近江線紀行(10)多賀大社 後編

時刻は16時を過ぎた。一般的に寺社参拝の終わりの時刻であるが、その気配はなく、大勢の参拝客が往来し、社前の土産店はごった返している。さすが、伊勢神宮と双璧をなす大宮である。おそらく、日没1時間前の17時過ぎまで、大丈夫な感じだ。

大鳥居前で一礼し先に進むと、見事な反り具合の神橋「太閤橋」が出迎えてくれる。太閤とは、もちろん、あの豊臣秀吉公のことである。戦国時代末期の天正16年(1588年)、秀吉公が米1万石(※1)を奉納し、母・大政所(おおまんどころ)の病気平癒を祈願した。その莫大な奉納によって、太閤橋、境内の書院や庭園を整備したと伝えられている。

とんでもない反り具合であるので、大抵の参拝者は敬遠している様子だ。もちろん、ここまで来たならば、湊線紀行時の阿字ヶ浦の清浄石よろしく一山越えてみたいと思う(※2)。滑り止めの丸太も横に渡されており、岩場の上り下りのように大股でやっと越えられた。なお、秀吉公が関白から太閤になったのは奉納2年後の1891年であり、後年に太鼓橋に洒落をかけたのであろう。最初は木造の橋であったらしく、江戸幕府の助成を受けて、江戸時代初期の寛永15年(1638年)の大造営時に石橋に造り替えられたと考えられている。毎年4月22日の古例大祭「多賀まつり」では、神輿がこの橋を越えるそうなので、相当驚きだ。


(町の指定文化財にもなっている太閤橋。向こう側右手の2本の枝垂れ桜も、春の風物という。)

太閤橋下を覗くと、静々と清水が流れている。この湖東地域は古来から愛知川や犬上川の利水で農業が盛んであるが、氾濫も多く、反対に少雨時は渇水もしやすい河川であったという。大きな琵琶湖を擁する内陸部であるが、瀬戸内海式気候の東端にあり、年間平均1,600ミリと降水量がやや少ない。地下水位が低く、河川の保水性の悪い扇状地が発達している地形的特徴もある。そのため、多数のため池や用水路が造られ、多賀大社の近くにも高宮池と呼ばれる大きなため池がある。特に、多賀エリアの犬上川流域は水争いが名物といわれた程で、昭和7年(1932年)夏には犠牲者10数人、警察の暴動鎮圧に3日要したとの記録もある程だ。現在は、両河川ともに上流域に大型ダムが建設され、かつての水利問題は解決しているという。

太閤橋を渡ると、神社の表門にあたる御神門が構える。明治8年(1875年)に改修された桧皮葺きの四脚門であるが、左右に続く塀は江戸時代のものという。再礼して門を潜ると、砂利を敷きつめた境内が広がり、奥の木立際に立派な社殿がそびえる。伊勢神宮のように塀や御帳(みとばり)で隠さず、開放的な神社形式のようだ。


(御神門。)

さて、多賀大社の由縁というと、「お伊勢参らば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の子でござる」と、耳にしたことがあるだろう。伊勢神宮の主祭神・天照大神の親神である、男神・伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と、女神・伊佐那美大神(いさなみのおおかみ)の夫婦神を祀っている。八百万の神々の親神、万物一切の生みの親として、日本の祖神にあたるとされる。生命の起源に関わる神であるので、延命長寿・縁結び・厄除けに御利益があるそうだ。一般庶民の信仰としては、室町時代から全国に広まり、戦国時代以降は参詣者が多く訪れるようになった。また、歴代天皇をはじめ、豊臣秀吉や武田信玄など有力武将の信仰も厚かったという。

創基は不明であるが、8世紀に編纂された古事記には「淡海(あはうみ/近江の古名)の多賀にご鎮座」との記述があるそうなので、相当古いらしい。元々は、古来から多賀を本拠とした豪族・犬上氏の祖神社であった説がある。

伝統的な神社建築であるが、昭和初期のもので新しいため、苔むした古びた感じは皆無である。その点は、式年遷宮で定期的に建て替える伊勢神宮と似た印象がある。


(多賀大社。延喜式にも「多何(多賀の古名)ノ神ノ社二座」との記述があるので、主祭神は古来から二柱である。※3)

(多賀大社拝殿近景。段々状の桧皮葺き屋根が美しい。近代神社建築として、最高の様式美と評されている。なお、神楽殿は別棟ではなく、幣殿と拝殿の間に挟まれている。)

(多賀大社本殿。昭和5年[1930年]に新築され、旧本殿は豊郷町の白山神社に移築されている。)

古代よりおわす神社であるので、神仏習合がかなり進んでいたという。明治政府の国家神道化による神仏分離により、伝統的な建築様式が損なわれたというが、大正時代に大規模な再造営が計画され、昭和初めに完成したという。現在の多賀大社の主要建築物は意外に新しく、この時期に整備されたものが多い。

先に参拝しておこう。大勢の参拝者がおり、列に並んで順に参拝する。参拝後に拝殿の中を覗くと、床から欄間まである巨大なしゃもじが鎮座しており、何かと驚く。「お多賀しゃくし」と呼ばれ、奈良時代初期の女帝・元正天皇の病気平癒を祈願した際、当時の神主が強飯を炊き、垂の木で作ったしゃもじを献上した。そのおかげか、たちまち病状が良くなったという。以来、無病息災の縁起物として名物になっている。なお、料理に使う「お玉じゃくし」や蛙の子「おたまじゃくし」も形が似ているので、これが転訛したものとされる。意外にも、身近にあるものが、多賀大社の由縁とは面白い。


(初穂祈祷に使われるお多賀しゃくし。※拝殿内は撮影禁止のため、ご容赦願いたい。)

(杓子絵馬もたくさん奉納されていた。)

拝殿の東横には、石柱に囲われ、小さな白石がたくさん投じられた寿命石がある。平安の頃、奈良東大寺の再建を朝廷から任ぜられた高僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が、多賀大社に参詣した。当時61歳の高齢であった重源は長寿祈願をし、延命20年の御神託を得て、大喜びで帰ったという。無事に東大寺再建を果たし、御礼参りをした後にこの石に腰掛けたが、そのまま眠るように永眠したと伝えられている。今は、長寿延命や諸願成就の神石として、白石に祈願を書いて奉納するとあやかれるいう。


(寿命石。白石は神殿より舞い降りた柏の一葉に、漢字で「20年」の意味の御神託が記されていた由来による。)

境内奥には、書院と秀吉由来の庭園などもあるが、見学時間は16時までなので残念である。多賀名物の「糸切餅」を試食したいので、早めに切り上げよう。しかし、参道を駅方向に「本家ひしや」の前まで戻ったのはいいものの、残念ながら今日はもう閉店であった。社前にも糸切餅を試食できる店があるので引き返す。大鳥居正面に茅葺きの大きな和菓子土産店「莚寿堂本店(えんじゅどうほんてん)」があり、店内ベンチで食べられるそうなので、ここにしよう。


(大鳥居前に軒を並べる土産店。手前の茅葺屋根が、莚寿堂本店。)

広い店内奥のえんじ布のベンチに腰掛け、糸切餅を注文する。何故か、男性客はあまりおらず、周りは若い女性グループが多いので、少し恥ずかしい。出来ているのを持ってくるので、すぐに出てきた。一口食べてみると、餅はとても柔らかく、餡もあっさりとしている。「お菓子の刺し身」と銘打つほど、上品な京風和菓子である。伊勢の赤福が、餡モリモリの田舎饅頭的であるのと正反対だ。

白地に青・赤・青の三本線は美しいが、元々は鎌倉時代中期の元寇襲来が由縁であり、蒙古(モンゴル)軍の旗であったという。この大国難の際、多賀大社では蒙古旗を断ち切って埋め、戦勝祈願した。それを門前町の人達が、餅に置き換えて名物にしたらしい。糸切りであるのは、忌避される刃物を使わないことと、多賀大社の延命長寿をかけているとされる。多賀大社近隣の参拝者は、厄除け縁起物として、近所縁者に配る風習があるという。


(莚寿堂本店の糸切餅。店内試食は、2個税込み200円。※価格は取材時。)

この莚寿堂本店も明治12年(1879年)創業の老舗で、歴代女将が切り盛りをしており、現在6代目とのこと。座敷の一角には、昔の店舗の写真も飾られていた。


(昭和15年[1940年]頃の莚寿堂本店。元々は、田中商店の屋号であった。昭和後期に現在の店構えになったという。)

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多賀大社前1725======1731米原
列車番号4324 普通 高宮行き
800形第6編成(←1806+806)2両編成・ワンマン運転

高宮1735======1744彦根
列車番号9294 上り 普通 高宮行き
800形第3編成(←1803+803)2両編成・ワンマン運転
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さて、お多賀さん参りと糸切餅を食し、1日目はほぼ予定通りに終わった。徐々に斜陽になっているので、そろそろ今夜の宿泊地である米原に戻ろう。駅前の某大手チェーン系ジネスホテルを予約してある。

多賀大社前駅に戻り、17時25分発の高宮行き電車に乗車。帰りの観光客などで30人程乗車している。高宮に到着すると、ほとんど全員が彦根・米原方面に乗り換える。乗り換え時間4分で本線上り彦根行きに接続する。祝日でありながら、17時台のラッシュ時間帯であるので、2両編成の車内は100人程の乗客で立ち席もあり、少し混雑している。地元客や高校生たちが多い印象だ。

17時44分に彦根駅に定刻到着。ほとんどの乗客は彦根までの利用であったらしく、改札口を次々に出ていく。今度の上り列車は、この到着した列車がそのまま米原行きになるとのことで、43分も待合がある。本線上ホームにそのまま列車は停車したままなので、実質、「ドカ停」(※3)になり、とても懐かしい。夕涼みも兼ね、ホームに出て見学してみよう。


(終点の彦根駅2番線に到着。そのまま、米原行きになる。)

近江鉄道の彦根駅は、愛知川まで初開業した時の起点駅であり、現在も駅隣に本社を構えている。明治31年(1898年)6月11日開業、現在の起点駅の米原から5.8キロメートル地点、4駅目(開業時は起点駅)、所要時間約12分、彦根市古沢町、標高88メートル、社員配置の終日有人駅である。西に国宝彦根城、東に佐和山と挟まれた狭い場所にあり、構内はほぼ南北に配している。

彦根駅の島式ホームから山側を望むと、何本かの電留線と車両の点検修理をする検修区(車両工場)が奥に続く。近江鉄道の車体基本色は黄色と青色であるが、広告ラッピング車も多い。経営状態の苦しい地方鉄道では大きな収入源であるので、致し方なかろう。派手であるが、見方を変えれば、バリエーションが楽しめるといえる。


(近江鉄道の看板広告車である800形伊藤園号と、奥の800形ダイドー号。伊藤園号の後ろの国鉄101形によく似た黄色の電車は、800形の亜種820形電車。検修区の建物も見える。)

下り八日市方には、名物の220形226号電車が見える。近年の電車は床下機器が多く、原則2両単位で機器を分散搭載している場合が多いが、1両に詰め込んだ単行電車は今では珍しい。なおかつ、中古再生部品をかき集め、自社工場で新造したというハンドメイド的な電車である。前回の信楽高原鉄道(旧・国鉄信楽線)の訪問時に八日市駅ホームで見たが、現在は引退し、貨車牽引の機関車代わりになっているようだ。

後ろのチ10形は、クレーン付きレール運搬用貨車で、自重18.23トン・荷重6.25トンになる。廃車になった元・西武鉄道電車の台枠以下の部分を改造流用しており、貨車でありながら、空気ばね台車と電気指令式ブレーキであるのが珍しい。なお、220形226号電車も同じく電気指令式ブレーキなので、運行に問題はない。交換用レールの積み降ろしは五箇荘駅の元砂利引込線で行っているとのこと。


(関東人にもお馴染みライオンズカラーの近江鉄道220形226号電車と貨車チ10形11・12。)

彦根駅は開業時の起点であるが、島式ホーム1面2線の小さな駅になっており、近江鉄道専用の駅舎はない。官営鉄道(現・JR)の開業9年後に近江鉄道が開業したため、当初から乗り入れ線として、専用駅舎はなかった可能性がある。現在は、連絡高架コンコースから階段を下ったホーム上に、プレハブ風の小さな駅員詰所と鉄パイプの改札口を設ける。駅員が終日勤務しており、記念に普通入場券も購入しておこう。


(彦根駅改札口と近江鉄道専用ホーム。元々は中間改札口であったという。)

(彦根駅普通入場券。鉄道会社名もない簡易なゴム駅名押印硬券である。※宿泊先で撮影。)

18時08分発の下り近江八幡行きが列車交換した後、そろそろ米原行きの発車時刻である。やはり、彦根から米原間はJRの方が速くて運賃も安く、乗客は自分を含めて9人しかいない。佐和山を潜って中山道と北国街道に沿って進むうちに、だいぶ夕暮れになってきた。定刻の18時38分に終点米原に到着。途中駅で地元客の乗降があったが、米原までの乗車客は5人だけであった。この時間は駅員が不在のため、運転士に1日フリーきっぷを見せて下車する。夕食の手配をして、駅前ホテルにチェクインしよう。暑さと初日の気合で、少し足がクタクタだ。風呂にゆっくり浸かって、明日に備えたい。


(起点の米原駅に到着。1日目は無事に旅程を終えた。)

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彦根1827======1838米原
列車番号2110 上り 普通 米原行き
800形第3編成(←1803+803)2両編成・ワンマン運転
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(つづく/1日目完)

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(※1)1石は約150キログラム。成人ひとりが1年間に食べる米の量になる。1万石は現在の約7〜8億円に相当。
(※2)茨城県東部のひたちなか海浜鉄道編での海岸歩きの際、海食棚の岩場を越えて見学した。
(※3)延喜式は平安時代中期に醍醐天皇の命により編纂された律令の施行細則。その中に神名帳があり、奈良時代以降の官社の全国一覧が記されている。なお、官社ではない神社は記されていない。官社は朝廷公認の有力神社で、祭事などに朝廷から布・武具・神酒・神饌(しんせん/神の食事)などが奉納された。中には反朝廷の神社もあったという(もちろん掲載されていない)。
(※4)列車交換待ちや時間調節のため、駅ホームに長時間停車することを指す乗り鉄趣味仲間の通称。国鉄時代は1時間以上停車することもあり、途中下車をして、駅前銭湯に行ったり、食堂で食事したりすることもできた。

【歴史参考資料】
現地観光歴史案内板
多賀大社参拝者向け公式パンフレット「お多賀さん」(多賀大社社務所発行・発行年不明/現地で入手)

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