上信線紀行(1)高崎へ

まだ、底冷えの寒さが続く2月下旬。例年よりも早めに、ローカル線の旅に出よう。暖かくなってからの方が下車観光がしやすいが、観光客も少なく、空気が澄んでいるので、写真写りが良いメリットもある。また、鉄道ファン的には、線路沿いの草木が生い茂っていないので、景色や線路状態が良く分かる。ローカル線は山中を走る路線が多く、うっかり真夏に行ったりすると、草木の濃い緑が遮り、車窓の景色が良く見えない事もあったりするので、笑えない所である。

鉄道路線図を眺めながら、どこにするか迷う。意外にも、巷での沿線紹介記事も少なく、以前から記事にしたいと思っていた、群馬県西部の民営鉄道である上信電鉄が良さそうである。

先ずは、群馬県最大の商業都市である高崎に向かおう。高崎駅は、東京-上越間の鉄道貨物を担うJR貨物の高崎機関区や、JR東日本の復活蒸気機関車も在籍する車両センターがあり、東京方面からの高崎線、信越本線、上越線の接続と、運行上の両毛線、吾妻線や八高線が発着し、上越新幹線と北陸新幹線も分岐する北関東の鉄道大要衝地である。

早朝の4時30分に起床。始発電車に乗車するので、急いで支度をする。先ずは、北への玄関駅である上野駅に向かい、JR高崎線で高崎駅まで向かおう。今日も寒いが、風は殆ど無く、天気は快晴の予報となっている。朝食も摂っていないので、ホームに上る前に、中央改札口向かいの駅弁屋で手配する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
上野600======748高崎
JR高崎線・下り1820E普通・上野東京ライン直通高崎行き
JR東日本E231系1000番台K-14編成15両編成(4号車・サロE230-1055乗車)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++

上野駅5番線から、6時丁度に発車。早朝列車の乗客は疎らで、まだ、朝のラッシュ前である。なお、高崎まで二時間かかる事や駅弁をゆっくり食べたいので、グリーン車を奮発し、スイカにグリーン券情報を吸い込ませ、編成上野方の4号車二階席中央に陣取る。この列車は、東海道本線の小田原始発であるので、国府津車両センター所属のK編成である。

上野を出ると、高崎線、山手線、京浜東北線の上下六線が並行し、赤羽付近で夜明けとなる。すれ違う上り電車を見ると、もう混み始めている様である。6時半前に大宮を過ぎると、揺れの少ない高規格なロングレールを、滑る様に高速で走り始める。独特な横揺れがある二階建てサロ(※)の上階は、慣れないと酔う感じがするが、台車からの振動や走行音は少なく、二時間以上の長距離乗車の場合はとても快適に感じる。また、特急グレードよりはやや劣るが、シートにリクライニングやテーブルも付いている。


(サロ230グリーン車上階。他の乗客はおらず、貸切状態となる。)

朝食も食べておこう。上野駅の名物駅弁である「チキン弁当」である。取材となると、駅見学や徒歩の下車観光が多いので、しっかり食べておきたい。このチキン弁当は、新製品が何かと多い上野駅でも、昭和39年(1964年)発売のロングセラーである。国鉄食堂車を経営していた、今は無き日本食堂系の調製所(現・NRE※)が製造している。


(チキン弁当。税込850円。)

トマトの酸味と中空が抜けた様な軽い甘さのチャーハンは、甘さが残らない感じで食べやすい。おかずのベタッとした固めの唐揚げが、重さもあって、見た目以上に満腹になる。懐かしい昭和の洋食屋風で美味しく、燻製ミニチーズ棒が付いているのも昭和的である。町中に溢れているコンビニやファミリーレストランには無い、昔ながらのこの味は、たまに食べると、驚きにも感じる。


(現代向きに、リニューアルしている。天皇陛下もお気に入りらしい。)

埼玉の広い平野と町並みを眺めながら、1時間程過ぎると、途中の籠原駅で6分間停車する。高崎方11-15号車の増結編成を切り離して、10両編成の運転になる。この先は乗降ドアもボタン開閉式になり、新町駅からは高崎方への通勤通学客が増えてきた。利根川水系の鏑川(かぶらがわ)の大鉄橋を渡り、八高線が分岐する倉賀野駅を過ぎると、もう直ぐである。

乗車約二時間、右窓に巨大な機関区と貨物用電気機関車の一群が見えてくると、大きく右カーブをし、高崎駅4番線に到着する。丁度、朝の通勤通学ラッシュになっているが、東京周辺ほどは混んではいない。上信電鉄線はJRと改札が分離されてしまったので、中央改札を一度出て、西口に降りよう。西口階段には、先代の高崎駅のタイル大壁画が飾れられている。


(高崎駅では、湘南色の国鉄115系電車が現役であるが、新型車に更新されている。)

(上越新幹線開業直前まで、使われていた先代の高崎駅。現在の駅舎は四代目。)

北口の階段を降りると、上信電鉄の乗り換え口がある。あまり、駅出入口らしくないが、ホームに直結しており、たかべん直営の駅蕎麦店もある。かつては、JR側の1番線ホームも使われていたが、フェンスで分離閉鎖されており、上野・新宿-高崎間の特急あかぎ号・スワローあかぎ号の留置線として使われている。


(上信電鉄乗り換え口。大きなLED文字式発車時刻表示器がある。)

(ホーム上の連絡通路と上信電鉄乗り場。)

この上信電鉄は、群馬県の主要都市である高崎から、利根川水系の鏑川沿いに西に進み、富岡盆地を横断して、鏑川上流の下仁田(しもにた)までを結ぶ、33.7kmの民営鉄道である。なお、関東地方西部の南北に伸びる箱根丹沢山系の北端にある御荷鉾山(みかぼやま/標高1,286m)、北にある火山・温泉地で有名な榛名山(はるなさん/標高1,449m)と、鏑川上流西方にある妙義山(標高1,103m)の三方の険しい山々に囲まれ、袋小路状になっている。中央部に標高300m級の丘陵地帯があり、その南側に上信線、北側に信越本線が走っている。

現在の群馬県は、8世紀頃の律令制下においては、上野国(こうずけこく)と言われ、南北西を山に挟まれた幅の広い川谷の鏑川流域は、甘楽(かんら)と呼ばれていた。古くから、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでいた事が由来で、「加羅(から)」、「甘楽」、更に訛って、「鏑(かぶら)」となった。今も、郡、町や川にその名が残っている。

近世以前の甘楽エリアの交通網としては、本庄から信州佐久方面に抜ける下仁田街道が通っていた。江戸時代になると、中山道の脇街道・女旅人の多い姫街道として賑わい、下仁田産の和紙や砥石、信州産米、タバコ、絹、石灰等が江戸へ運ばれた。また、農閑期は、信州善光寺参りや湯治の旅人の往来が多かった。


(上信電鉄路線図。)

ここで、上信電鉄の歴史にも、触れておこう。江戸末期から生糸輸出が盛んになると、近代的な官営製糸工場が甘楽郡富岡に建設され、北関東西毛エリアの養蚕製糸業の中心地として、大いに栄えた。明治5年(1872年)の富岡製糸場建設直後には、製糸場から本庄や新町までの乗合馬車が開業。後に、高崎から富岡まで、木製レールに馬車を走らせる木道馬車の建設が始まったが、鏑川を渡る橋の建設に費用がかかり過ぎてしまい、頓挫してしまっている。

なお、明治中頃から、全国で鉄道建設ラッシュになっており、この時期から大正にかけて、日本の地方鉄道網の基礎が出来上がっている。高崎周辺でも、明治17年(1884年)に上野から高崎まで日本鉄道(現・JR高崎線)が開通すると、官営鉄道(後の国鉄)も、明治18年(1885年)に高崎から横川までが開通し、その8年後の明治26年(1893年)には、碓氷峠にアプト式を採用した信越線が開通した。また、明治22年(1889年)には、両毛鉄道両毛線(現・JR両毛線)も開通している。

周辺の鉄道網が次々と整備される中、この甘楽エリアに鉄道敷設の気運が高まるのは、必然であったと思われる。また、繭や生糸の大量輸送にも、鉄道が必要であった。そして、明治28年(1895年)12月、三井財閥のバックアップ得て、桜井弥三郎・小沢武雄らが発起人となり、上野鉄道株式会社(こうずけ-)が設立されたのである。現在の上信電鉄の旧社名であり、現存する地方民営鉄道の中では、愛媛の伊予鉄道に次いで、全国で二番目に古い由緒ある鉄道会社になっている。なお、当初は、生糸取引の中心地であった埼玉県の本庄と下仁田を結ぶ計画であったが、高崎の商業集積化により、高崎起点に変更されている。


(上信電鉄社章は、「上」の漢字を、丸く取り囲むデザインになっている。
8つあるのは、開業時の駅数か末広がりの数字縁起を担いだらしい。
社名の書体も、伝統のあるもの。)

最初は、軌間762mm(2フィート6インチ/通称・ニブロク※)の軽便鉄道規格で敷設された。高崎から南蛇井(なんじゃい)までは、鏑川沿いの起伏の少ない緩やかな勾配を上るので、渡河する鉄橋を除けば、建設は比較的容易であった。しかし、南蛇井から下仁田までは険しい岩山が迫り、難工事が予想された事から、一度、南蛇井までの建設に変更になったが、下仁田の住人達の熱烈な誘致運動により、計画通りの下仁田まで建設されている。

なお、非電化の軽便線であるので、B1形の豆蒸気機関車牽引の客貨混合列車の運行が行われ、伊予鉄道の坊っちゃん列車で有名な、ドイツ・クラウス社製蒸気機関車も在籍した。開業当時は、高崎・山名・吉井・福島(上州福島)・富岡(上州富岡)・一ノ宮(上州一ノ宮)・南蛇井・下仁田の8駅で、路線キロ33.7kmを約2時間30分かけて走っていた。なお、明治30年(1897年)の高崎から下仁田までの下等運賃は、32銭であった。当時、米10kg1円12銭、かけ蕎麦が1銭8厘であったので、結構高かった様である。

また、大正13年(1924年)には、鉄道省(後の国鉄)との貨車直通化と輸送力増強の為、鉄道省と同じ狭軌1,067mm(3フィート6インチ/通称・サブロク)への改軌と電化を同時に行った。新型の電車を導入して、所要時間を従来の半分である約1時間10分に短縮している。戦中も他の鉄道会社との合併も無く、戦後は復興と高度成長期の多角化経営により、上信電鉄も大きく発展していった。しかし、鉄道事業の最盛期は、昭和40年前半で、現在はその1/3程度の利用客数になっている。

◆路線データ◆
民営鉄道、高崎駅から下仁田駅まで、21駅(別に信号所3ヶ所)、路線キロ33.7km、
所要時間約1時間、狭軌1,067mm、全線単線、直流1,500V電化、ワンマン運転。

◆略史◆
明治28年(1895年)12月 上野鉄道(こうずけ-)設立。小沢武雄氏が初代社長となる。
明治30年(1897年)5月 高崎駅から福島駅まで、軌間762mmの軽便鉄道規格で開通。
明治30年(1897年)9月 終点の下仁田駅まで、順次延伸開通し、全通する。
明治44年(1911年)2月 軽便鉄道法が前年に施行され、軽便鉄道に指定される。
大正10年(1921年)8月 上信電気鉄道に改称。
大正13年(1924年)12月 全線の軌間を1,067mmに改軌し、電化を行う。
昭和39年(1964年)5月 上信電鉄に改称。
昭和48年(1973年)12月 自動信号機(ARC)導入と自動閉塞化。
昭和56年(1981年)11月 従来の快速列車に加え、急行と準急列車の運行開始。
昭和59年(1984年)12月 赤津信号所付近で、電車同士の正面衝突事故発生。
昭和60年(1985年)12月 前年の事故を踏まえ、列車自動停止装置(ATS)を導入。
平成4年(1992年)7月 急行列車運行廃止。
平成6年(1994年)10月 鉄道貨物輸送廃止。
平成8年(1996年)10月 準急列車運行廃止、ワンマン運転開始。
平成13年(2001年)2月 列車集中制御装置(CTC)を導入。
平成16年(2004年)10月 全列車ワンマン運転化。
平成17年(2005年)7月 高崎駅の改札分離。

100m程上野方に歩くと、ホーム上に改札口と駅事務室のプレハブが建っている。1日全線フリー乗車券(大人2,220円)があるので、出札口の駅員氏から購入し、時刻表も貰う。駅時刻表を見ると、毎時約二本の運転なので、そうシビアにならなくても良い。


(上信電鉄出札口と改札口。食券型自動券売機も二台設置されている。)

(駅時刻表。下段は、到着時刻表である。)

フリー乗車券は、上信電鉄のオリジナル車両が描かれた懐かしいD型硬券になっている。他にも、富岡製糸場見学入場券とセットになった往復割引乗車券(高崎-上州富岡間・入場券付き・大人2,140円・途中下車は行き帰り各1回のみ可)もあり、個別に購入するよりも、お得になっている。


(平成25年に導入の7000形は、最近の地方鉄道では珍しい、自社発注の新造車である。)

(つづく)

ここは上野(うえの)と信越と
前橋線が合うところ
中仙道の要路とて
上下の客おびただし

上野(こうずけ)唱歌九番より/石原和三郎作・明治33年頃。


(※サロ)国鉄時代からの車両形式略号。サ=付随車(モーター無し)、ロ=グリーン車(旧二等車)。
(※NRE)現会社名の日本レストランエンタプライズの略。
(※軌間)二本のレールの間隔。狭いと輸送力が小さくなるが、建設費、車両費や維持費を抑制できる。

【参考資料】
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)

2017年7月17日 FC2ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正
2017年7月17日 音声自動読み上げ校正

© 2017 hmd all rights reserved.
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。