湊線紀行(7)那珂湊駅 後編

時刻は正午を過ぎた所である。今度は、駅舎や駅周辺を見てみよう。開業以来の古い木造駅舎を補修しながら、今も使っている。開業は大正2年(1913年)なので、築100年超のしろものである。

改札口は間口も広く、開放的で、国鉄の様なものものしい感じがしないのが、純粋な地方民営鉄道としてスタートした雰囲気を伝える。なお、列車別改札になっており、閉鎖時に引き戸が閉められるのは、東北以南の鉄道駅としては、今や珍しいかもしれない。


(閉鎖中の改札口。上の駅名案内付きパネルもオリジナルである。有料の駅レンタサイクルの駐輪場も兼ねる。2時間税込み100円。電動式は200円でレンタルできる。)

(改札口横には、大小の古い石油ランプが展示されていた。湊線では、昭和8年[1933年]に車両の電灯化を行っており、那珂湊駅のランプ小屋を撤去しているので、おそらく、それ以前のものと思われる。)

丁度、上下列車の発着になり、沢山の乗客が降りてきた。先程の初老の駅員氏にお礼を言い、改札口を通る。湊線一の中核駅として、かなり大きな待合室が設けられている。


(上下列車の交換を行う。上り列車を先に見送り、下り列車の乗客が改札口に向かう。)

地元住人や賑やかな観光客達が立ち去ると、静かな駅に戻る。30畳程のスペースがあるので、掲示物や地元の湊線応援組織のデスクなども置かれ、あまり鉄道駅の雰囲気がないおおらかさが、温暖な土地柄を感じさせる。やや薄暗い照明も、昔から変えていないのであろう。天井も高く、配色も洋風で、格子天井に球体の吊り電灯が下がる小洒落た雰囲気も残る。なお、1日あたりの駅利用客は約500人で、湊線で一番利用客数が多い。


(広い待合室には、飲料メーカーのプラスチック製ロングベンチが並ぶ。手前のテーブルでは、観光パンフレットやポケット時刻表を頒布している。)

(格子天井と吊り電灯。ホーム側のダウンライトは近年増設されたらしい。)

有人の出札口も設けられているが、茨城交通時代からの自動券売機も設置される。券売機は1台撤去し、オリジナルグッズのディスプレイになっている。湊線では、地元高校生達の通学利用を重視しており、市と連携して年間通学定期券を発売している。年間84,000円とかなり格安で、採算度外視の面もあるが、半公営鉄道の第三セクター鉄道になった今、地元への施策として率先してできる様になった。なお、吉田社長の方針から、原則として、観光客向けのイベント列車などに頼らず、日々の利用客増加による経営改善に力を入れているとのこと。時間はかかるが、飽きやすく不安定な各種イベントよりも、長期的な視点に立っているのは、他の地方ローカル鉄道事業者の参考になると思う。


(自動券売機と出札口。関東の駅百選の金色プレートも柱に輝く。右手に「チッキ」こと、鉄道小荷物窓口跡があるが、ジュースの自動販売機やガチャガチャマシンが置かれ、よく見えない。)

また、改札口上には、茨城交通時代からの電光式駅名標もかかる。基本的に毎時上下2本、通勤通学時間帯は3本、閑散時間帯は1本、終電は地方ローカル線としては遅く、上下共に23時台である。この駅で列車交換をすることが多いので、上下列車の発車時刻はほぼ同じの場合が多い。


(改札口上の電光式駅時刻表。社名入り長提灯も吊り下がる。)

駅前に出てみよう。増改築と補修がされており、外観からは古さはあまり感じられない。大きなロータリーも小綺麗に整備され、水戸や大洗への路線バスが発着している。なお、駅出入口左手にテナントが入っていたが、今は茨城交通バスの営業所兼乗務員控室になっている。

また、平成24年(2012年)6月、南東北の会津鉄道芦ノ牧温泉(あしのまきおんせん)駅と姉妹駅の提携を行った。同じ半公営の第三セクター鉄道、古い現役木造駅舎、駅猫がいるという共通項も多いとのこと。


(駅舎正面外観。)

駅周辺には、面白いものが色々とあるので、ぐるっと回ってみよう。駅出入口から右手に行くと、貨物ホーム跡の敷地があり、地元タクシー会社の建物と茨城交通バスの車庫になっている。かつては、2本の貨物側線が引き込まれており、一部が残っている【青色マーカー】。


(貨物引込線跡と貨物ホームの縁石らしいものが残る。使われなくなったトロッコやバラスト散布用のホキが置かれていた。駅舎寄りは、土砂で埋め立てられており、形跡はなくなっている。)

タクシー会社の斜め向かいには、通運会社の古い建物や倉庫【赤色マーカー】が並び、今も営業している。日通マークこと、「マルツウ(赤丸の中に通の漢字)」も軒下に誇らしげに残り、日通の地方グループ企業らしい。元々は、湊鉄合同運送をルーツとし、湊鉄道との関連も深い。戦時中の一駅一営業の通運統合の国策により、この那珂湊通運に引き継いでいる(※)。


(那珂湊通運社屋と石蔵。建物は相当古いが、よく手入れがされている。)

(隣には、大谷石の石蔵も並ぶ。)

奥に行くと、相当くたびれた荷受け所【黄色マーカー】も残る。先程の通運会社の建物を建てた同時期の昭和初期のものと思われる。片流れ屋根をパラペットで隠すデザインも、当時はハイカラであったのであろう。よく見ると、丸通「まるつう」マークの下に薄っすらと、「荷受所」と漢字で書かれている。なお、線路に対して直角に建てられているが、貨物ホームがあった頃、営業所の向かいに線路に並行して建てられていた。貨物ホームを撤去した昭和55年(1980年)頃に、倉庫群並びの現在地に移築されたらしい。


(移築された日通荷受所。)

勝田方にこのまま歩き、勝田方にある東電前踏切を渡って、駅舎反対側に行ってみよう。湊機関区の建物の北側には、廃車になった車両が保存されている。最後の自社発注車である茨城交通ケハ601である【緑色マーカー】。


(事実上のワンメイク車であるケハ601。車体強化のコルゲートが美しい。また、運転窓上の通風用小窓が麻呂眉のようで、愛嬌がある。)

車種区分の頭の「ケ」は非常に珍しいが、燃料の軽油の「ケ」が由来とのこと。「ハ」は国鉄と同じ普通車の意味である。台車や下回りのエンジンなどは降ろされ、いわゆるダルマになっている。なんと、昭和35年(1960年)製であるが、錆びないステンレス車体のため、60年近く経っても外観はピカピカなのに驚く。現在、地元湊線応援組織が管理保存しており、毎週日曜日やイベント時には、車内の公開と展示を行っているとのこと。

重連統括制御ができず、乗降扉も手動式であったため、閑散期に主に運行。他車と併結する場合は、エンジンを停止し、付随車(無動力の客車)として運用された。しかし、次第に使われなくなり、平成4年(1992年)に廃車になっている。なお、新潟鉄工所(現・新潟トランシス)の民営鉄道向けステンレスディーゼルカーとして、試験的に初めて製造された車両であり、鉄道遺産的な価値は高い。ちなみに、同年に老舗の汽車製造(現・川崎重工業に吸収合併)が、ステンレス電車の岳南1100形を製造している。当時の最先端車体製造技術であった。

湘南顔、3扉車のオールロングシート、国鉄キハ20形と同じDMH17C・180馬力のディーゼルエンジンを搭載。常磐線が電化する前までは、国鉄水戸駅への直通列車に使われたというので、このピカピカな銀の車両は、水戸駅でとても注目を集めただろう。また、ひたちなか海浜鉄道発足時、台車を履かせて、復活させる計画があったが、老朽化のため断念したという。


(駅待合室に展示されているケハ601の大型模型。)

その近くには、もう一つの保存車両である国鉄キハ20形429が鎮座している。大洗鹿島線開業時に国鉄から譲渡され、後に茨城交通時代の湊線にやって来た国鉄形気動車である。

湊線では、キハ203として運行されていたが、冷房化やワンマン運転化をきっかけに引退。部品取り車両として留置されていた。平成になってから、茨交カラーから国鉄朱色5号こと、通称「タラコ色(首都圏色)」に塗り替えられ、国鉄時代の車番が復活した。現在は、資料館として使われており、イベント時に車内公開されている。なお、キハ20形らしからぬ面構えであるが、大洗鹿島線時代に角型ヘッドライトボックスに改造されているため。元々は、昭和36年(1961年)に日本車両で製造され、広島に初配属された気動車である。


(茨城交通キハ203こと、元・国鉄キハ20形493。)

保存車両達を見やると、その南側には、湊機関区の検修庫と古い木造の詰所が並ぶ【紫色マーカー】。空き地には、いろいろな古い部品が放置されており、いかにもメカ屋らしい機械油の匂いもツンとする。何故か、その中に殿山駅の古い駅名標が打ち捨てられていた。


(湊機関区の検修庫と詰所。)

(打ち捨てられた殿山駅の古い駅名標。)

更に南に歩いて行こう。こちら側にも、鉄道貨物に使われていた大型倉庫が並んでいる。その中でも、百華蔵(びゃっかぐら)【灰色マーカー】と呼ばれる大谷石の大きな石蔵が目にとまる。築約70年とのことで、那珂湊でも代表的な大谷石造りの蔵とのこと。取り壊しの危機があったが、地元の建物修繕会社が買い取って整備し、展示会やコンサートなどの貸しスペースとして使われている。なお、この蔵の中に会社も入っている。


(駅東側の大型倉庫群。)

(ビルダー株式会社「百華蔵」。)

百華蔵の南にも、屋根の高いモルタル倉庫、オールトタンの倉庫や赤レンガの倉庫【茶色マーカー】も並ぶ。理由はわからないが、北側のトタン倉庫の屋根が左右対称でないのが、面白い。


(トタン倉庫と赤レンガ倉庫。奥の屋根の高いモルタル倉庫は、3つ並んでいる。)

(出入口や屋根などは、かなり修繕されているが、側壁の赤レンガの文様が美しい。築年は不明であるが、大正から昭和初期のものであろう。)

那珂湊駅阿字ヶ浦方の踏切を渡り、駅に戻ろう。南側からみると、この大カーブの手前に駅があるのがよくわかる【カメラマーカー】。カーブ半径は201mあるので、本線としてはかなりきつい。なお、半径201mが湊線の最急カーブになっており、日工前駅の常磐線との分離地点、磯崎駅先のカーブとこの那珂湊構内のカーブの3箇所がある。


(駅南側からの全景。この先の踏切手前で、3本の線路は単線にまとまっている。※資材置き場の道路側柵内から撮影。)

(つづく)

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(※通運について)
鉄道を利用した貨物輸送を通運という。那珂湊では、昭和12年(1937年)末に通運統合され、湊鉄道が土地を通運会社に貸し、建物を建築したとの記録がある。おそらく、この頃の建物と思われる。

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