天浜線紀行(17)天竜二俣観光 その2

二俣本町駅の近くの鳥羽山公園【赤色マーカー】に行ってみよう。天竜川が逆コの字に大蛇行した内側に、標高108mの独立した鳥羽山がある。東西は中央が括れたひょうたん形になっていて、川の近くまで迫り出している。この特徴ある地形から、要害として好立地であり、戦国時代末期に城が建てられていた。

二俣本町駅前から、旧秋葉街道である本町公民館前の広い道を南西に走り、約400m先の左手にある踏切を渡って、その先の急坂を登る。ここは、暖かい場所の為か、坂の桜並木が咲いている。


(踏切と鳥羽山公園に上がる坂道。)

10分程、この急坂を登ると、鳥羽山公園の駐車場に到着。日頃の運動不足もあり、これだけで息切れがするので、日頃から更に鍛えないと感じる所だ。また、桜の名所らしいが、山の上の方は、まだ咲いていない。上の広場の本丸跡は、広大な公園として整備されており、かつての城の面影は全く無い。


(鳥羽山公園案内板。)

(駐車場から見た本丸跡。)

古来からの交通の要衝地であった天竜二俣は、軍事的にも重要な土地として、戦国時代には、今川家・徳川家・武田家の熾烈な攻防の舞台になっている。かつて、三つの城があったといわれ、「二俣三城」の別名もある。

現在の天竜区役所付近に、笹岡古城と呼ばれる平城(城館)があったとされ、これが最も古い城になる。天竜川に近い鳥羽山城と二俣城のふたつの山城は、戦国時代の永禄3年(1560年)以後の築城と伝えられている。天正3年(1575年)、徳川家康が武田氏下の二俣城を攻略する際、幾つかの砦や城を作って包囲し、本陣を置いたのがこの鳥羽山城である。二俣城奪還後は、徳川家の城として、天正18年(1590年)に豊臣配下の堀尾家が入城し、大改修を経て、鳥羽山城を完成させた。なお、もうひとつの二俣城は、この北東約500m先の城山と呼ばれる山中にある。また、このふたつの城は、同等の規模と建物を擁したそうで、双子城の様であったという。しかし、太平な世の中の江戸時代になると、城の必要性も無くなり、共に廃城になっている。

本丸西奥の見晴らし展望台から眺めると、かなり急な川崖で、木々が多い為に川面は余り見えない。ロング滑り台が設置されている為、子連れの母親達が大勢来ており、子供達の元気なはしゃぎ声が上がっている。なお、此処から二俣城に行けるが、途中の道が狭く、自転車を牽いては無理そうである。


(鳥羽山公園見晴らし展望台からの天竜川。)

自転車を駐めておいた駐車場に戻ってきた。木立の間から、天浜線の大きな鉄橋が見えるので、近くまで行ってみよう。


(木立の間から見える大鉄橋。)

急坂を再び下り、踏切先の道を左折に行くと、国道である鳥羽山直下のトンネルを通る。トンネルを出て、東側の住宅地の路地に入り、大堤防【カメラマーカー】まで行く。

大堤防の上から、天竜川を眺めると、水量は莫大で、雄大に流れる大河であるのを実感する。向こうの下流に見える赤い橋は、飛龍大橋になる。現在の二俣川の合流地点は、すぐ下流にあるが、木々が生い茂った河岸を切り通してあるので、この場所からは見えない。

なお、江戸時代末期までは、二俣本町駅近くの二俣川橋梁付近から、二俣川は西に流れ、二俣城と鳥羽山城の間を流れて、東から西に天竜川に注いでいた。しかし、増水時になると、天竜川からの逆流に拠る水害が甚大な為、二俣村名主・袴田善長が多額の私財を投じて、二俣川の付け替え工事(瀬替え)を行い、北から南に注ぐ現在の合流地点になったという。元の合流地点には、堤防が築かれている。


(大堤防から天竜川下流と飛龍大橋を望む。)

天浜線専用の天竜川橋梁は、十連の橋桁が連なる大鉄橋になっている。北側の天竜二俣方本流上は三連トラス橋、南側の新所原方は七連デッキガーター橋で、トラスのスパンは62.4mあり、水面からの高さは約15mになる。トラス部の橋脚上部は二本柱タイプで、昭和初期の建築としては、珍しいかもしれない。


(大堤防から天竜川橋梁。)

(国道歩道橋上から三連トラス部。)

(国道歩道橋上から七連デッキガーター部。)

◆国登録有形文化財リスト「天竜浜名湖鉄道天竜川橋梁」◆

所在地 静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島485-2、554番地
登録日 平成23年(2011年)1月26日
登録番号 22-0160
年代 昭和15年(1940年)
トラス部は昭和11年(1936年)、東京石川島造船所製。桁長62.4m。
ガーター部は昭和10年(1935年)、横河橋梁製作所東京工場製で、
八幡製鉄所と日本鋼管株式会社の鋼材を使用。
構造形式 鋼製三連トラス及び鋼製七連桁橋、橋長403m、橋台及び橋脚付
特記 二俣本町駅から1km先にある天竜川に、南北に架かる。
起点駅の掛川から27.9km地点になる。
橋長403mの単線仕様、北側の三連トラス橋と
南側の鋼製七連桁橋からなる。橋台及び橋脚は鉄筋コンクリート造。
天竜浜名湖鉄道における最長の橋梁で、唯一のトラス橋である。

※文化庁公式HPから抜粋、編集。

天浜線に並行して架橋している、国道橋横に併設されている歩道橋を渡ってみよう。しかし、幅は約1.5mしかなく、高さは5階建てビル相当、足下の莫大な水量に圧倒され、足が震えるほどである。今日は風も強くて揺れ、高い場所が苦手なので、渡るのも恐る恐るだ。

上流側に並行して設置してある、この国道152号線の銀色トラス橋【黄色マーカー】も立派である。鹿島橋(かじまばし)と名付けられ、戦中の昭和12年(1937年)に架橋。横の歩道橋は昭和43年(1968年)に追加設置されたものである。全長は220mあり、天竜川河口から14番目の橋になる。


(国道橋の鹿島橋。右側の小橋が、今渡ってきた歩道橋。)

実は、国内に現存する戦前最大のトラス橋になっている。国内初のカンチレバートラス(ゲルバートラス)橋といわれ、大きな橋脚が左岸・右岸側に各1本あるが、中央部のトラスに橋脚が無く、両端のトラス部に支持されている。その為、両端側は上部構造が複雑で吊り上がりがあり、力強い印象になっている。その横の歩道橋は、シンプルな吊り鉄橋になっており、国道橋の橋脚を共用している。

なお、橋の北詰近くには、田代家【白色マーカー】という旧家がある。天正8年(1580年)、徳川家康から御朱印を与えられ、天竜川の水運を取り仕切っていた筏問屋で、ここの名主と渡船場も管理していた。今でも、大きな旧家と立派な庭園が残っているという(土日祝日のみの公開になり、今回は平日の為にパス)。

暫く、このふたつの大鉄橋を眺めた後、今度は、駅の女性駅員氏に勧められた旧市街地に行ってみよう。鳥羽山城下のトンネルを戻り、北に向かって走る。

自転車を漕ぎ、約10分で到着。町を南北に走る秋葉街道に並行した、一番西側の静かな通りに面しており、特に古い町並みが残っているので、城下町時代からの中心地だろう。通りの西側の山中には、二俣城【赤色マーカー】があるが、石垣が残るだけになっている。この通り沿いには、信康山清瀧寺(のぶやすさん・せいりゅうじ)【万字マーカー】があり、急坂を少し登った町が見渡せる小高い場所に、小さな山門と本堂が構えている。京都知恩院に属する浄土宗の末寺で、御本尊は阿弥陀如来との事。


(清瀧寺山門。)

(清瀧寺本堂。人気は少なく、緑に囲まれた山寺になっている。本堂の奥には、信康の霊を供養する信康廟がある。※墓所は撮影しない方針の為、ご容赦願いたい。)

自刃した嫡男の為に徳川家康が建立し、寺名を付けた由緒ある寺院である。天正7年(1579年)9月、徳川家康の嫡男(跡取り/長男)の信康と母の築山殿は、当時、家康が仕えていた織田信長から甲斐武田家との内通(スパイ)と謀反の疑いをかけられた。21歳という若さで、信康が二俣城内で自刃したあの事件である。信長の長女・徳姫が信康に嫁いでいたが、姑の築山殿と仲が悪く、信康とも不仲になった為、不仲な件と内通(スパイ)をしていると、父・信長に伝えてしまったのが原因とされている。また、信長のもとに弁明に参上した家康の重臣・酒井忠次も、庇いきれなかったという。

これは、徳川家が織田家の宿敵であった駿河今川家の血筋を汲む事や、織田家に使える前に武田家と同盟関係があった事。信長に嫡男・信忠がおり、若いながら名武将の誉が高かった信康を警戒していた為ともいわれている。家康も嫡男がこのような処遇になり、絶句したであろう。

生きながらえていたならば、江戸幕府二代目将軍になっていた可能性も高い。毎年秋には、「信康まつり」が催されて、戦国時代の仮装行列などが行われ、非業の死を遂げた信康を偲んでいる。

(つづく)


2021年9月15日 ブログから転載・文章修正・校正。

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