行田めぐり その3

目の神社に参拝した後は、旧国道の南側エリアに点在する足袋蔵群を見ながら、行田のシンボルである忍城(おしじょう)【歴史的建造物マーカー】に向かおう。なにはともあれ、今旅の最大のネタである。

行田八幡神社【鳥居マーカー】の裏手には、現在も操業している元・足袋工場がある。境内脇の路地に入ると、イサミコーポレーションスクール工場【工場マーカー】がひっそりと建つ。狭い敷地に大きな建物がひしめき合い、正面中央のノコギリ屋根の木造洋風建築は大正6年(1917年)、正門右手の旧事務所は大正7年(1918年)、左手の足袋蔵は昭和13年(1938年)の棟上げという。ほかにも、土蔵造りの足袋蔵、旧講堂や旧寄宿舎兼食堂などがあり、福利厚生が一体化した戦前の大規模足袋工場の面影を残す。なお、「スクール工場」と名付けられているのは、今は、学校や企業の制服を製造する被服工場になっているためである。


(イサミコーポレーションスクール工場。※敷地内は立入禁止のため、正門前から撮影。)

本社隣接のもうひとつの工場では、今でも、足袋の製造をしている。スクール工場から南に300メートル・徒歩4分ほどの住宅地の中に、古い鉄筋コンクリート建ての本社とノコギリ屋根の工場がある。足袋の設計から製造まで一貫してできるのは、熟練の技が必要で、国内でも数少ないとのこと。


(イサミコーポレーション本社と足袋工場。※同日夕方に撮影。)

今や、創業100年を超える老舗であるが、明治40年(1907年)の創業と、行田の足袋製造業者としては後発の方になる。社名の由来は有名歌舞伎の登場人物から。トレードマークの髷結いの男性も、実在した歌舞伎役者がモデルという。昭和初期建築の木造ノコギリ屋根工場は、ここだけ時間が止まっている雰囲気がある。

行田の足袋作りは、貧しかった下級武士の内職として、忍藩から奨励されたのが始まりらしい。行田周辺では、綿花栽培や染物業も盛んで、それらの好条件もうまく組み合わさり、一大地場産業に育った。しかし、戦後になると、ナイロン糸製靴下が大量・安価に出回るようになり、昭和30年代後半には廃れてしまった。ちなみに、昭和13年(1938年)の行田産足袋の生産量は8,400万足、全国シェアの8割を占め、大いに栄えたのがわかる。

イサミの工場から西に向かおう。行田市街地の道路は、南北東西に並行した碁盤目状になっていており、城下町の区割りの面影が残る。この八幡神社の通りにも、古い建物が少しだけ残っている。


(郵便局と八幡神社が面する八幡通りは、主要南北道のひとつなっているが、車の通行は少ない。向こう左手の小森が行田八幡神社。※北から南を望む。)

行田郵便局の斜め向かいには、近江商人の小川源右衛門蔵【赤色マーカー】がある。昭和7年(1932年)築の大谷石組み積み造り2階建ての豪勢な石蔵で、足袋蔵ではないが、代表的な大谷石蔵になっている。間口は4間(7.2メートル)・奥行き9間(16.4メートル)あり、1,100枚の大谷石の切石を使用。屋根の洋小屋組は、大正初期以降に行田で好まれた様式という。石蔵の向かいには、昭和風の店構えのカネマル酒店(屋号/正式名称は有限会社小川源右衛門商店)があり、その商品蔵として使われている。


(小川源右衛門蔵。搬入搬出口の庇部分も小部屋になっている。)

八幡通りから西隣の南北道・新町通りにショートカットする小道に入ると、かなり廃れた木造洋風建築がある。長井写真館【黄色マーカー】らしいが、かなり埃っぽく、営業している様子はない。大正ルネサンス風の洋風木造建築は、行田では珍しいとのこと。元々は、フチイ写真館として建てられ、所有者が変わったが、そのまま写真館として引き継がれた。1階が住宅、2階がスタジオになっており、三角屋根の傾斜部に撮影用の採光窓がある。屋内もモダンなデザインという。


(長井写真館。左手は増築部分らしい。古びたブリキの店名看板だけが、玄関横に立っていた。)

この小道を抜け、行田市駅から南下する新町通りに出ると、半分崩れかけた店蔵が建っている。これほど荒れた状態であるが、行田最古の店蔵といわれる今津印刷所店蔵(今津蔵)【青色マーカー】である。江戸時代後期から末期の竣工とされている。後ろの低い部分は住宅で、行田独自の半蔵造りになっており、最奥部に味噌蔵が続く。

江戸時代初期の元禄元年(1688〜1703年)の創業と大変古く、藩札や足袋の商品ラベルの印刷もしていたという。また、田山花袋(たやまかたい※)の小説「田舎教師」に登場する行田印刷所のモデルといわれており、花袋ファンは必見であろう。現在も印刷業を営み、この小道の中程に新しい社屋がある。


(今津印刷所店蔵。行田市の指定文化財になっている。イベント時などに内部公開されることもある。)

この新町通りのもう一本西の通りが、忍城に面した大通りになっているので、東西のショートカットの小道を再び通り抜けよう。ときわ通りに出ると、正面に行田市役所【B地点】が構え、行田の行政中心地になっている。丁度、小学校が終わったらしく、小さな子供達が大勢ワイワイと歩いて来た。まだ、夕方前なので、終業時間の早い低学年の子供達であろう。

市役所の他、文化会館や市民プールなども集まる大きな公共エリアになっており、JR行田駅と結ぶバスターミナルや観光案内所も整備されている。文化会館の裏手に忍城があり、美しく整備された親水遊歩道【水マーカー】の先には、こぢんまりとした白亜の城が見える。


(親水遊歩道から見える忍城。)

遊歩道の終点にある冠木門を潜り、木立の中を抜けると、忍城【歴史的建造物マーカー】に到着。歴史に名を残す名城のひとつであるが、意外にも小さい。なお、明治政府の廃城令で取り壊されたため、昭和63年(1988年)に再建された復元城である。先年に話題になった時代劇映画「のぼうの城」で、ご存知の人も多いであろう。

室町時代の文明年間(1469〜1487年)に、成田氏によって築城されたのが始まりである。強敵の上杉氏や北条氏の戦いにも落城せず、豊臣秀吉の関東平定(小田原攻め/1590年)の際、石田三成率いる大軍勢の水攻めに耐えた「浮き城」として有名である。関東7名城のひとつとして、忍藩10万石城下町のシンボル、今もなお、行田のシンボルになっている。

なお、紛らわしいが、この復元された忍城は史実の天守閣ではない。元々、本丸に天守閣は建てられていなかった。本丸より南の島(南側の城出入口付近/勘定所や熊谷門があった)に設けられた御三階櫓が、天守閣の代わりであったという。また、この西側が本丸の正確な位置になり、ここは曲輪(くるわ)だった場所である。それにしても、立派すぎる感もあり、観光対策的に盛っているのであろう。


(復元された忍城御三階櫓。小田原攻めの際、最後まで持ち堪えた北条氏側の唯一の城である。北条氏降伏後は、無血開城したという。)

この忍城は、天然の沼地の中に島状に残る微高地や自然堤防を巧みに利用していた。かつては、陸地部分よりも水面のほうが大きく、橋で繋がれた島々の中央奥に本丸や御殿を備えていたので、本当に水に浮かぶように見えたらしい。なお、町人は城の東側(新町通り沿いから東側と旧国道沿い)、武士は水堀の東岸沿いと西側に住んでいた。現在、城址周辺は歴史城址公園として整備されており、御三階櫓西側の元・本丸には、行田市郷土博物館がある。この御三階櫓は、博物館の施設の一部になっており、展望室に上がることもできる。


(水堀と東門。元々、曲輪の部分であるので、この東門は史実に即していないと思われる。)

今や、広大な水堀はなくなってしまい、浮城の面影もまったくないのが惜しい。しかし、水面をふと見ると、西陽に反射して美しく、しばらく眺めてしまった。在りし日の晴れた日の忍城は、キラキラと美しかったのであろう。


(堀の光の道。本格的な堀ではなく、水深も浅いので、復元されたもの。)

忍城の見学後、観光案内所【案内マーカー】があるバスターミナルに向かう。行田のもうひとつの観光名所のさきたま古墳群の行き方を中年男性ガイド氏に尋ねると、「少し遠いですが、(片道)2キロ位ですね」とのこと。「徒歩30分くらいかな。行ってみます」と、歩きだしてしばらくすると、急に雲と風が出てきて日も陰り始め、気温が急低下してきた。寒気もしてきたので、無理せずに諦め、忍城南側の水城公園【カメラマーカー】を最終地に変更する。

忍城の外堀の一部であったが、明治8年(1875年)に開園した歴史ある都市公園として、市民の憩いの場になっている。公園内の大きな沼では、釣りも許可されており、何人かの釣り人がのんびりと釣り糸を垂れていた。なお、現在の市役所などが建つエリアもこの沼の埋立地であり、市役所前のときわ通りが堀の東岸であった。この沼は堀の最東南部分にあたる。


(水城公園「忍[しのぶ]の池」と釣り人。向こうの大きな建物は、ビジネスホテルである。対岸には、交通量の多い主要道があり、ここが堀の東端であった。)

(水鳥と戯れるお年寄り。)

公園南出入口まで来ると、イチョウ並木が黄色く色づき始めていた。市中は秋の気配があまりなかったが、ここに来て秋の風情を感じる。西陽が半透過して美しい。


(見事な枝ぶりのイチョウ並木。)

なお、この沼の東側道路沿いには、移築保存された旧忍町信用組合店舗【赤色マーカー】がある。大変綺麗な建物で、近年に復原補修されたのであろう。大正11年(1922年)築の下見板コロニアル様式の木造洋風建築で、腰折れ屋根が特徴になっている。

足袋製造業者が母体になって設立された地元系金融機関で、融資や手形決済など行田の足袋産業を支えた。現・埼玉縣信用金庫(当時は信用組合)に合併され、忍支店になった後、新店舗移転後は民間の不動産会社が所有。平成29年(2017年)に市に寄進され、移築されたという。今は、お洒落なカフェがテナントで入っており、散策途中の一服も良さそうである。


(旧忍町信用組合店舗。築90年ほどになり、市の指定文化財になっている。)

時刻は15時前。肌寒くなってきたので、帰ることにしよう。東西に抜ける小道を通り、駅に直結する新町通りまで出る。この通りにも、商店街の中に足袋蔵が少し残っているので、立ち寄りながらである。

「ほうらい足袋」や「栄冠足袋」の商標で知られた奥貫忠吉商店の2階建て大型蔵「奥貫蔵」【黄色マーカー】は、大正時代から昭和初期頃築の足袋産業全盛期の美しい蔵である。奥行きは3間(5.5メートル)とやや狭いが、長さは9間(16.3メートル)と長く、長辺を正面南にしている。現在は、蕎麦店「あんど」がテナントで入るが、暖簾はなく、休業状態らしい。


(奥貫蔵。蕎麦屋が入っているが、外観からは全くわからない。)

もう少し北上すると、行田唯一の鉄筋コンクリート組み煉瓦造りの2階建て足袋蔵の大澤家住宅旧文書蔵【青色マーカー】がある。元々は、書類などを保管する文書蔵として、「花型足袋」の大澤商店が大正15年[1926年]に建てた。関東大震災後の復興博覧会を観た店主人が、「土蔵よりも火災に強い蔵を建てたい」と煉瓦造りにした。イギリス積みの煉瓦外壁であるが、水平三本の白い部分が鉄筋コンクリートになり、補強耐震効果があるという。また、黒煉瓦と白漆喰の目地が都会的に感じ、なかなか格好いい。


(大澤家住宅旧文書蔵。国の登録有形文化財になっている。繁盛していそうな洋菓子店が右に並ぶ。)

この新町通りは、廃業している商店が多く、人通りはほとんどない。このまま北上して行くと、武蔵野銀行行田支店の旧国道交差点に出る。コロナ禍の中、強行外出であったが、スッキリと気分転換になった。早く収束し、日常の生活が戻るよう願いたい。また、今日は断念した、埼玉県最大の古墳群・県名由来のさきたま古墳群も、いずれ訪れたいものである。


(徐々に夕暮れになる中、行田市駅に戻る。)

(おわり/行田散策編)

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(※田山花袋)
現・群馬県館林市出身。明治末期から大正時代に活躍した文豪。島崎藤村と並ぶ、日本の自然主義文学の代表的作家とされる。長編小説「田舎教師」は明治42年(1909年)に発表された。羽生が小説の舞台のため、行田に近い。

【参考資料】
現地観光歴史案内板
足袋蔵と行田市の近代化遺産
(まち歩きマップ・行田市教育委員会発行・2018年/現地観光情報館で入手)

【取材日】令和2年(2020年)11月10日
【カメラ】FUJIFILM X100V(FSはPROVIA)

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