の運転士が運転したという。当初、湊線には統括制御車がないためであったが、湊線の運転士も北海道の留萠鉄道からの譲渡車両で慣れたことから、翌年から湊線の運転士に交代するようになった。昭和47年(1972年)には、二往復に増発され、ピークを迎えている。また、宇都宮発のしおかぜ号も運行されることになり、引込線を増設した。


(直通運転が始まった昭和41年当時の国鉄時刻表。)

昭和49年(1974年)頃から海水浴ブームは徐々に下火になり、あじがうら号は1往復に戻る。国鉄側の要員確保が困難なため、昭和54年(1979年)に急行あじがうら号が運休。しかし、海水浴客が大幅に減少したため、翌年に再開した。なお、派手なヘッドマークが付けられている写真を散見するが、国鉄公式ではなく、この再開時に鉄道愛好家団体が制作した。湊線の職員が水戸機関区まで出向き、許可を得て取り付けたという。その後、国鉄側の運行ダイヤが変更になり、湊線内の定期列車のダイヤと重なってしまったため、上り上野行あじがうら号の最後尾に湊線の定期普通列車1両を併結した。勝田駅で切り離し、3分後に湊線の下り列車として発車し、その2分後にあじがうら号が上野へ向けて発車したという。国鉄の臨時直通列車に自社の定期列車がぶら下がる、大変珍しい編成が見られた。

昭和60年(1985年)には、同年開業した鹿島鉄道大洗線への直通列車と併結運転を行い、キハ58系7両編成のうち、あじがうら号4両、おおあらい号3両であった。翌年に快速に格下げ、後に普通列車扱いになり、上野から我孫子発着に変更。常磐線からの直通列車は、平成4年(1992年)に終了になり、30年近くの海水浴臨時列車の歴史に幕を閉じている。なお、平成5年(1993年)には、小山発水戸線経由と常陸石川発水郡線経由のあじがうら号の愛称を使った臨時直通列車が運行されたが、翌年に終了。それ以降、湊線への直通列車の運行はなくなった。現在、長く慣れ親しまれたあじがうら号の愛称は、湊線内の初日の出列車(勝田発着)に受け継がれている。

線路はホームの先まで延び、急崖の手前で途切れている。高さはかなりあり、眼下に大きな太平洋がちらりと見え、そのまま飛んでいきそうなのがいい。なお、この阿字ヶ浦は、アメリカ西海岸からの幹線級光海底ケーブル「PC-1」の陸揚げ地になっている。湊線の阿字ヶ浦から勝田までの線路脇にこのケーブルが敷かれており、大手通信事業者から支払われる賃貸料が、湊線の重要な収益源になっている。


(線路終端部を望む。終点駅の物々しさがないのが、この駅独自の雰囲気になっている。)

(太平洋をちらりと望む。この下は急崖である。なお、冬場のほうが、木の葉がなく、海がよく見える。)

振り返って見ると、とても構内が広いのがよく分かる。何本もの国鉄直通列車がここに昼寝をしていたとは、今やその形跡もあまり無いないのが惜しい。また、国営ひたち海浜公園への延伸計画もかなり現実味を帯びてきている。海に突き出すように駅と線路があるため、現在の駅の位置をどうするのかと考えてしまう。


(線路末端部からの駅構内全景。昔は、1番線と2番線の線路がまとまり、機回しができるようになっていた。)

駅舎周辺を見てみよう。木造駅舎であるが、近年修復されて綺麗になっている。昭和30年代の古い写真では、三方に出庇のあるハーフティンバー風平屋駅舎になっており、駅出入口の位置も違うので、二代目駅舎らしい。待合室は6畳程度で、出入口も2箇所あり、壁の部分が少ないので、とても開放的な駅舎になっている。なお、勝田方の出入口には、雨避けらしい鉄骨製の待合用上屋も併設されている。海水浴ブームの頃に建てられたらしく、昭和61年(1986年)に夏季待合所を改築した記録がある。昭和50年(1975年)夏からは、夏季期間のみ営業の売店もあったという。


(駅前全景。駅前はとても広い。列車の発着時以外は、とても静かになる。右のバスは、国営ひたち海浜公園へのシャトルバス。)

(無個性な感じがする駅舎本屋。駅舎自体は大きいが、待合室部分は小さい。)

(夏季待合所側の出入口。現在は、通学する地元高校生の自転車置き場になっている。)

出札口もあるが、海水浴客で賑わう夏季のみの営業で、普段は無人駅になっている。横の自動券売機は、合理化を進めた茨城交通時代の昭和52年(1977年)から設置されたもの。なお、自動券売機の設置場所は、元・鉄道手小荷物窓口(チッキ窓口)と思われる。湊線では、昭和53年(1978年)以降は手荷物の扱いはなく、小荷物も僅かであった。昭和59年(1984年)に手小荷物扱いを全線廃止している。


(出札口と自動券売機。なお、夏季のみの駅員配置のため、この駅の硬券入場券は、入手困難であることで有名。なんと、線内各駅行きの常備硬券もあるらしい。)

駅舎側奥を見ると、使われなくなった1番線と引き込み線があり、かつては2本の引き込み線があった。貨物ホーム兼直通列車の留置線であったらしい。旧1番線には、廃車になった旧型気動車が2両留置されている。一応、解体はされず、静態保存車両になっているとのこと。青とクリーム色の旧国鉄標準色はキハ222、急行色がキハ2005である。現在は、キハ222を御神体と見立てた、鉄道神社の構想があるという。地元ボランティア団体が清掃やイベント時の公開も行っている。


(旧1番線に留置された車両と引き込み線跡。)

手前のキハ222は、昭和37年(1962年)8月製造の富士重工業宇都宮工場製で、昭和46年(1971年)に北海道の羽幌炭鉱鉄道から譲渡された。寒冷地仕様の国鉄キハ22形の民間鉄道向け姉妹車で、運転席の旋回窓(※)もそのままに運用し、鉄道ファンの人気を博した。床は板張り、セミクロスシート、北海道仕様の二重窓である。平成27年(2015年)5月に廃車されている。

【キハ222の主要諸元】
20m鋼製車体、自重32.3トン、最高時速95km、定員81名(後に88名)、セミクロスシート、2扉車、DMH17Cディーゼルエンジン(8気筒・排気量16.98リッター・180馬力)、動力台車DT22A、従台車TR51A、TC2液体変速機(減速比2.976)、DA1A自動空気式ブレーキ。※入線当時の車両竣工図表より抜粋。


(キハ222。運行当時は最古参の車両として、人気が高かった。なお、湊線での形式は、キハ22形で、その2号車になる。昭和55年当時は、221、222、223の3両のキハ22形が在籍した。)

キハ2005は、昭和41年(1966年)3月製造の東急車輛製で、昭和44年(1969年)に北海道の留萠鉄道から譲渡された。入線時、製造後3年しか経っておらず、通常30年から50年間使う鉄道車両としては、新車同様であったという。同じく、国鉄キハ22形の民間鉄道向け姉妹車で、国鉄急行色風に塗装されているが、最末期に通称「ネコひげ」と呼ばれる前面装飾が入る島原鉄道色になった(※)。床は板張りで、セミクロスシートである。平成27年(2015年)12月に廃車。なお、姉妹車のキハ2004は、北九州の平成筑豊鉄道を支援する地元団体に譲渡されている。


(愛嬌のあるネコひげのキハ2005。留萠鉄道時代の車番を継承している。キハ222と車体は同じであるが、定員数が異なる。)

湊線では、整備性が良く、交換部品も入手しやすい国鉄形気動車やその民間鉄道向け姉妹車で、状態の良い中古気動車を各地の地方ローカル鉄道から探し出し、大切に使っていた。そのため、茨城交通末期からひたちなか海浜鉄道初期にかけては、動く旧型気動車の鉄道博物館の様になり、往年の鉄道ファンの人気を集めていた。しかし、この湊線で車両の寿命を迎えることも多く、終焉の地であったのも事実である。中には、名古屋のリニア鉄道館のキハ113(キハ48036として展示中/佐久間レールパーク時代に譲渡し、移設展示。)や大宮の鉄道博物館のキハ112(キハ1125として展示中)の様に、湊線から展示車両として再譲渡された幸運な車両もある。


(現役時代の旧型気動車4連留置。手前から、キハ2005[急行色・ネコひげ無し]、キハ2004[準急色]、キハ222[旧国鉄色]、キハ205[新国鉄色]。日中の運用のあと、鉄道ファン向けにさりげないサービスもしてくれた。キハ205以外は廃車されている。※2010年4月25日訪問時に撮影。湊機関区にて。)

さて、11時前である。この後は、阿字ヶ浦駅から平磯駅まで、海岸伝いに歩いてみたい。その前に昼食を取ろう。


(新旧気動車の共演。折り返しのキハ11形とキハ222が並ぶ。)

(つづく)

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(※常陸多賀)
常磐線の駅。河原子海水浴場の最寄りである。真岡発(後に小山発)の海水浴臨時気動車列車かもめ号の終着駅になった。なお、しおかぜ号は常陸多賀行と阿字ヶ浦行の併結列車で、勝田で宇都宮発の6両を分割した。
(※旋回窓)
寒冷地向けの円形ワイパー。円形部分のガラスが回転し、雪や水を遠心力で弾き飛ばす。強風に強く、ガラスの凍結も防ぐ。船舶にも、よく使われている。
(※ネコひげ)
四国内の国鉄急行では、車両接近や踏切事故防止のため、前面警戒用として付けられた。島原鉄道では、国鉄車両と自社車両を区別するために付けられた。

※画像は、1日目朝の撮影を含む。

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