では、外川(とかわ)の町を見に行こう。鉄道ファン的には、外川駅の古い駅舎の佇まいを見てしまうと、十分に満足してしまい、街中に行く人は少ない。実は、犬吠埼周辺よりも、見所が多い。
外川町は、銚子半島最南端の港町として、約850世帯・約2000人が暮らす大きな町になっている。昭和12年(1937年)に銚子市に編入される前は、海上郡高神村(うなかみぐんたかがみむら)であった。なお、外川の読みは、道路標識では、「とがわ」になっている場所もあるらしいが、町名も駅名も濁らない、「とかわ」の読みになっている。
外川駅がある場所は、街中の最も高い所になっており、銀行、郵便局や小さな商店街も近くにあり、この町の中心地になっている。南に120m程行くと、一気に海岸まで下る急斜面になっている坂の町である。
(駅より一本西側の通りが、現在のメインストリートになる。※冬再訪時の撮影。)
実は、この外川の町は、江戸時代初期の計画都市である。江戸時代の初め頃、銚子沖や九十九里浜沖は鰯の大漁場で、鰯は食用よりも、魚油や畑の肥料として加工されていた。鰯を天日干しした肥料を干鰯(ほしか)と言い、紀州産や九州産が主産地であったが、需用が急増した為、この房総沖まで、紀州等の関西の漁船が遥々来ていた。
この房総沖の漁場の近くに、母港を持ちたいと考えていた紀州の有力漁民の崎山次郎衛門は、長年の鰯漁で築いた莫大な私財を投入し、この外川に大規模な港を造った。また、海を望む南向きの広い急斜面を住宅地として整備し、郷里の紀州から漁師や商人達を100人以上呼び寄せた。後には、「外川千軒大繁盛」と言われ、大いに栄えたとの事。
当時の江戸幕府も、銚子港の開発を始めていたが、銚子港よりも外川港が栄えており、紀州の最新築港技術を駆使した長さ約80mの三つの堤防があった。この堤防は非常に堅牢で、大正時代までの約260年もの間、使われたとの事。なお、崎山次郎右衛門は、郷里の地頭を務めていた有力者であり、祖先は飛騨守を務めた程の家柄であるが、豊臣秀吉の紀州平定軍に敗れ、漁民になった人物である。
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駅から少し南に歩くと、郵便局の向かいに、外川ミニ郷土資料館【赤色マーカー】がある。情報収集をしようと、声をかけてみるが、あいにく、不在の様である。活魚問屋の一角に開設した資料館は、外川や銚子電鉄の今昔の写真、貝や化石、昔の漁具、民具等の展示や郷土歴史の講演を開催している。
外川ミニ郷土資料館公式HP
(外川ミニ郷土資料館。)
海を望む急斜面を碁盤目状に区画してあり、この外川の町の特徴になっている。最上段の東西に伸びる道路には、食料品店や魚屋等の地元商店が幾つかあり、ピラミッド形に「フ」が10個の軒下屋号のある土蔵風建物は、榊原豆腐店【青色マーカー】である。店らしくない外観であるが、この建物の一角で、豆腐の販売をしている。
(急斜面の最上段にある、東西に伸びる道路。※冬再訪時の撮影。)
(榊原豆腐店。「10(トウ)」+「フ」屋。※冬再訪時の撮影。)
猫が大変多く、道端にのんびりと座っていたりしている。おこぼれの魚に、沢山ありつけるので、猫にとっては天国かもしれない。
(外川の猫。※冬再訪時の撮影。)
この坂上の道路から、八本の急坂が海岸に向かって真っ直ぐ下り、名前が付けられている。潮風で住宅が傷みやすく、殆どの民家は建て替えられているが、旧家も僅かに残っている。
(坂下の観光案内板。※クリックすると、拡大。1024*768、243kbyte。)
西から二番目の本浦通り(もとうら-)【カメラマーカー】は、石畳風である。屋根の上に上がった水平線が見える、この坂を下ってみよう。昔は、道の中央に水路があったそうで、今でも、側溝の水の流れる音がよく響く。なお、西側の坂ほど傾斜がきつくなっており、高低差は25mもある。
(本浦通り。)
なお、崎山次郎右衛門が第一期工事で作った港を本浦と言い、この坂を下ると、そこに行き着いた事から命名されている。また、第二期工事の港は新浦と呼ばれ、本浦の東隣にあり、当時の港は、先がすぼんだ「山」の字を三本の堤防で造り、東西に分かれていた。
車がすれ違い出来ない程に狭いが、海岸線に平行の道路はより狭く、車が通れない所や未舗装も多くなっている。漁師町らしく、目指しを作っていたりするのも、長閑な風景である。
(海岸線に平行の道路。車は通れない。※冬再訪時の撮影。)
(目指し作り。家先の作業場にもなっている。※冬再訪時の撮影。)
住宅の土台部分は、改修された場所が多いが、昔の石垣も残っている。左は野積みで、右は城でも良く見られる積層積みである。表面がざらついている、銚子石と言われる砂岩を使っている。
(古い石垣。※冬再訪時の撮影。)
本浦通りを、更に下って行くと、旧家の青柳商店【黄色マーカー】が残っている。重厚な雰囲気の黒瓦は、笠上黒生駅(かさがみくろはえ-)近くで産出していた、あの黒生瓦(くろはえかわら)である。店頭の米の看板等から、食料品店と思われるが、今は、煙草のみを売っている様である。
(黒生瓦の青柳商店。)
坂を下り切り、もう一本海側の道に出ると、外川漁港【魚マーカー】に到着する。本来は、坂の直下が海辺であったらしい。この先は、近年の埋め立て部分と思われる。漁協の建物が港の中央にあり、一階部分に小さな魚市場がある。漁師達が漁具の手入れを行っているので、挨拶をして、少し見学してみよう。
(外川港と漁業組合ビル。)
(港に帰ってきた漁船。)
ギギギと、船が軋む音と、ディーゼルエンジンの排気の匂いが漂っている。銚子港と違い、沿岸漁業らしい小型漁船が多く、大きな船は停まっていない。殆どの船が、外川在住の個人船主のものであろう。なお、船の大型化の為、大正時代に再築された近代的な港になっており、残念ながら、崎山次郎右衛門が造った港の痕跡は無くなっている。中央に埠頭、東側は停泊地、西側は製氷工場、給油設備と小型船舶用のスロープがある。
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外川港の漁業協同組合【緑マーカー】から、東の方に歩いて行こう。港近くの民家の一角には、古い漁具保管小屋(番屋)が残っている。昔は、こんな感じの縦羽目板張りの家屋が、海岸に沢山並んでいたらしい。
(番屋らしい古い建物。)
港東側の船の停泊地【錨マーカー】には、沢山の小型漁船や釣り船が並んでいる。観光釣り船を経営する家は、町内に30軒程あるそうで、大きな平目やメバル等が釣れるとの事。
(外川港停泊地。)
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停泊地のある港の東端に行くと、江戸時代に広く流行したと言われる、大杉神社【神社マーカー】がある。本宮が利根川近くの神社にあり、海河の神様でもあるので、その由縁と考えられる。この社は、猿田彦命(さるたひこのみこと)が祭神らしいが、詳しい創建時期は判っていない。とても小さな本殿であるが、立派な宮屋根や龍の彫刻が丁寧に彫られている。
この一角は、日和山(ひよりやま)と言われており、海抜12m程度ある高台になっていて、木々が生い茂っている。稲荷神社やかつての本殿と思われる石祠も合祀しており、一角には、児童公園も併設されている。
(日和山大杉神社。道路から急な石段を登る。)
(本殿。小さな木造建築で、灯籠が並列で並ぶのが面白い。狛犬は鳥居の横にある。)
本殿右手の稲荷神社には、御神体が三柱鎮座している。本宮の京都伏見稲荷大社では、中央に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ/元は農業の神)を主神とし、左に佐田彦大神(さたひこのおおかみ/猿田彦神とも)、右に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)の三神を鎮座するので、それに倣っていると思われる。
(合祀されている稲荷神社。)
かつての大杉神社本殿と思われる石祠は、砂岩で出来ているらしく、かなり脆くなっている。なお、大杉神社は、利根川流域の霞ヶ浦南岸の稲敷市にある大社で、利根川流域の地元信仰が盛んな事から、末社が沢山ある。
総本宮・大杉神社公式HP(茨城県稲敷市)
(古い祠。)
また、境内の一角にある児童公園の角に、崎山次郎衛門の顕彰碑が建立されている。その台座の石は、崎山次郎右衛門が造った堤防に使われた銚子石である。
(崎山次郎衛門顕彰碑。※冬の再訪時に撮影。)
この外川港は、かつては、砂鉄が取れる海浜鉱山でもあった。犬若鉱山と言われ、明治6年(1873年)から昭和30年頃まで、採取されていた。当時の明治政府の富国強兵政策により、国産の砂鉄を利用した製鉄も盛んに開発されており、千葉の九十九里浜周辺の砂浜は砂鉄の大産地であったが、採取も廃れ、外川港内の砂浜は消滅している。
(つづく)
【参考資料】
現地観光案内板
銚子ジオパークパンフレット(銚子ジオパーク推進協議会発行)
2017年7月15日 FC2ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正
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