流山線&竜ヶ崎線紀行(5・流山線編)流山へ

馬橋駅に戻って来た。1日フリー切符を取り出し、ロケハンも兼ねて、この馬橋から終点の流山まで乗車してみよう。片道所要時間約18分の小さな旅である。幸谷(こうや)、小金城趾(こがねじょうし)、鰭ヶ崎(ひれがさき)と平和台の四駅のみが途中駅になる。


(流鉄100周年記念バージョンの流鉄線1日フリー乗車券。Suica定期券よりも、かなり大きい厚紙製である。タイアップしている若者向けアニメーションの特製缶バッチが付いていた。)

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馬橋0845======0857流山
列車番号23・下り流山行「流星号」
2両編成(ワンマン運転)
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8時45分発の下り流山行き「流星号」に乗車。土曜日の下り電車なので、乗客は数人と疎らである。今では珍しくなったスプリングがよく効いたロングシートに腰掛け、発車を待つ。ちなみに、開通当時のダイヤは、午前に3往復、午後に4往復、夜の1往復の1日合計7往復だけで、下りの最終電車は馬橋発20時40分発になり、片道の所要時間は20分であった。もちろん、馬橋駅での常磐線(当時は、日本鉄道土浦線)との乗り換え接続も図られていた。軽便鉄道向け小型蒸気機関車2両、客車2両、貨車2両でスタートし、重役を除く職員は19名の小さな鉄道会社であったという。


(下り流山行きの流星号に乗車する。)

現在は、早朝と深夜を除き、1時間毎に3往復から5往復が運行されている。下り流山行きの終電車も、深夜0時過ぎ発と遅い。運転間隔も均等で、数分から十数分待てば、電車が来るので非常に利便がいい。全区間単線の路線でありながら、東京郊外の複線路線である武蔵野線、横浜線や南武線などと同等のダイヤである。

また、路線キロ⒌7kmに四つも途中駅があるため、駅間距離は非常に短くなっている。馬橋から幸谷間1.4km、幸谷から小金城趾間1.4km、小金城趾から鰭ヶ崎間0.8km、鰭ヶ崎から平和台間1.5km、平和台から流山間0.6kmになっており、区間平均は1.14kmしかない。列車の速度も時速40、50kmしか出さず、のんびりと走る。


(車内の様子。土曜日なので、乗客も少なく、のんびりとしている。)

しばらくすると、「間も無く発車します。そのままお待ち下さい」と、運転士の肉声アナウンスが入る。発車時刻間際になると、改札横に駅長が立ち、巻き赤旗を上げて、合図をする。この駅には大きな金属ベルの発車ベルがあるが、今は使っていないらしい。けたたましい放送の駅が多い中、この様な静かな駅はとても心地が良い。

ドアチャイムが鳴り、ガラガラと閉まると、モーターのうねりと共にゆっくりと加速する。常磐線の線路と直ぐに別れ、新坂川に沿って北上を始める。速度はたいして出さず、レールのジョイントを規則正しく踏み、車体をゆらゆら揺らしながらである。左右は住宅地が続き、車窓から遠くの景色は見えないが、1キロポスト(※)付近から、左窓に河岸の桜並木が見える。約400mの短い距離であるが、満開の桜が眺められる春の人気スポットになっている。


(常磐線の線路と直ぐに別れ、住宅地の中に入って行く。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

(1キロポスト付近の桜並木区間。堤防の土手に桜が植わっており、遊歩道もある。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

JR常磐線から武蔵野線に接続する馬橋支線高架橋を潜り、新松戸駅前ロータリーと接続している5号の2踏切を越え、マンション下の幸谷駅に到着。少しばかりの乗客が乗り込み、直ぐに発車する。この先のJR貨物側線と道路陸橋をアンダーパスすると、急に住宅が疎らになり、視界も開けて、並行する新坂川や畑が見える。この付近は沿線でも特に開けており、タイフォンを「ファーン」と高らかに鳴らし、ローカルさを感じる区間である。


(幸谷駅を発車。沿線の住宅地化が著しいので、車窓からの景色はあまり良くない。街中を走るのんびりとした鉄道である。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

実は、ここの約100mの区間には、小さな踏切が3つもある。公道の踏切ではなく、個人宅の出入り用の専用踏切で珍しい。そのため、警報機や遮断機のない第4種踏切になっていたが、先年、不幸にも、2年間で2回・計3人の住民死亡の踏切脱線事故が発生してしまった。なお、流山線の重大事故は大変少なく、国土交通省(運輸省)から無事故表彰されることも多かった。


(幸谷から小金城趾間の第4種踏切区間。見通しの良い直線区間であるが、事故は起きた。ご冥福をお祈りしたい。左手には、新坂川が流れる。開業当時から昭和の面影があるという。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

そして、警報機と遮断機のある大きな13号踏切を通過し、大きく左にカーブを抜けると、小金城趾駅に到着。流山線唯一の列車交換駅になっており、必ず上下列車が交換する。下り列車先着なので、しばらく待っていると、上り電車が到着。上り電車の運転士がホームにある発車ベルスイッチを押し、ジリジリジリと鳴った後に発車である。この駅は橋上化しており、駅員がホームに降りてこないので、ベルを普段から使っているらしい。馬橋寄りにある階段から乗客が急いで降りて来ないか確認し、ベルを押す感じである。

小金城趾駅を発車すると、北西に進路を取り、坂川のプレートガーター鉄橋を渡る。この鉄橋の袂から分流して南下する新坂川は、昭和7年(1932年)に開削された治水目的と用水の分水路である。坂川自体は流山の森の中の湧水が水源になっており、長さは16kmしかないが、丘陵下から湧き出る支流が多いため、短い割には水量がある。昔は、洪水の多い暴れ川だったという。江戸時代には、治水を巡る百姓同士の対立もあり、奉行所が仲裁したこともあった。


(坂川橋梁を渡る。河川の本流を渡るのはここだけで、流山線唯一の大型鉄橋になる。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

坂川を渡ると、松戸市から流山市に入る。起点の馬橋駅から川沿いを走って来たが、ここで離れてしまう。次の鰭ヶ崎駅までは一直線の線路で、駅間距離は1kmもないため、直ぐに到着する。ほとんどの人が読めず、間違い読みも出来ない程の超難読駅名である。弘法大師由縁のありがたい地名らしく、近くに古刹もいくつかあるので、後で立ち寄ってみよう。


(鰭ヶ崎駅に到着。ホームに向かいには、保線用トロッコも置かれている。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

鰭ヶ崎駅を発車すると、雑木林が生い茂る大きな丘陵の端が右手に迫る。流山付近は平坦な土地が広がり、線路敷設は容易であったが、この場所だけは難工事であったという。この土手の一部を切り通しにし、現在は更に左手が切り崩されて、戸建ての新興住宅が並んでいる。


(難工事区間であった、鰭ヶ崎の切り通し。距離的には、200m程しかない。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

この切り通しを過ぎると、左手には新興住宅が並び、右手にもう一線分の空き地が続く。ここは、複線化工事の未完成区間ではなく、小金城趾駅の列車交換設備ができる前の列車交換をした区間跡で、長さも約550mある。また、切り通しを抜けた場所には、流山線の西平井変電所が設置されている。


(鰭ヶ崎から平和台間の列車交換区間跡。現在は、保線用の資材などが置かれている。※上り列車最後尾から流山方を撮影。)

大きな右カーブで北西から北に進路を戻し、イトーヨーカドーの屋上看板が大きく見えてくると、平和台駅に到着。結構な人数が下車していく。もともと、赤城駅として開業したが、東京近郊のベッドタウンとして大規模開発された昭和49年(1974年)に、現在の平和台駅に改称した。駅の近くには、イトーヨーカドーのほか、ホームセンターや家電販売などの大型店舗が多数構えており、流山市内最大の商業集積地になっている。

また、線路の西側に流山街道が並走している。流山線の開通当時はなかったそうで、明治時代や昭和5年(1930年)の地図には示されていない。水戸街道(馬橋)から流山へは、江戸川の土手沿いの道路を北上していた。バスが豪快にバウンドする程の悪路であったが、高度成長期の昭和30年後半に現在の県道が整備されたという。


(平和台駅。駅名の由来は、このエリアを開発した不動産会社名からである。)

このまま真っ直ぐに、住宅地の中の線内最短区間距離の600mを走ると、終点の流山駅に到着する。ホーム1面と側線4線を南北に配し、奥に車庫と検修区(車両検査整備工場)が設けられている。


(線内最短区間の平和台から流山間。直線なので、流山駅と留置されている電車も見える。)

(終点の流山駅に到着。)

時刻は午前9時15分。街中の散策にはやや早いので、このまま起点駅の馬橋に折り返し、途中難読駅の鰭ヶ崎に寄った後、この流山に再び来よう。一度、改札係氏にフリー切符を見せ、この折り返しの上り馬橋行「流星号」に乗車する。


(流山駅1番線ホームに降りる。2番線の青い電車は、「流馬号」。)

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流山0915======0926馬橋
列車番号30・上り馬橋行「流星号」
2両編成(ワンマン運転)

(馬橋で折り返し乗車)

馬橋0930======0938鰭ヶ崎
列車番号29・下り流山行・同編成
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ここで、流山線唯一の列車交換可能駅である小金城趾駅を紹介したい。昭和28年(1953年)12月24日に開業、開業当初は交換設備がなく、昭和42年(1967年)に増設された。3両編成の長さの島式ホーム1面2線が、北西・南東の向きに配されている。なお、交換設備の増設時に、馬橋駅寄りから現在の場所に移転している。起点の馬橋駅から2.8km地点、所要時間約5分、千葉県松戸市大金平、海抜5m、終日駅員配置駅になっている。


(流山方からの小金城趾駅ホーム全景。)

(電光式吊り下げ駅名標。丁度、流山線の中間地点になる。)

(出札口と改札口。県営住宅取り壊しの際、ここに移設されたので、取ってつけた感がある。)

駅舎は橋上化している。以前は、ドラッグストアや町医院などが入った鉄筋コンクリートの県営住宅が隣接していたが、取り壊された。下部の階段は新たに取り付けられたものである。こうして見渡すと、かなり殺風景に感じる。なお、反対側の西口は、新坂川を越える高架歩道橋が伸びる。


(小金城趾駅舎。無個性な昭和のプレハブ風の造りになっている。手前の空き地は、県営住宅跡。)

(西口の高架歩道橋上からの列車交換風景と新坂川。ふたり分の幅しかない華奢な造りなので、冬の強風時は揺れて怖い。)

駅名にもなっている小金城趾に寄ってみよう。駅周辺は平坦地であるが、東側に下総台地(しもふさだいち)の西端があり、高さ約15mの台地上に戦国時代の豪族である高城氏の小金城があった。

天文6年(1537年)に竣工、南北600m・東西800mの千葉県下最大規模であったという。高城氏は千葉氏の一族とされ、流山・松戸・柏・我孫子・市川・船橋などを治めた大武将であった。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏側に加勢したため、秀吉重臣の浅野長政に攻められて落城している。現在は宅地化が進んでおり、遺構はほとんど残っていないが、丘陵北西側に歴史公園があり、土塁や堀が復元されている。地元では、字名(あざな)から、大谷口城とも呼ばれている。


(小金城の本城跡。丘陵の南西端、流山線が接する出っ張った場所にあった。)

(小金城趾跡の石碑と歴史解説板。周辺は住宅が取り囲んでおり、城址の雰囲気は全く無い。)

(小金城跡空撮写真。昭和37年の空撮であるが、市街地化が著しいのが判る。※大谷口歴史公園の記念石碑より。左端が流山線、右下が常磐線の線路。)

(つづく)


(※キロポスト)
その路線の起点駅からの距離を示す標識。100m毎に置かれ、500m毎に少し大きなもの、1km毎に柱状の大きなものが置かれている。なお、500m毎の場合、「1/2 1」(1k500mの意味)と分数で縦書き表記する。

※線路の撮影は、運転士の運転の差し支えになるため、上り馬橋行き列車の最後尾から後方の流山方を撮影。

【参考資料】
現地観光歴史案内板
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)

2020年2月25日 記事喪失のため、ブログから再転載。
2024年9月10日 文章修正・校正・一部加筆

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