さて、湊線こと、ひたちなか海浜鉄道の旅を終えたので、水戸の観光散策もしてみよう。湊線の沿線駅ではないが、戦前の昭和4年(1929年)夏から、水戸までの定期直通列車が走っていた(※)。
水戸は東京から北西に約100km、茨城県の県庁所在地になっており、同県中部の那珂川(なかがわ)下流に面した大きな町になっている。一般的には、徳川御三家のひとつの水戸藩、テレビ時代劇でおなじみの水戸黄門「徳川光圀(みつくに)」のお膝元、日本三大名園のひとつ「偕楽園(かいらくえん)」のある町として、よく知られている。
市人口は約27万人(中心市街地は約1万7,000人)と、県庁所在地としては少なく、広大な関東平野に点在する北関東の町の特徴として、人口の割には大きな町並みを形成している。そのため、車の移動が中心になり、町中は人影が疎らで、とても静かな印象がある。本来の旧市街は、那珂川と千波湖(せんばこ/那珂川支流の桜川の一部)の間に挟まれた舌状の河岸台地の上に築かれており、「く」の字を反時計回りに90度倒したような形をしている。近年の土木技術向上と人口増加により、川沿いの低地も宅地化が進んでいる。
地名の由来は単純で、古代から水の出入口を「みと」と呼ぶことからである。縄文時代以前の約3万年前から、人々の生活の痕跡が見られ、大変古い土地柄になっているのは、やはり、水利が良いことからだろう。律令制の下、常陸国(ひたちのくに)になった大化の改新以降(西暦645年/後年の異説もあり)は、この水戸ではなく、現在の石岡(当時は府中と呼ばれた)に国府が置かれていた。平安時代になると、地元豪族が那珂川の川湊と要害の地として開墾を進め、現在の町並みの基礎は、水戸藩の城下が置かれた江戸時代初期にできあったとされる。明治以降は同県の政治と経済の中心地として栄え、戦時中は軍都でもあった。なお、下流河口にある那珂湊(なかみなと)と関連が深く、湊線が開通した頃までは、船による水上交通輸送が盛んであった。
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早速、水戸駅の改札口を通り、町中に出かけてみよう。駅ビルと一体化している近代的な橋上駅になっている。特急を含む全ての列車が停車し、県内一のターミナル駅になっており、東京方面と仙台を結ぶJR常磐線を中核に、小山方面へのJR水戸線、郡山方面のJR水郡線(すいぐんせん)、大洗・鹿島方面の鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の列車が発着する。なお、国鉄末期の昭和59年(1984年)に橋上駅化し、翌年に駅ビルが開業。大手有名チェーン店や地元銘店などのテナントも多数入り、現在はJR東日本系列の運営会社が経営をしている。また、南口も再開発され、平成23年(2011年)に新しい駅ビル「エクセルみなみ」がオープンした。
(水戸駅北口とペデストリアンデッキ。元々は、国鉄駅ではなく、小山からの民営鉄道であった水戸鉄道の終点として、明治22年[1889年]に開業した駅である。後の明治39年[1906年]に国有化された。)
(新しくなった南口のエクセルみなみ。大規模シネマも隣接し、新しい町並みになっている。)
自由通路の北口が表玄関になっており、そのまま、ペデストリアンデッキ(空中歩道)に接続する。その右手の方に、おなじみの水戸御老公一行の等身大の銅像【赤色マーカー】が立つ。光圀公は水戸藩第2代藩主であり、藩初期の名君として、水戸市民の誇りになっている。また、第9代藩主の斉昭(なりあき)公もよく知られており、後期の名君と讃えられている。
(水戸黄門「徳川光圀」と格さん、助さんの銅像。)
徳川家康の孫にあたる光圀公は、水戸徳川家初代頼房(よりふさ)の三男として生まれた。34歳の若さで藩主に就任。領民想いの殿様として善政を尽くし、慕われたという。水戸藩の基礎を固めたと同時に、歴史書の大日本史の編纂に力を入れた。なお、63歳で隠居し、元禄13年(1700年)に没した。諡(おくりな)から、地元では「義公(ぎこう)」と呼ばれている。
また、時代劇では、格さんと助さんも外してはならない脇役であるが、全くの架空上の人物ではなく、実在した人物がモデルになっている。大日本史を編纂する際、光圀公が全国各地に調査に当たらせた専門の臣下であり、藩お抱えの学者でもあった。格さんは安積澹泊(あさかたんぱく/別名・覚兵衛)、助さんは佐々宗淳(ささむねきょ/別名・介三郎)がモデルといわれ、ふたりは15歳差あったという。ふたりとも、大日本史の編纂を総括する藩直轄の史料館の総裁として、重責を全うしている。ちなみに、時代劇の水戸黄門の起こりは、幕末の創作物語を明治時代の講談師が発展させたものである。
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如何にも、「水戸に行ってきました」的な記念撮影にもってこいなので、撮影しておこう。先ずは、光圀公の生誕の地が近くにあるので、観光案内板に従って、ペデストリアンデッキから道路に降りる。
車の往来の多い道路を少し歩き、ビルの間の路地に入ると、黄門神社【鳥居マーカー】という小さな神社がある。寛永5年(1628年)、ここにあった水戸藩重臣の三木仁兵衛之次(みきへいゆきつぐ)の屋敷で生まれ、4歳まで身分を隠し、三木夫妻に養育されたという。なお、幕末の動乱や太平洋戦争末期のアメリカ軍の激しい空爆で、市街地の大部分が焼失している。水戸城をはじめ、現存する歴史的建造物が非常に少ないのは、残念である。
(光圀公生誕の地である三木邸跡。現在は、水戸黄門神社が鎮座する。光圀公由来の地元の常磐神社が管理を行っている。)
一度、水戸駅北口に戻る。水戸はれっきとした元城下町であるので、水戸城址に行ってみよう。那珂川と千波湖に挟まれた台地上でも、一段と小高い場所にあり、かなりの急坂を上って行く。現在、復元城はなく、学校や図書館などが建ち並ぶ文教エリアになっている。そのエリアでも唯一、幕末の混乱や空襲の被害を逃れた弘道館【黄色マーカー】という藩校が残っている。江戸時代末期の天保12年(1841年)、第9代藩主・斉昭公が藩士とその子弟のために設立した。学問のみならず、武道の習得も重視され、全国最大規模であったという。なお、この弘道館で学んでいた藩士「諸生」を中心に諸生党が組織され、水戸藩保守派(幕府派)の本拠地でもあった。
(弘道館正門。藩主が来訪や儀式の時のみ正門が開かれ、通常は横の通用門で出入りをした。扉や柱には、明治元年[1868年]の弘道館戦争の弾痕が残っている。※)
正門脇の通用門受付で、入場券(一般大人200円)を購入。歴史解説のパンフレットも貰う。屋内を含めて、自由に見学していいとのこと。撮影も大丈夫である。パンフレットを見ると、元々の弘道館の敷地は、現在の約3倍(10.5ヘクタール)あったそうで、この正門と校舎にあたる正庁と至善堂のみ創立当時のもので、他は焼失している。天文台、武館や医学館などもあったが、再建されておらず、今は市立三の丸小学校や県立図書館などが建つ。明治になると、県庁舎や学校の仮校舎として使われたという。
敷地内は美しく整備され、正門のすぐ後ろに藩校の校舎にあたる正庁・至善堂がある。華美な装飾を廃し、水戸徳川家の威厳を感じる重厚な武家屋敷になっており、南側の軒下に「游於藝(げいにあそぶ/右読み)」の扁額が掲げられている。論語に由来し、文武両道を極めるという意とのこと。前庭の対試場(たいしじょう)では、藩主も同席し、武術の御前試験が行われた。
(弘道館正庁。)
表門側の大きな式台(玄関)から、靴を脱ぎ、中に入ってみよう。玄関前の大桜は、斉昭公夫人が天皇家から嫁いだ際に下賜され、戦後の大補修時に宮内庁からゆかりの桜を譲って貰った三代目とのこと。また、軒下には、斉昭公揮毫の「弘道館」の扁額が掛かる。
(式台。大きな間口は、籠が直接乗り入れるためで、今で言う車寄せと同じである。見事な枝振りの左近の桜もあり、春は彩りを添える。)
玄関を入ると、来館者の控室である正庁諸役会所が面している。武家屋敷様式であるが、江戸時代末期の太平の世の建築なので、天井は高く、開放的な造りになっている(※)。派手さはなく、力強く、落ち着いた佇まいがとてもいい。床の間の「尊攘(尊皇攘夷の意)」の見事な掛け軸は、斉昭公の命により、藩医で書家であった松延年(まつのべねん)が書いたものという。
(式台正面の正庁諸役会所。)
畳敷きの回廊を進み、正庁南側に行くと、藩主が座した正座の間がある。ここに藩主や重臣達が座り、諸生達の試験や試合を観覧したという。床の間には、弘道館建学の「弘道館記碑」の拓本が掛かる。
(畳敷の回廊を進む。手前には、控えの二の間、三の間が並ぶ。)
(藩主と重臣が在室した正座の間。24畳もあり、対試場に面している。)
正庁の中央部にある十間畳廊下を抜けると、奥座敷のエリアになる。一番奥には、至善堂と控えの間がある。正座の間が公務や儀式を行うための部屋に対し、ここは藩主の休憩部屋であり、諸生達の教室でもあった。最後の第15代将軍・徳川慶喜が幼い頃に学び、大政奉還後に約4ヶ月間謹慎生活をしたという。
背後の大きな拓本は、弘道館建学の精神を記した要石歌碑で、同じ敷地内に本物が鎮座しているとのこと。古典的記述を現代的に直すと、「日本人の道徳心は変わらないものであるから、その道を踏み間違えないこと」との意味が記されているという。また、随所に葵の御紋がちりばめられているのも、将軍家を感じさせる。
(十間畳廊下を抜ける。)
(奥座敷の至善堂と手前の控えの間。正座の間よりも狭く、12畳半である。この至善堂と正庁正座の間は、二重床になっており、防寒・防塵と藩主の暗殺を防ぐ対策が図られている。)
(葵の御紋があしらわれた襖の取手。精巧な金細工が美しい。)
(慶喜公の長持も展示されていた。謹慎生活時に持ち込んだと、伝えられている。)
復元された国老詰所に資料室も併設しており、水戸藩や弘道館の歴史を知ることができる。光圀公が編纂した「大日本史」の一部、4部402巻のうちの前半2部243巻(100冊)が実物展示されている。あまりにも膨大なため、明治維新までに完成せず、徳川家の家業として継続した。完成した明治39年(1906年)まで、延べ248年間かかったというので、驚きである。
(「大日本史」。中国の歴史書に習い、人物を中心に記されているとのこと。)
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水戸藩の高い格式を感じさせる弘道館を後にする。弘道館のある三の丸と二の丸を結ぶ大手橋を渡ると、旧二の丸の文教エリアに入る。その先の本丸であった茨城県立水戸第一高校内には、水戸城の薬医門が保存されているので、行ってみよう。
綺麗に観光整備された道路を歩いて行くと、とても大きな椎木(シイノキ)【緑色マーカー】がある。約400年前の戦国時代からあるとされる巨木で、二株が寄り添うように聳える。幹周りは6.8mと4.1m、樹高約20mもあり、旧城郭内の二の丸にあることから歴史的価値が高く、現在の水戸第二中学校のシンボルにもなっている。県の天然記念物や環境庁刊行の「日本の巨樹・巨木林」にも掲載された。
(二の丸の大シイ。※追加取材時に撮影。)
大シイ横の小さな門を潜ると、那珂川が見える展望台【カメラマーカー】がある。ここが台地の端になるので、一気に崖が下る感じになっている。樹木が生い茂っており、やや展望が悪いが、水戸が舌状台地の上にあることがよく分かる。
(眼下の那珂川を望む。ここから北の方角になる。※追加取材時に撮影。)
(門横の変電盤に描かれた当時の城の地図。水戸駅も水戸城址の一部に建てられたことがわかる。)
メインの大通りに戻る。二の丸と本丸の間には、巨大な空堀があり、その底に水郡線の線路が敷かれている。空堀を跨ぐコンクリート人道橋を渡り、高校の正門に入ると、正面に巨大な薬医門【青色マーカー】がある。水戸城の唯一現存する建築物になっており、県の重要有形文化財になっている。なお、水戸城には天守や石垣はなく、二の丸に御殿や櫓(やぐら)があったが、焼失している。
(二の丸と本丸の間の巨大な空堀と水郡線。)
(高校内にある水戸城薬医門。※追加取材時に撮影。)
薬医門は「大名の城門」と呼ばれ、軒が深く、ゆったりとして威厳のある造りが特徴になっている。二の丸から通じる本丸の表門(橋詰御門)と考えられ、今から約400年前の安土桃山時代の城主であった佐竹氏が建立したと推定されている。なお、城外に保存されていたが、本丸跡の水戸第一高校への復原移築時に切妻屋根を元の茅葺き屋根に変え、銅板葺にしている。
なお、水戸城の歴史は古く、鎌倉幕府の源頼朝から、地頭の馬場氏がこの地を拝領し、その原型を造った。後に江戸氏や佐竹氏が城を攻め、本城にしたという。佐竹氏時代は13年間と短期であったが、城の大規模な改築を行っている。佐竹氏が秋田に移封された後、武田信吉(※)や徳川頼宣(よりのぶ)が一時封じられたが、慶長14年(1609年)に水戸徳川家を置き、以降、約260年の間、11代の藩主、35万石の水戸藩に相成った。
今度は、西の千波湖エリアに行ってみよう。
(つづく)
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(※水戸直通運転)
休止の時期は、あじがうら号が運転される前までらしい。昭和31年(1956年)の時刻表には、1日2往復の直通列車が掲載されている。
(※弘道館戦争)
水戸藩内の天狗党と諸生党の内部抗争。諸生党が水戸藩の実権を握っていたが、戊辰戦争以降は立場が逆転し、天狗党が実権を握っていた。諸生党が入城を拒否されると、この弘道館に立て籠もったが、天狗党に攻撃され敗走。この戦いで、多くの建物や書物が焼失したという。最後は、天狗党と明治新政府軍に追撃され、下総八日市場(現・千葉県匝瑳市/そうさし)の戦いで、諸生党は壊滅した。
(※武家屋敷の天井)
屋内で日本刀を振り上げられないように、天井が低いことが多い。
(※武田信吉)
徳川家康の五男。母方が甲斐武田氏の流れを組むことから。家康の下、武田家を再興したが、21歳の若さで没した。
※旧二の丸周辺と薬医門は追加取材。
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