那珂湊駅の見学を終えたら、町中散策に出かけよう。太平洋に面する大きな港町になっている。平磯・那珂湊・磯浜(大洗町北部)は三浜(さんぴん)と地元では呼ばれ、古くから漁業で大いに栄えた。特に那珂湊は、江戸時代の徳川御三家・水戸藩の商港、那珂川の最下流の川湊(みなと)でもあり、物資集散と水運交通の要衝地でもあった。なお、かつては、湊鉄道の名の由来でもある湊町と呼ばれていた。昭和14年(1939年) に那珂湊町に変更し、後に平磯町を編入して、那珂湊市に改称。平成6年(1994年)に勝田市と合併して、ひたちなか市になった。現在も、町名(大字/おおあざ)として残っている。
町名を改称したのは、町制施行50周年を迎えたことや、全国に同じ町名が多く、紛らわしいことなどからといわれている。古い書物には、「常州中の湊」や「仲湊」の記述があり、長らく「湊」と併用されていたらしい。
茨城県中部の大河の那珂川河口左岸に、大きな市街地を形成し、海に面して那珂湊漁港を構える。旅のテレビ番組でもよく紹介されているので、ご存知の人も多いだろう。那珂川右岸に大洗町磯浜地区(祝町)があるが、大洗町の中心市街地は南に下っているので、中心市街地同士の距離は意外に遠い。
現在も、漁業が主な産業として、県内一の漁港になり、遠洋漁業の母港でもある。マグロ、カツオ、サンマなどが水揚げされ、首都圏向けの魚卸業や水産加工業が盛んになっている。また、水戸藩の海防の拠点でもあったため、水戸藩由来の歴史的建造物も多い。黒潮による温暖な気候と太平洋を望む風呼明媚な場所が多いことから、観光業も戦前から盛んである。
□
丁度、お昼時分である。地方のひと町としては、とても大きな那珂湊は見どころも多い。「腹が減っては」の何とかで、長く歩くことになりそうな前に昼食を取りに行こう。もちろん、この那珂湊といえば、海鮮料理以外の選択肢はなかろう。
駅前ロータリーから左折し、東方向に歩き、那珂湊漁港に向かう。港はかなり離れているので、徒歩で10分位かかるが、道も平坦で苦にならない感じである。どの町でも見られるような無個性の新しい建物が続くが、古い建物も少しだけ点在している。
(県道6号線を歩く。勝田方面と繋がるので、交通量も多く、町の主要道になっている。)
(県道沿いの薬局跡。モルタルのなめらかな看板建築で、戦後高度成長期の建築と思われる。屋号の部分は、モルタルを少し盛った立体文字である。)
(漁港近くの石蔵。アールの付いた観音開きの鉄扉も重厚で、「聴潮庵」の看板がかかるが、業種は不明。潮風を避けるように、港を背にして、出庇と鉄扉がある。)
漁港に近づくと、駐車場待ちの車や観光客でごった返している。駅寄りの港の狭い一角に、観光客向けの販売所や食堂が連ねており、町一番の活気のある場所になっている。
(那珂湊おさかな市場に到着。)
(港に面して、観光客向けの販売所や食堂が軒を連ねる。価格はとても安く、遠く首都圏から、車で来町する買い出しの観光客も多い。※ゴールデンウィーク中の大混雑のため、平日の追加取材時に撮影。)
(食べ歩きができる、生牡蠣も名物。※ゴールデンウィーク中の大混雑のため、平日の追加取材時に撮影。)
海鮮料理店や寿司店が沢山ある。市場の角、一番有名なヤマサ水産の市場寿し店に入ろう。出待ちの人も多いが、店も大きく、客回りの早い回転寿司なので、スムースに入店できた。
社長の豪快な方針で、とにかくネタが大きいことで有名である。ここの寿司を食べると、他の店の寿司がミニサイズに見えてしまうほど。もちろん、水産会社直営店なので、すこぶる新鮮な上、この大きさを考えると、驚くほど安い。切り身魚系は二貫で200円と300円が中心、トロ二貫が500円(税別)で食べられる。
(ヤマサ水産「市場寿し」。テレビ番組でも、よく紹介される有名店である。)
カウンター席に案内される。ほぼ満席であり、取り皿も大量に流れてくるので、そのまま取る。トロ、本マグロ赤身、生サバと何だろうか。トロはやや小ぶりであるが、噂通りにネタがシャリよりも大きい。食べてみると、ずっしりと身が重く、魚の旨味がジュワッとする。かなりの味とボリュームなので、4皿8貫でも満腹になった。
(初めて食べた時は衝撃であった。それ以来、湊線訪問時の楽しみのひとつになっている。那珂湊訪問時には、是非、食べてみてほしい。)
□
旨い寿司で大満足になった。那珂湊駅に戻り、散策に出発しよう。駅の待合室では、観光客向けの「みなとまちなか漫遊マップ」という街歩きガイドマップを頒布している。このマップに「水戸藩ゆかりのまちめぐり」という歴史散策コースが紹介されているので、このコースを参考に歩いてみよう。所要時間は約1時間半とあるが、ゆっくり散策したいので、倍の3時間を確保してある。
(駅前の一角には、前衛的な観光マップも設置されていた。イラストが面白い。)
駅前ロータリーに接続する県道を横断し、駅からまっすぐに歩く。ここは中心市街地から離れているので、商店街はなく、住宅地になっている。右手に勇稲荷神社【鳥居マーカー】があるが、星形の社殿になっており、とても奇抜だ。
(県道の横断歩道先の住宅地に入る。住宅は密集し、ローカルさを感じさせない。)
(勇稲荷神社。どう見ても、神社に見えないデザインは賛否あると思うが、これを建てる地元の意思も凄い。)
更に、突き当りのT字路を左に曲がると、古い商家や民家が建っている。うちわ、カレンダーやタオルを取り扱う、明石家安源七商店【赤色マーカー】である。今や、うちわ専門店も大変珍しいが、昔の業者向け販売促進用品の販売店であったのであろう。大正初期の建物といわれ、こぶりながら、この地方の商家の造りの特徴がよく残る。なお、那珂湊では、幕末に水戸藩と水戸天狗党との激しい戦いの場になり、昭和22年(1947年)に那珂湊大火、先年の東日本大震災でも被災し、多くの町家や土蔵などが失われている。現存する古い建造物は大変少なく、幸運にも、それらの苦難を乗り越えた建物である。
(うちわ・カレンダー専門店の明石家安源七商店。1階の出庇が、道路側に少し飛び出しているのが、那珂湊の商家の特徴になっている。)
(明石家安源七商店の斜め向かいの古い民家。強い海風を凌ぐため、屋根はやや低い。漁師町の家らしい雰囲気を感じる。)
(ホーロー製の肥料の看板が目を引く。恵比寿さまの表情がなんとも良い。住友化学の商標として、現在も使われている。)
明石家安源七商店から、店前の道路を那珂川上流方の北西に歩く。しばらく行くと、左手の駐車場の奥に小さな山門が見える。那珂湊市の指定建造物になっている山上門(さんじょうもん)【黄色マーカー】である。
(静かな住宅地の中を歩く。)
(駐車場の奥に山上門がある。)
寺院の山門ではなく、江戸の水戸藩邸(現・東京都文京区小石川)にあった勅使門(※)を移築したものである。江戸時代の典型的な薬医門のデザインで、薩摩藩の西郷隆盛、松代藩の兵学者・佐久間象山(さくましょうざん)や幕末の歴史に残る志士達も、この門を潜ったと伝わる。
(元・水戸藩邸山上門。昭和11年[1936年]に陸軍省から払下げになり、那珂湊出身の深作貞治氏が購入して、当地に移築保存。昭和32年[1957年]に那珂湊市に寄進した。)
この山上門の上は、あずまが丘公園になっており、高台になっている。門を潜り、桜が満開の階段を上がると、ふたつの大きな白亜の塔が並び立っている。幕末に建造された反射炉跡【青色マーカー】である。高さは約15mあり、尊皇攘夷を実行するため、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の命によって、1号炉(西炉)が安政2年(1855年)に完成。2号炉(東炉)が1号炉の2年後に完成した。しかし、元治元年(1864年)の水戸天狗党の乱(元治甲子の乱)で破壊され、現在の反射炉は、郷土研究家の関一(せきはじめ)氏の尽力により、昭和12年(1937年)に再現された復元模型になっている。
塔の間には、復原記念碑があり、日本海海戦の連合艦隊司令官である元帥・東郷平八郎の「護国」の揮毫を賜わっている。復原されたのも、戦時色が強くなっていった当時の社会的背景もあったのであろう。
(ほぼ原型通りに再現された反射炉跡。那珂湊の町のシンボルにもなっている。県指定史跡にもなっている。)
射程約1,200m・約20門の大砲が造られ、幕府にも献上された。この反射炉の使われた期間は約9年と短命であったが、明治時代の鉱山学者・日本近代製鉄の父と呼ばれる大島高任(たかとう)が、釜石に高炉を造るきっかけになったという。なお、高田の鉄橋駅近くの柳沢地区には、中根川の水力を使って砲身をくり抜く、水車場(砲身製造工場/現在は跡地)が建設されている。
(当時の大砲を模したレプリカも鎮座する。)
(反射炉の白色耐熱レンガを焼いた、復原煉瓦焼成窯[登り窯]跡も残る。約4万枚の煉瓦が焼かれた。藩領産の良質な粘土や陶土を使い、瓦職人が苦心して取り組み、その耐火性能は現代のものと変わらなかったという。なお、後ろの建物は、県立那珂湊高校の校舎。)
丘を降りて、那珂川沿いに歩いてみよう。川沿いにアスファルトの広いたたきがあるが、昭和28年(1953年)から昭和47年(1972年)まで使われていた、魚市場跡【緑色マーカー】である。この頃が最も漁業が盛んで、サンマなどが大量に水揚げされたという。向かいの断崖には、小さな鳥居と社【祈りマーカー】があり、目を引く。
(那珂川と旧・魚市場跡。)
(断崖の社。割れ目から湧水が出る場所らしく、水神宮になっている。小さな石祠には、昭和31年[1956年]11月14日建立と刻まれていた。)
旧・魚市場跡を通り過ぎると、稲葉屋菓子店【茶色マーカー】がある。明治20年(1887年)創業の老舗で、創業当時の建造の店舗といわれ、那珂湊の現存木造町家のなかでも、最古級になると考えられる。現在も営業しており、4種類の砂糖絶妙にをブレンドし、スッキリとした味わいの「反射炉のてっぽう玉(黒飴)」が名物とのこと。
(稲葉屋菓子店。東日本大震後に屋根瓦を葺き替えたらしく、真新しい。不定期休・9時〜18時半頃まで営業・駐車可・茨城県ひたちなか市栄町1-7-21にある。)
菓子店の前を過ぎ、車の多い道路を横断した先には、コンクリート護岸の小さな川がある。自然にできた川ではなく、寛政8年(1796年)に造られた運河の名残である【波マーカー】。元々は、4間(約7.2m)の幅があったそうだが、今はその半分になっている。
江戸時代、那珂湊港に到着した回船の積荷は、小さな船に積み替えられ、藩蔵や約20軒あった回船問屋の蔵に納められたという。しかし、明治時代末期に鉄道が次々に開通すると、徐々に船運は衰退。この運河も漁船が利用するようになり、昭和初期まで使われた。なお、江戸時代の那珂湊は、回船の東廻り航路の中継港として栄えた。北隣の中継港は平(たいら)、南隣は銚子であり、江戸に近い利点も活かし、東北や北海道に商売を積極的に広げた。豪商も多く生まれ、水戸藩の経済を支えたという。
(回船運河跡の万衛門川。元の幅らしい、両側の道路がある。)
(近くの道路脇には、昭和16年[1941年]7月23日の大洪水水位記録碑【灰色マーカー】がある。当時の茨城県が設置したものである。)
(つづく)
□□□
(※勅使門)
天皇や将軍からの使者を迎える門。正門とは別に設けられていた。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
「みなとまちなか漫遊MAP」(発行元・発行年不明。駅で入手。第4版改定2。)
© 2019 hmd all rights reserved.
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。