別所線紀行(3)生島足島神社

この下之郷は、地元の大神社である、生島足島神社(いくしまたるしま-)の門前町になっている。この別所線も、わざわざ経由する程の大古刹であるので、行ってみよう。

駅舎があった線路の東側は、広場になっており、ロータリーや駐輪場として利用されている。廃止された西丸子線の代替である、丸子町行きの路線バスも、ここから発車する。神社名の書かれた大きな石柱が右手にあり、参道があるので、道なりに行こう。

天気はとても良いが、誰もいない。緩やかな上り坂の参道は、大きく弧を描いている。若緑に囲まれた参道の中程まで行くと、大きな赤い北鳥居【赤色マーカー】がある。


(参道にある北鳥居。)

突き当りの角を左に曲がると、大きな寺の前を通る。寺の反対側に大駐車場があり、こちらからも入れるが、きちんと表の鳥居から入る事にしよう。

表鳥居である、東鳥居【B地点】まで来た。上田市と丸子町を結ぶ、県道65号線に面しており、大きな観光看板も設置されている。ここは、「国土の大神、日本の中心」になっているらしい。
生島足島神社公式HP


(東鳥居。外から見ると、森の中にある様に見える。)

この生島足島神社は、人と大地に生命力を与える「生島大神(いくしまおおかみ)」と、人の願いに満足を与える「足島大神(たるしまおおかみ)」の二神を祀っている。信濃屈指の古社であり、塩田北条氏、武田信玄、真田家や歴代上田藩主も厚く信仰していた。

太古より、大八州(おおやしま/日本の雅称)の御霊として祀られ、日本総鎮守と仰がられている。また、平安時代中期の延喜式(えんぎしき※)に定められた式内大社であり、創建は不詳であるが、平安時代初期には、神戸(かんべ/神事を行うための民戸)を授かっている。なお、天皇が遷都する場合、この二神をその地に鎮祭するそうで、明治維新後、京都から江戸に遷都した明治2年(1869年)にも、宮中に鎮祭した記録がある。

東鳥居を潜ると、左手に大きな神池があり、参道上にある東御門の先は、垣根内の神域になるので、格式を感じる神社である。この神池の中に神島と言う小島があり、橋を渡ると、上宮である御本社(本殿)がある。この様式は、「池心宮園地(いけこころのみやえんち)」と呼ばれるもので、最古の神社配置様式との事。


(参道と東御門。新緑と朱が鮮やかで、清々しい。)

(神池と神島。向かいの森に様になっている所が、神島である。)

(鴨や亀が沢山住んでおり、長閑に泳いでる様子は、とても日本的である。)

東御門を潜り、暫く進むと・・・神島の前に到着する。御本社のある神島には、橋で結ばれており、隣に神事のみで使う御神橋が並んでいる。


(御本社と御神橋。)

(御神橋。参拝者は、手前のコンクリートの橋を使う。)

御本社(上宮)【鳥居マーカー】は、神島の中央にあり、朱塗りの柱が映える。御神体は銅鏡等の器物ではなく、内殿の土間になっているそうで、直に見えない様になっている。また、神島内や神池の向こう岸には、荒魂社や八幡社等の小さな摂社が幾つか鎮座している。勿論、この旅の安全を願って、参拝しておこう。

この神社には、珍しい農作物の豊穣占いがある。何と、米粥の出来具合で、米、麦等のその年の各種農作物の作柄を占い、毎年1月に執り行われている。また、7年毎の寅の年・申年に行われる、御柱祭と言う大きな祭りもある。


(上宮の御本社。御神体が土間である為、床が無い珍しい造りになっている。)

神島から橋を渡って戻ると、御本社の向かいに、神楽殿と下宮である諏訪神社【黄色マーカー】がある。狭い境内に、上宮(内宮)と下宮(外宮)が、真正面に向かい合っている配置も珍しい。片参りにならない様に、こちらも参拝しておこう。また、11月から4月は、諏訪神社の御祭神が御本社(上宮)に移り、御籠りするとの事。毎年春になると、この下宮に遷座する。

由緒では、諏訪神社の御祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)が、諏訪に降りられた際、この地に留まり、二柱の大神に奉仕して、米粥を献じたと言われている。先程の粥を使った占いや御籠りも、これに由来するらしい。また、雨乞い由縁の神社でもあるので、降水量の少ないこの塩田平の風土に適していると感じる。


(神楽殿。諏訪神社の拝殿になる。舞の他、結婚式も執り行われる。)

(諏訪神社。江戸初期の上田藩主・真田信之が再建した。長野県の県宝になっている。)

諏訪神社と神楽殿の間の狭い場所には、樹齢800年の大ケヤキがある。左右二本で夫婦、西のケヤキの洞内も夫婦になっており、夫婦円満、良縁子宝、安産子育の御神木とされている。


(夫婦欅。)

(西の御神木の祠。)

諏訪神社の北側には、木造の大きな歌舞伎舞台【青色マーカー】が残っており、民俗的な農民歌舞伎舞台が、隣り合わせにあるのも面白い。地元の言い伝えでは、明治元年(1868年)の竣工と伝えられ、例祭の時のお楽しみとして、色々な催し物が開催されたのであろう。手前の広い空き地は、観客席のスペースである。その後は、一時、小学校として利用されたり、集会所として利用された。


(歌舞伎舞台。長野県の県宝であり、規模も全国トップクラスとの事。)

中は自由に見学が可能で、郷土資料館になっており、戦国時代好きには必見である。武田信玄が宿敵上杉謙信との川中島合戦の必勝を願った「願文」や、配下の武将が信玄に忠誠を示した83通もの「起請文(きしょうもん)」、真田家の朱印状等が展示されている。特に、配下の中堅武将肉筆の起請文は、現代語訳と解説も付けられており、人柄やその時代も感じられるもので、とても面白い。

舞台には、直径4.5mの回転舞台やセリが復元整備され、舞台下も見学出来る。横16m・奥行き12mの大きなものである(屋内は撮影禁止の為、画像はご容赦願いたい)。

そろそろ、駅に引き返すとしよう。神社に隣接して、真言宗智山派の理智山長福寺【万字マーカー】がある。平安時代中期創建と伝えられ、塩田平南方の霊峰独鈷山(とっこさん)の鬼門の位置の生島足島神社に、独鈷山の守り仏である薬師如来を勧請したのが由来との事。本堂は、戦後の飛び火による焼失の為、防火対策のコンクリート建築になっている。

昭和17年(1942年)に建立された、奈良法隆寺の夢殿を1/2スケールで模した、信州夢殿がある。安置されている観音像は過去に三回も盗難されたが、全て戻って来た不思議から、「お戻り観音」として親しまれている。旅行安全祈願に良いとの事。
信州夢殿長福寺公式HP(※夢殿の画像あり。御本尊拝観は要予約で、拝観料が必要。)


(理智山長福寺。)

(本堂。)

(つづく)


(※)
延長5年(927年)制定。当時の律令制度で定められた律令格式(法律)の一部。細則に当たる式の部分に、当時の朝廷から公認された神社を記した一覧がある。有名であっても、反朝廷勢力の場合は、記載されなかった。

【参考資料】
現地観光案内板
上田電鉄別所線沿線ガイドマップ(上田電鉄発行)
生島足島神社公式HP
信州夢殿長福寺公式HP

2017年7月14日 FC2ブログから保存
2017年7月14日 文章修正・校正(濁点抑制と自動校正)

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