この流山浅間神社(ながれやませんげんじんじゃ)【赤色マーカー近くのA地点】から、表通りを北に進んでみよう。この通りの所々には、古い商家が幾つか残っている。神社の真向かいには、古い建物【赤色マーカー】がふたつ並んでおり、左は伝統的な和風建築の商家、右は大正昭和風の和洋折衷の建物になっている。
(流山浅間神社向かいの古い建物。今は、中規模マンションも通り沿いに建ち並び、住宅地化が著しい。※追加取材時に撮影。)
左の黒瓦の商家は、大正12年(1923年)築で、イタリア料理の飲食店がテナントとして入り、保存状態も大変よい。流山市の古民家再生プロジェクト第一号として、元々の意匠を生かして、補修や改修したものである。外装のみではなく、内装や土間もそのまま生かしているという。また、国登録有形文化財に指定されている。和の雰囲気たっぷりの中でのイタリアンも、かつてない組み合わせで、楽しめるだろう。なお、屋号の丁字屋は、元々の足袋屋(たびや/日本の伝統的な靴下)であった屋号を、そのまま使っているとのこと。
(丁字屋栄。※1)
右の和洋折衷の建築は、築年は不明であるが、古い医院を改装したという。戦後の昭和30年代頃のものかもしれない。天然酵母を使った和風ベーカリーカフェが入っていたが、残念ながら、閉店している。今は、流山切り絵行灯ギャラリーとして、使われているらしい。
(レトロな旧医院。玄関や軒下外壁などに小粋なデザインが見られる。派手なピンク色も、本来の色であろう。テナントの開店時に建物全体が補修されたらしく、とても綺麗である。)
この丁字屋のすぐ先には、江戸時代末期の弘化3年(1846年)創業で、国登録有形文化財の呉服新川屋【黄色マーカー】がある。明治23年(1890年)竣工の築130年近い商家は、一階が店舗、二階が住居になっている当時の一般的な商家造りで、現役の店舗であるのが凄い。妻面に厚い防火土蔵壁を備え、この建物の重厚さを増している。鬼瓦には、縁起担ぎの恵比寿天(北側/商売繁盛の神様)と大黒天(南側/財宝の神様)があしらわれているのも、特徴になっている。
なお、この付近は広小路と呼ばれ、新川屋と同じ意匠の商家が建ち並んでいた。昭和の高度成長期の昭和30年代から40年代にかけて、建て替えや廃業などにより、急速に姿を消してしまったという。
(呉服新川屋店舗。流山市初の有形文化財である。平成17年に保存修理がされている。)
新川屋前の路地を東に入ると、笹屋土蔵【青色マーカー】が建っている。明治31年(1898年)築の白漆喰壁土蔵造り二階建てで、元は寝具店であった。取引先の蔵を解体移築したもので、補強工事の跡も見られる。現在は、蔵カフェ兼ギャラリー「灯環(とわ)」(※2)が、テナントとして入る。道路側の窓とドアは、近年に取り付けられたものとのこと。なお、笹屋自体も表通りに面した新店舗があり、現在も寝具店として営業している。日本橋越後屋、現在の三越の仕立屋をルーツとし、流山市内でも屈指の老舗という。
(笹屋土蔵も、国登録有形文化財に指定されている。※追加取材時に撮影。)
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新川屋先に通称「広小路三叉路」と呼ばれている交差点があり、道なりに進まず、旧道を更に北に向かって歩こう。この先も昭和時代の店が並んでいるが、廃業している店が多い。三叉路近くには、呉服ましや(増屋)の店舗と土蔵【緑色マーカー】がある。店舗は新川屋と同じような出桁造りの和風商家であったが、関東大震災(大正12年/1923年)後に、流行していた看板建築風に大改築したという。一見、元の商家の意匠は、全くわからない感じである。
店舗並びの土蔵は、この流山本町周辺で最も古く、墨の棟書きには、明治3年(1870年)8月竣工と記されていたという。なお、店舗と土蔵共に、流山市の指定有形文化財になっている。
(広小路三叉路付近からの本町通り北方向。車や人通りは大変少なく、静かである。)
(ましや店舗。大震災後の防火や延焼防止の道路拡張のため、関東全域で多数改築されたという。)
(明治3年築のましや土蔵。)
(広小路地区にある古い牛乳販売店。明治乳業のマークが懐かしい。店は閉まっているが、トラックや牛乳箱は新しいので、戸口配達だけ行っているらしい。また、右隣の元・秋元の酒倉庫も古く、大きな屋根通風器が乗っている。※追加取材時に撮影。)
ましやの先にも、もうひとつの伝統的和風建築の商家があり、和紙ランプなどを制作販売する「流山あかり館彩(いろどり)」【紫色マーカー】(※3)が入る。実は、長良川鉄道編の美濃市観光で紹介した「あかり館彩」の東京直営店であり、どこかで聞いたような店名であるので、とても驚いた。正確な築年は不明であるが、築80年の乾物屋を改装したという。手頃で、おしゃれな和紙小物も多数扱っているので、女性にもお勧めしたい。
(流山あかり館彩。外装も手入れがされ、古道具がディスプレイされてるが、元の意匠を壊さないようにしている。)
その向かいには、ひと町に一店という感じであろうか。高山せんべい店【菓子マーカー】がある。鰭ヶ崎(ひれがさき)の流山せんべい店と同様にご当地名物である。明治初期創業、伝統の炭火手焼きを守っているそうで、追加取材時の昼過ぎに立ち寄ってみたが、店番をしている年配のお母さん曰く、「全て売り切れたよ」とのこと。とても人気があるらしい。
(高山せんべい店。流山のせんべいは、埼玉の草加せんべいと異なり、薄焼きが基本である。)
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旧流山街道を離れ、江戸川の河岸に行ってみよう。あかり館横の路地を入る。この付近の字(あざな)は、「加(か)」の一文字で珍しい。流山一丁目などもあるが、流山駅の西側から南方の平和台駅にかけてのエリアに見られるので、新しく付けられた字であろう。元々は、「加岸」であったらしく、他に、加台、根郷(浅間神社付近の中心部)や宿などがあり、現在の流山本町地区が該当する。
(あかり館横の路地に入る。加六丁目付近、向かいの段差が堤防。)
富士橋という小さな橋を渡り、急階段を上ると、堤防道路【カメラマーカー】に接続している。江戸川は利根川の治水(分水路)と水運のため、江戸時代初期に開削された人工河川であるが、とても川幅が広い。利根川河岸の関宿付近から分流後、真南に流れ、鉄道駅の松戸、金町(共にJR常磐線)や市川(JR総武本線)の近くを通って、東京湾に注いでいる。この付近には、渡しの跡も幾つかあり、シーズンには、桜や菜の花も楽しめる。
この場所には、矢河原「やっから」の渡しがあったという。明治時代に設置された渡しで、昭和35年(1960年)頃まで存続した。なお、この渡しで、新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)と隊士達が流山を去ったとの通説があるが、史実と異なる。
(江戸川上流方を望む。流れはとても穏やかで、遠くの白塔は清掃工場である。天気のいい日には、東京スカイツリーや富士山も見えるという。)
このまま、堤防道路を南に歩く。左手には、流山の町並みが見下ろせる。途中、キッコーマンの工場【工場マーカー】が見えたので、近くまで行ってみよう。元々は、地元実業家・堀切家の醸造工場であった。今も、流山発祥の白味醂「万上(まんじょう)」を生産している。工場内の見学はできないが、外壁に白味醂の歴史や昔の写真が多数展示されており、当時の貴重な写真も多い。
(堤防道路から流山の町並みを眺める。)
(流山キッコーマン酒造部工場の流山まちなかミュージアム。白味醂誕生200周年として、歴史的資料を展示している。写真中心なので、歩きながら、気軽に見学できる。)
この外壁の先に凹んだ場所があり、何だろうと見てみると、江戸時代中期建立の庚申塔(※)二基【祈りマーカー】が並んで鎮座していた。庚申塔自体は各地でよく見られるので珍しくはないが、「庚申様」と呼ばれ、特に大切にされているらしい。左側は祠付きの元文5年(1740年)、右側は祠なしの文化15年(1818年)のものである。流山市内でも唯一、庚申信仰の祭祀を今も行っているそうで、歴史民俗遺産として、大変貴重とのこと。祭祀関係の道具や資料も100点以上現存するのも、珍しいという。また、左の庚申塔は駒形になっており、初めて見て驚いた。
(流山三丁目の庚申様。平成23年に流山市指定の有形民俗文化財になっており、手厚く保護されている。※追加取材時に撮影。)
(つづく)
(※1)千葉県柏市柏の葉に移転。新店舗は、古民家レストランではないとのこと。
(※2)同町内駅近くの県道5号線沿いに移転。笹屋土蔵では、違うカフェが営業中。
(※3)閉店したとの情報あり。美濃市の本店は営業中。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
流山本町江戸回廊(流山市観光協会・2016年/観光散策マップ・現地観光案内所で入手)
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)
2024年9月10日 文章修正・校正・一部加筆
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