流山線&竜ヶ崎線紀行(10・流山線編)流山歴史散策 その3

流山キッコーマン酒造部工場の前【A地点】である。ここから、更に南西に向かって歩いて行こう。この歴史散策の最終目的地は、流山赤城神社(あかぎじんじゃ)【鳥居マーカー】である。平和台駅から旧・流山街道(本町通り)を東西に結ぶ大きな二車線の市道を渡ると、狭い旧道が真っすぐに延びている。一本東側の裏街道にあたり、かつては商店が建ち並び、大変賑わっていたという。幾つかの寺社も集まっている。


(旧・流山街道の裏街道。今は、秋元家の白味醂ブランドであった、天晴(あっぱれ)通りの名が付く。)

この裏街道に入ると、祠に納められた古い庚申塔【祈りマーカー】がある。庚申信仰由来の仏である青面金剛(しょうめんこんごう)像が浮き彫りにされ、一般的に怖い形相をしているものが多いが、どこか素朴で優しげな表情にほっこりとする。左上に「十一月 吉日 ○○」と消えかかるような刻印があるが、年号が見当たらない。正確な建立年は不明であるが、相当古いらしい。

江戸時代初期の慶長12年(1607年)、近くの長流寺(ちょうりゅうじ)の初代和尚が、火難にあったこの庚申塔を再建したという。しかし、明治から大正へ、徐々に庚申信仰も廃れてくると、祠も荒れに荒れてしまった。見かねた地元住人が寄付を募り、大正15年(1926年)に改築されたという。


(宿地区の庚申塔。「宿」は旧字で、現在は流山六丁目になっている。改築以降、毎月14日が供養日になっている。)

懐かしい昭和のままの商店も少し残っているが、殆どが廃業し、住宅地の中の静かな通りが続く。


(昭和40年代風の廃業した食料品店も、いい感じである。専売公社の塩の青看板も、今では珍しい。)

200mほど進むと、寺田稲荷【赤色マーカー】がある。江戸時代の創建といわれ、食物の女神(稲荷の主神)である宇迦之御霊神(うかのみけつのかみ)を祀る。明治8年(1875年)に大火があったが、この稲荷が延焼を食い止め、翌々年の明治10年(1877年)に地元有志により再建したという。


(寺田稲荷。とても小さな稲荷神社であるが、地元住人に大切にされている感じである。)

寺田稲荷の向かいに、ひとつめの大寺である長流寺(ちょうりゅうじ)【黄色マーカー】があるので、行ってみよう。通りから本堂前までの参道がとても長い。山号は宝泉山(ほうせんざん)、阿弥陀仏を本尊とする浄土宗で、千手観音を安置する観音堂や古い六地蔵がある。本堂前の大銀杏がまばゆいばかりの金色を放っており、素晴らしい。我を忘れて、しばし見入ってしまった。

江戸時代初期の慶長12年(1607年)に開山。末期の天保7年(1836年)の火災で全焼し、後の元治元年(1864年)に再建された。また、新撰組が陣立てをした際、隊士達が分宿したという。近藤勇や土方歳三の子孫が参加する法要が、毎春、盛大に行われている。


(長流寺本堂と大銀杏。この大銀杏は市の保存樹木になっている。)

長流寺を出て、少し歩くと、純和風の日本家屋が左手に建つ。白味醂「万上」の秋元本家跡【青色マーカー】である。流山市の公共施設「一茶双樹記念館」として、一般公開されているので、ちょっと立ち寄ってみよう。敷地内には三棟の大きな建物があり、道路側の秋元本家は受付や資料の展示、中央にある双樹亭は枯山水に面した江戸時代の母屋、奥に茶室を備える一茶庵が新たに建てられている。


(秋元本家跡「一茶双樹記念館」。)

秋元本家は当時の建物ではなく、再現された復元商家であるが、下総の商家の特徴をよく捉えているという。土間の先に板張りの床があり、二階に上がる箱階段も備える。奥に小さな案内カウンターがあり、そこで入館料100円を支払う。先に、二階の資料展示室を見学してみよう。秋元家と白味醂の歴史、秋元家や一茶との交流などが展示してある(資料展示室は撮影禁止のため、ご容赦願いたい)。また、この敷地の隣には、白味醂「天晴」を造る醸造工場があった。


(再現された店屋部分。流山の特産品を展示販売している。)

白味醂の醸造で財をなした秋元家の第五代当主・秋元三左衛門(さんざえもん)は、俳人・小林一茶と親交があり、50回以上も一茶が訪れた。敷地中央にある双樹亭は、江戸時代安政年間築の母屋を解体修理し、小ぶりながら見事な枯山水も備える。なお、「双樹」は三左衛門の俳号であり、商家の大旦那でありながら、有名な句集に入選するほどの腕前であったという。

巨富を成した造り酒屋といえども、華美ではなく、控えめで品格のある造りが素晴らしい。庭に面して三部屋が続く部屋になっており、どの部屋からでも庭を眺められる。茶会や句会、市民や学生の作品展示会なども催されている。


(庭からの双樹亭。)

(縁側からの枯山水。)

小ぶりの庭ながら、紅葉も見られ、深い趣を感じる。一角には、一茶句碑も置かれ、「夕月や流残りのきりぎりす(一茶)」とある。双樹との親交を感じ、傑作のひとつといわれている。


(一茶句碑。)

お茶と菓子のサービス(各種あり・有料・税込み300円)があるので、お願いしてみよう。庭が見える部屋で頂くことができる。丁度、歩き疲れ始めたので、足を伸ばすことができ、少し楽になった。


(枯山水と紅葉を愛でながら、お茶セットを頂けば、気分は俳人に。)

【秋元本家跡「一茶双樹記念館」】
休館日・月曜日(祝日は開館、翌日休館)、開館時間・9時から16時50分まで、
入館料・大人100円、駐車場あり、お茶と菓子の有料提供あり。

さて、一茶双樹記念館を出発し、ふたつめの大寺である光明院(こうみょういん)【緑色マーカー】に寄ってみよう。山号は赤城山、宗派は真言宗である。この寺も、新撰組の隊士が分宿したといわれ、隣にある流山赤城神社の別当寺(べっとうじ※)であった。創建時期は不明であるが、鎌倉時代中期(13世紀後半)作と思われる観音像があるので、相当の古寺である。秋元三左衛門(双樹)の墓や一茶との連句碑もあり、一茶を慕う俳句愛好家がよく訪れるという。


(光明院本堂。かつては、長福寺とも呼ばれた。)

そして、この歴史散策の最終目的地である流山赤城神社【鳥居マーカー】に到着。入口に吊された大しめ縄が見事である。コンパクトに見えるが、長さ6m・太さ1m・重さ500kg程もあり、大しめ縄を作る行事は市の無形民俗文化財になっている。氏子や地元住人約300人が協力して、何と1日で作るという。直径40cmの大縄3本を撚り合わせ、心材に青竹を束ねて使っている。


(流山赤城神社の大しめ縄。)

石鳥居前で一礼し、社殿に参拝しよう。広い境内にお椀状の小山があり、急石段を登ると、薄暗い小森の中に社殿がある。太古の昔、群馬県中央部の上毛三山(じょうもうさんざん※)のひとつ・赤城山が噴火で崩れ、その土塊が流れ着いたという伝説があり、この小山がそうだという。また、「山が流れてきた」ことから、流山の地名の由来になっている。


(赤城山の高さは、約15mある。別の言い伝えでは、赤城山の御札が流れ着いたという説もある。)

この赤城山の頂上、真ん中に社殿が構えている。大己貴命(おおむなちのみこと/別名・大国主、出雲大社と同じ。因幡の白兎の神様)を祀る。創建時期は不明であるが、江戸時代初期の元和6年(1620年)の再建とされる。手前の拝殿は、明治42年(1909年)の再建。その後ろの本殿は、江戸時代中期の寛政元年(1789年)に、秋元三左衛門が中心になって再建した。なお、本殿は覆屋で覆われているため、外からは見えないが、非常に保存状態がいいという。


(流山赤城神社社殿。江戸時代に正一位の神格を賜り、格式の高い神社であった。明治以降の旧社格は郷社。背後には、波切不動尊など末社も多い。)

この散策の安全完歩と再訪を祈願した後は、流山線の平和台駅に向かおう。来た道を引き返し、駅に向かう大通りを東に歩くと、15分程で駅に到着。駅前にはイトーヨーカ堂などの大型店舗がいくつも構え、流山最大のショッピングセンターになっており、車や人通りも多い。平和台駅はごく普通の昭和な雰囲気の駅であるが、駅前の理容店兼美容院は同じ建物に縦に入り、奇妙なミックス具合と怪しい昭和の洋風の感じが面白い。

なお、戦時中に設けられた帝国陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう/兵士や軍用馬の食料を保管・供給する施設)は、流山赤城神社の東側の現・流山街道付近(県道5号線)【紫色マーカー】にあった。この平和台駅から引き込み線が延びていたが、再開発により、その形跡は全く無い。


(流山線平和台駅。駅出入口スロープに流鉄の直営売店があったが、閉店している。)

(駅前の理容店兼美容院。オーナーが同じなのかは、不明である。)

もう一度、終点の流山駅に行き、折り返しの上り列車で、この旅をスタートした幸谷(こうや)駅に戻る。まだ、午後の14時を過ぎた所で、大分早く終えた。昼食を食べ損ねているので、この松戸界隈まで来たならば、あそこに行ってみよう。JR常磐緩行線下り電車に乗り換え、終点の我孫子(あびこ)で下車する。お目当ては、もちろん、駅そば屋の弥生軒(やよいけん)である。いつも混雑しており、食券を購入後、席が空くまで少し待つ。


(我孫子駅ホームの弥生軒。電車が到着するたびに大混雑で、店の外ですする客もいるほどである。)

名物の「から揚げそば(税込み400円)」を注文。すぐに出てきた。この覆い尽くす様な巨大なから揚げが、駅そばの常識を覆す。麺は細うどんのような太さがあり、そばの味や食感がしないのは、昭和風のご愛敬である。汁は甘辛であるが、甘さを抑えた、やや塩っぱい味がいい。


(から揚げそば。何と、厚さは3cm位ある。強者は二個入り[税込み540円]にもできる。から揚げのみの販売[税込み140円]もあり、持ち帰りも可能で、その客も多い。麺や汁は仕入れではなく、自社工場製。※価格は取材時。)

鉄道ファンには、大変有名な駅そば屋である弥生軒は、戦前の昭和3年(1928年)4月に創業。駅弁を調製販売していたが、列車のスピードアップ化で売れなくなったため、国鉄時代末期に駅そば屋に転業した。駅弁店時代には、映画「裸の大将」の主人公で知られる、有名日本画家の山下清が住み込みで働いていたこともある。

から揚げそばは、天ぷら用のイカが高騰したため、代替えとして鶏のから揚げを乗せたが始まりである。当時、物珍しい組み合わせであったため、店は大繁盛した。「せっかくなので、もっと大きくしよう」と徐々にボリュームアップしたという。現在、我孫子駅に3店、天王台駅に1店の直営店がある。駅弁店時代の名残であろうか、我孫子駅のホーム売店も弥生軒が営業している。

巨大から揚げで満腹になった後は、一度改札を出て、切符を買い直し、上野行き快速電車で帰るとしよう。

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平和台1348======1350流山
流鉄流山線・列車番号55・下り流山行き
「流星号」・2両編成(ワンマン運転)

※折り返し乗車。

流山1358======1406幸谷
流鉄流山線・列車番号60・上り馬橋行き
「流星号」・2両編成(ワンマン運転)

※JR常磐緩行線に乗り換え。

新松戸1417======1430我孫子(終)
JR常磐緩行線・下り我孫子行き
(編成数と列車番号不明/急病人のため、3分遅延)
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(流山線編おわり/竜ヶ崎線編につづく)


【本取材日】
2016年12月3日

【追加取材日】
2016年12月4日 流山散策追加取材、東福寺、流山せんべい店
2017年1月17日 馬橋散策、小金城趾駅、小金城趾
2018年6月14日 流山総合運動公園(キハ31撮影)
2018年7月14日 鰭ヶ崎雷神社

【カメラ】
RICOH GRII

【主な歴史参考資料】
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)

【旅程表/2016年12月3日】
幸谷0808 列車番号20・上り馬橋行き
0811
馬橋0845 列車番号23・下り流山行き(馬橋周辺散策)
0857
流山0915 列車番号30・上り馬橋行き
0926
馬橋0930 列車番号29・下り流山行き
0938
鰭ヶ崎1008 列車番号33・下り流山行き(鰭ヶ崎周辺散策)
1012
流山

(流山歴史散策)

平和台1348 列車番号55・下り流山行き
1350
流山1358 列車番号60・上り馬橋行き
1406
幸谷

(JRに乗り換え)

新松戸1417 列車番号不明・下り常磐緩行線我孫子行き(急病人のため、3分遅れ)
1430
我孫子(終)


(※別当寺/べっとうじ)
江戸時代以前の神仏習合時代の神社を管理する仏寺。当時、「神=仏」の考えがあり、当寺の住職(別当)の方が、宮司よりも上位職であった。
(※上毛三山/じょうもうさんざん)
赤城山(赤城神社がある)、榛名山(はるなさん/榛名湖と伊香保温泉がある)、妙義山(みょうぎさん)のこと。赤城山と榛名山は火山、妙義山は岩山で、群馬を代表する名山。

2024年9月10日 文章修正・校正・一部加筆

【リニューアル履歴】
2024年9月10日 流山線編全話

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