駅出入口に入ると、直ぐに待合室になっている。逆L字の20畳位の広さがあり、二台の自動券売機や木製ベンチもあり、小奇麗な感じになっている。まずは、出札口の若い駅員氏から、1日フリーきっぷを購入しよう。全線乗り降り自由、大人1,500円と大変リーズナブルになっている。
(天浜線改札口と出札口。)
待合室はJR1番線ホームに接続し、小さな連絡改札口も設置されている。JR東海のIC乗車カード「TOICA」対応の簡易自動改札機が設置されており、天浜線の自動券売機でも、JR線の乗車券を発券出来る様に便宜を図っているとの事。
(連絡改札口。JRホーム側から撮影。)
実は、多くの天浜線の駅舎や鉄橋等が、国登録有形文化財に一括登録になり、丁度、記念スタンプラリーを開催しているとの事。駅員氏から勧められ、有形文化財駅は全て訪問する予定なので、同時に挑戦してみよう。指定された11の駅スタンプと、天浜線に乗車した証明として、車内整理券を貼り込むルールになっている。本来、下車の運賃支払い時に整理券は回収になるが、スタンプラリー参加を運転士に申し出ると、貰える事になっている。
(国登録有形文化財記念スタンプラリー用紙。)
(裏のスタンプと整理券貼り込み面。)
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ここで、天竜浜名湖鉄道の簡単な歴史に触れておきたい。この掛川から、浜松市天竜区の天竜二俣を経由し、浜名湖北岸の町々を結んで、新所原(しんじょはら)に至る長大ローカル線である。いちローカル線として、大幹線である東海道本線から分かれるが、再び、同線につながる珍しいバイパス状のローカル線になっている。
(天浜線路線図。※Wikipedia共有承諾画像より。取材時、森町病院前駅は未開業。)
元々は、この掛川駅から天竜二俣駅へ行き、そこから北進して、飯田線の三河大野駅を経由。明知線(現・明知鉄道)に接続して、中央西線の恵那(えな)駅まで結ぶ「遠美線」(遠州と美濃を結ぶ路線の意味)の大構想によって計画された路線である。しかし、太平洋戦争により、軍需工場の集積地だった浜松の空襲時の迂回線として、新所原方面と結ばれた。戦時の緊急を要する状況から、掛川方と新所原方の東西から同時に建設を急ぎ、真珠湾攻撃の前年である昭和15年(1940年)に、国鉄二俣線として全線開通している。実際、地震や空襲の為、東海道本線の特急や軍用列車等が、迂回運行された事がある。
そして、国鉄の末期、赤字ローカル線(特定地方交通線)として廃線の対象になったが、静岡県や沿線自治体の支援を受け、昭和61年(1986年)8月に第三セクター鉄道として転換・開業した。
◆路線データ◆
第三セクター鉄道、旧国鉄二俣線、掛川から新所原まで、路線キロ67.7km、駅数38駅、
所要時間約2時間、狭軌1,067mm、全線単線、全線非電化、ワンマン運転。
◆略史◆
昭和10年(1935年)4月 二俣東線として、掛川-遠州森間開通。
昭和11年(1936年)12月 二俣西線として、新所原-三ヶ日開通。
※昭和12年(1937年)7月 日中戦争開戦(盧溝橋事件/ろこうきょう-)。
昭和13年(1938年)4月 二俣西線として、三ヶ日-金指(かなさし)間開通。
昭和15年(1940年)6月 遠州森-金指間が開通し、全線開通。
昭和16年(1941年)12月 太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)。
昭和33年(1958年)11月 遠州鉄道の気動車が、西鹿島から天竜二俣まで直通開始。
昭和41年(1966年)10月 遠州鉄道から直通列車の取りやめ。
昭和46年(1971年)3月 蒸気機関車の全廃。
昭和59年(1984年)6月 第二次廃止対象特定地方交通線として、廃止決定される。
昭和60年(1985年)3月 鉄道貨物輸送の全廃。
昭和62年(1987年)3月 国鉄二俣線廃止。第三セクター鉄道の天竜浜名湖鉄道に転換。
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専用改札を通り、天浜線ホームに出てみよう。改札口上の駅時刻表を見ると、朝夕のラッシュ時間帯は1時間に2-3本、日中の昼間は1本程度、列車のおおよそ半分は途中の主要駅の天竜二俣駅止まりになっている。
(専用改札口からホームを望む。)
(駅時刻表とスライド式発車番線案内。)
第三セクター転換時に新設されたらしい、3両編成程度が停車出来る頭端式1面2線になっており、先細りになっている。国鉄二俣線時代に使われていたJRのホーム側には、簡易なポール柵が設置され、使われていない。また、旅客上屋は鉄道用ではなく、大きく湾曲した汎用ガレージタイプになっている。なお、天浜線の番線の振り方は、かつての掛川駅の振り方と同じで、JRのある南側が1番線、駅長室がある北側が2番線になっている(※)。
(左が旧二俣線時代、右は新設の線路である。緩やかにカーブしている。)
(ホーム中程から、改札口方を望む。あまり、幅は広くない。)
(ホーム先端部。向かいの旧・国鉄二俣線ホームは、かなり長い。)
古い駅名標が、旅客上屋の高い天井に吊り下げられていた。国鉄風のフォントであるが、国鉄時代のものかは不明である。
(国鉄風の吊り下げ式駅名標。)
また、2番線ホーム向かいには、大きな沿線観光案内板が並んでいる。大分、色褪せが進んでおり、第三セクター転換時に作られたものであろう。沿線の観光名所が良く判る。駅近くの主な観光地の幾つかは、立ち寄る予定である。
(4枚に分かれている沿線観光案内板。)
(掛川かえ西掛川間。)
(遠州森から上野部間。)
(天竜二俣から宮口間。)
6時20分を過ぎると、単行気動車がJR側の1番線に到着。2-3人の乗客が下車し、この車両が、折り返し掛川発一番列車の107列車・新所原行きになる。TH2100形(2107号車)と呼ばれる、新潟トランシス製の新型軽快気動車である。
(天竜浜名湖鉄道TH2100形。)
今回の天浜線の旅は、路線キロ60Km以上の長大ローカル線であるので、日程を2日間に分け、今日は東側、明日は西側と、途中下車観光もしながら、じっくりと巡りたい。いつものパターンでは、最初に車窓ロケを兼ねて、通しで乗り鉄をするのだが、陽がまだ低く、写真撮影の露出が不足気味である為、掛川駅寄りの有形文化財駅を幾つか訪問し、再び、この掛川駅に戻って来よう。
(つづく)
(※)通常は、駅長室のある方が1番線になる。
2020年4月28日 ブログから転載・文章修正・校正。
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