駅舎を見てみよう。新所原(しんじょはら)寄りの北西にあり、駅出入口は北向きに構えている。ホームからは、構内踏切と上り1番線の線路脇の通路をコの字に通り、小さな改札を通ると、直ぐに10畳位の広さの待合室に入る。西側の窓いっぱいに据付の木製ロングベンチ、中央に背を合わせた一対の木製ベンチがあり、綺擦り切れている部分が少ないので、近年、綺麗に塗り直されたらしい。また、線路側の南側と西側の全面が窓になっており、比較的明るい。窓枠は老朽化の為、アルミサッシに交換されている。
(駅舎内待合室。)
(西側窓側の木製ロングベンチ。)
天井は中央に装飾部があり、三ヶ日駅や気賀駅の天井とデザインが少し違う。市松模様の板は白く塗られ、他の天浜線の駅よりも天井が低くなっている。
(天井部。)
駅舎側通路の突き当たりを直角に曲がると、改札口と真横に出札口がある合理的な配置になっている。出札口の直角並びには、鉄道手小荷物窓口(通称・チッキ)の小さな木製テーブルも残っているが、自動券売機が組み込まれ、掲示コーナーになっている。出札口周辺はコンパクトにまとまり、天井も低い為、独特な雰囲気がある。
(人の暖かさと手入れの良さを感じる出札口周辺。)
改札の中央部は無く、サイドの金属柱とガラス入り木製吊り戸が、設置されている。しかし、吊り戸の1枚は外されている。また、床面の近くの壁が、昔の銭湯風の細かなタイル張りであるのも、特徴である。
(改札口周辺。)
自動券売機の上には、少しレトロなポスターも。左右はJR東海と共同観光キャンペーンポスター、中央は天浜線オリジナルポスターである。「20年前の僕に出会う旅」のキャッチコピーが、この天浜線のイメージを良く表していると思う。レールバスTH1型が写っているので、第三セクター転換当時のものらしい。
(天浜線の観光ポスター。)
駅前に出てみよう。サッシ化された二枚引き戸を開けると、やや狭い駅前広場があり、駅前にアパートが建ち並ぶ静かな住宅地の中の駅になっている。鉄道の雰囲気がしない為、地元住民以外は気が付きにくく、驚くかも知れない。
駅舎は木造モルタル平屋建てで、左手の3階建ての増築部分が大きく、出入口部分以外は駅舎が見えない。その為か、駅舎は登録有形文化財の指定にはなっていない。増築部分にテナントが入っていると聞いているが、人気を感じられない。また、寄棟風の赤い洋風屋根や出入り口付近は、気賀駅に良く似ている。入口横の柱の総タイル張りが特徴である。
(駅前広場からの駅舎。)
(無垢板の手書き駅名標。)
狭い駅前には、タクシーも1、2台待機している時もある。駅舎西隣には、自転車置場、公衆トイレ、鉄道官舎が所狭しと並ぶ。鉄道官舎とスーパーマーケットの敷地との間に、蒸気機関車時代の高架貯水槽も残る。国登録有形文化財指定されており、円形の頂部が特徴になっている。
貯水槽の真下には鉄管が降りており、水を汲み上げる揚水ポンプがあった。現在、水源の井戸は埋められている。また、一時期、新所原からの国鉄二俣西線の終着駅であった為、構内の掛川方に転車台もあったという。
(金指駅の高架貯水槽。)
◆国登録有形文化財リスト「天竜浜名湖鉄道金指駅高架貯水槽」◆
所在地 | 静岡県浜松市北区引佐町金指字東金指1033-2 |
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登録日 | 平成23年(2011年)1月26日 |
登録番号 | 22-0153 |
年代 | 昭和13年(1938年)頃 |
構造形式 | RC鉄筋コンクリート、水槽の外径4.0m、水槽の高さ2.0m、 地面からの高さ12.0m、貯水量18.0t。 |
特記 | プラットホームの西北に位置する鉄筋コンクリート造高架貯水槽。 0.5m角の柱を4本、内転びに建て、外径4.0mの円形貯水槽を支える。 総高は12.0m。中央にバルブ付鉄管を降ろし、力強い外観になる構造物。 |
※文化庁公式HPから抜粋、編集。
駅前には、金指や井伊谷周辺の大型観光案内板もある。時間があったら、訪問してみたい。この金指の町は、線路北側と山の間の狭い場所に住宅地が発達しており、南側は幾つかの工場・倉庫と都田川の水利を利用した大水田が広がっている。
金指の地名の由来は、金、または、鉄を採った残りかす「金ぐそ」が流れ込む川の周りが由来で、全国的にも珍しい地名という。約800世帯・約2,200人(平成23年4月現在)が住み、引佐高校(いなさこうこう)、赤十字病院や大型スーパーマーケットがある。また、「坂の町」でもあり、寺社や江戸期の陣屋跡等も残る。東西に秋葉街道、信州に通じる鳳来寺道(ほうらいじどう※)、井伊谷西方の古刹・方広寺に向かう参詣道・半僧坊道の3つの街道が交差する交通の要衝地でもあった。江戸時代初期には、関所も置かれていたそうだが、気賀関所程の大きさではなく、常勤の関守はひとりだけの出張所風で約160坪の小さな関所であった。金指関所の建物は現存しておらず、国道を入った路地に石碑と観光案内板があるだけという。
マピオン電子地図(金指関所跡)
(駅前広場の広域観光案内板。)
(構内通路横の金指地区観光案内板。)
また、北側の山を超えた向こう側には、約1,400世帯・約4,200人(平成23年4月現在)が住む井伊谷(いいのや)と呼ばれる小盆地がある。金指駅前の国道362号線の停留所から、井伊谷行きのバスも発車している。
井伊谷川と神宮地川が流れる水利に恵まれた約4km四方の小盆地である。縄文時代頃から人々が暮らし、水神を祀る古代国「井の国」あったと伝えられ、古墳も多く残る。井伊の地名の由来は、「井」からの転化との事(※)。地元の渭伊神社(いいじんじゃ)南の冷泉を指し、井泉にまつわる伝承が大変多いという。
11世紀の平安時代以降、土豪の井伊氏がこの地を治めた。南北朝時代には、南朝側・後醍醐天皇の皇子・宗良親王(むねよししんのう)を匿い、このエリアの南朝吉野側の大きな拠点でもあった。また、徳川四天王のひとり、武将・井伊直政(なおまさ)は、この井伊氏の出身である。しかし、関ヶ原の戦い後に死去してしまったので、直政の重臣・地元出身の近藤秀用(ひでもち)が徳川家康に重用され、後に井伊谷藩(石高1万7千石)の大名に封じられた。井伊谷には、今でも、城址や古刹等が数多く残っているという。
また、井伊谷西方の山間には、海上安全、火災消除等で有名な奥山半僧坊大権現を擁す大古刹・深奥山方広寺(じんのうざんほうこうじ)がある。南北朝時代の応安4年(北朝年号・1371年)開基の臨済宗方広寺派の大本山であり、遠州鉄道奥山線が奥山まで開通したのも、参詣客を輸送する為であった。
臨済宗方広寺派大本山・方広寺公式HP
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駅舎の待合室に戻ろう。駅待合室のスタンドを見ると、こんなパンフレットが。浜名湖の新しいご当地グルメ「牡蠣カバ丼」という。浜名湖特産の牡蠣を鰻ダレで焼き、浜名湖産の海苔、玉葱を温飯に盛り、すりおろした三ケ日ミカンの皮をアクセントにトッピングしている。地元料理人が考案し、某テレビのご当地グルメ番組でも取り上げられて、注目を集めているとの事。浜名湖北東部の有名温泉観光地・舘山寺(かんざんじ)温泉周辺で食べられる。
(新・浜名湖名物「牡蠣カバ丼」のパンフレット。)
この金指駅の訪問で、天浜線登録有形文化財駅の11の駅、桜木・原谷・遠江一宮・遠州森・天竜二俣・岩水寺・宮口・三ヶ日・西気賀・気賀と、この金指で訪問完了になった(訪問順)。出札口横に置いてある、最後の駅スタンプを押印しよう。
待合室の時計を見ると、時刻は昼の13時前。天竜二俣まで戻ろう。次の上り列車は、13時12分発になる。初老の駅長氏は出札口のテーブルで仕事をし、静かな待合室にカタコトとした音が聞こえてくる。木のベンチに座って、缶コーヒーを飲みながら待つ事にする。
(待合室で待つ。)
(つづく)
(※鳳来寺と鳳来寺道)
奥三河、現在の愛知県新庄市にある寺院。真言宗五智教団の大本山。現在の国道257号線と420号線にあたる脇街道が整備され、金指から北上し、長篠で別所街道に接続して、信州方面も結んでいた。
(※井伊の地名)
かつては、「渭郷(いごう)」、又は、「蟾郷」(せんごう?/読み不明。蟾はヒキガエルの事)と表記していた。奈良時代の好字二字令(和銅6年・西暦713年)の発布により、地名を好ましいふたつの漢字(好字)で表記するように改められ、「渭伊郷」になった。これが「井伊谷」になった。なお、一文字の漢字の地名は強制的に二文字になり、後世でも二文字であることが暗黙の了承になった。当時の中国の唐を手本とした律令政治を施政するのあたり、日本神話に関する由来を排除したとされる。
2022年3月5日 ブログから転載・文章修正・校正。
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