近江線紀行(9)多賀大社 前編

多賀大社前駅内に併設している駅前観光案内所で、散策マップを貰ってきた。駅からは少し離れており、「表参道絵馬通り」と愛称が名付けられた参道を約700メートル・徒歩10分ほど歩く。途中には、多くの仲見世が建ち並んでいる様子なので、ゆっくり見ながら行こう。

巨大な二の鳥居の扁額を見上げ、一礼をして潜る。高さは10.6メートルもあるという。タイル模様が美しい石畳道を進み、小さな川を渡って左に折れると、京風の落ち着いた仲見世が続いている。大古刹参道の仲見世というと、参拝客相手の飲食店や土産物屋ばかりの印象があるが、ここは平地の町中の参道であるので、地元住民の生活に供する銀行・魚屋・薬店・美容院なども点在している。少し生活感のある雰囲気も、肩肘張らない感じがして良い。


(二の鳥居先の石畳参道。ゴールデンウィークの祝日のため、日の丸も各所で掲げられていた。)

左折してすぐ左手には、立派なお堂に納まった桜町延命地蔵尊が鎮座している。設置されている由緒板を読んでみると、この桜町周辺は古くから地蔵信仰が盛んで、多賀大社の参拝者も立ち寄っていたという。現存するこのお堂は、江戸時代末期の天保年間(1830〜1840年)に地元有力者・北国屋市兵衛が、長浜市にある足利尊氏由縁の有名寺院・木之本地蔵院(きのもとじぞういん/正式寺名は浄信寺)から分請し、このお堂と境内を整備したとある。境内はとても小綺麗で、地元住民がまめに整備しているのだろう。

堂前右手には、西方極楽浄土からやってくる来迎三尊仏を彫り込んだ身の丈ほどの石仏も置かれている。阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩を主に、地蔵菩薩他25の菩薩を従えて雲に乗り、音楽を奏でながら西方からやって来て、極楽浄土に導く姿を表現する。信者が臨終を迎える際、枕元に置く習わしがあり、一般的には絹本画(けんぽんが)が多い。立体造形物である仏像や石仏は珍しいといえる。


(桜町延命地蔵尊。)

(境内左手には、地元信者が奉納した地蔵を納めた小堂もある。)

参拝して、少し開いている堂内を覗いてみる。観音扉奥に納まった地蔵菩薩は、菊の御紋のある金襴布に囲まれ、優しげな小さな仏である(※1)。左手に閻魔大魔王、右手に奪衣婆(三途川婆)と千手観音菩薩の像もある。人の苦しみを救うとされる地蔵菩薩は民衆の信仰が厚く、地獄思想との関連性から閻魔信仰と習合したのであろう。千手観音は地獄苦しみを救うためというので、おおらかで慈悲深い町民達の信仰心の現れと感じる。


(金襴布に囲まれた本尊の延命地蔵と左手の閻魔大王。大王の左右には、罪の記録をし、報告をする倶生神・司録神・浄玻璃[じょうはり]を配し、地獄の場面を表している。)

(右手の千手観音菩薩と奪衣婆。荘厳華麗ではなく、ほのぼのとした愛嬌の庶民的な仏像である。手前に置かれた、信仰心の重さを計っている天秤がおもしろい。信者の奉納品であろう。)

この地蔵尊から少し進んだ辻まで歩くと、左手に小さな石の道標と古い商家が建っている。この多賀大社界隈の名物和菓子「糸切餅」の老舗のひとつ、「本家ひしや」である。青・赤・青のラインが入った餡入り角白餅は、伊勢神宮の赤餅と双璧なので存じている方も多いだろう。せっかくなので、帰りに寄ってみたい。


(車がやっとすれ違い出来そうな参道を進む。人通りはやや少ない。)

(街道辻に建つ本家ひしや。明治中頃の創業で、手作りの伝統的製造法を固守し、今でも三味線の糸で餅を手切れしているという。※2)

ひしやを通り過ぎ、参道に面した墓地の先に道が右に少し折れた場所がある。ここの薬局の角には大きな道標が建っている。右は本社前(多賀大社のこと)、左は京道とあり、位置関係から京道は駅方面から歩いた来た表参道のことで、高宮の中山道へつながるという意味と考えられる。道標の西面には、明治19年(1886年)と大きく刻印され、多賀線開通の少し前のものである。由縁は不明であるが、地元有志か信徒、もしくは公官庁が設置したものであろう。


(小川長寿堂角の大道標。石の道標は江戸時代以前の印象があるが、交通案内標識のひとつとして明治から大正時代のものも多少見られる。)

ここからは、視界が開けてまっすぐな参道になる。途中には大旅館らしい建物もあり、往年の賑いは今以上であったと感じられる。この国有形登録文化財になっている割烹旅館「かめや(亀屋)」は、江戸時代から営んでいた割烹旅館で、大正13年(1924年)に建てられた木造二階建てという。一階に広い土間、二階には中廊下を挟んだ座敷(客間)を配し、母屋の破風と玄関のせり出し屋根が二重にずれているのが特徴で、寺社のような重厚感がある。

また、交差点斜め向かいの赤壁の木造建築も、同じ江戸時代創業・明治10年(1877年)築の老舗割烹旅館「かぎ楼」とのこと。国登録有形文化財に指定された三階建て楼閣が奥にそびえる。この周辺は遠方からの参詣客をもてなす宿泊エリアであったらしく、楼閣は町のランドマークであった。こちらは現役の旅館である。


(小川長寿堂先の絵馬通り旅館エリア。左手の赤壁の建物が、割烹旅館「かぎ楼」。)

(割烹旅館かめや。住んでいる気配はあるが、営業はしていない様子である。)

昼食を抜いているため、かなり空腹になってきた。自身珍しいが、参拝前に腹ごしらえとしよう。参道沿いにある食事処「不二家」に入る。遅い時間帯なので空いていると思いきや、大方の席が埋まり混雑している。しかし、ひとりなのですぐに空席が出来、案内された。


(食事処「不二家」。)

多賀名物といえば先の糸切餅が最も有名であるが、鍋焼きうどんも名物になっている。大正3年(1914年)の多賀線開通以前、遠方から参詣した参拝者に夫婦鍋(蓋と鍋)で煮込み、もてなした名残という。かつては、「なべじり焼き」(なべじりは、夫婦世帯の意味)と呼ばれ、今も周辺の食事処で提供されているとのこと。

もちろん、店の看板メニューの鍋焼きうどんにしよう。信楽焼の土鍋でひとつずつ作るそうなので、多少時間がかかるとのこと。10分位待っていると、「おまちどうさま」と出てきた。かなりアツアツなので、小椀に取って食べる。今日はとても暑いが、店内は冷房がガンガン効き涼しいので、うどんの熱さはあまり気にならない。単なる家庭風の鍋焼きかと思いきや、一口食べてみるとすごく美味い。出汁がよく利いた関西風の味付けで、しょっぱすぎないのがいい感じだ。具は、海老・かしわ(関西エリアでは鶏肉を指す)・ねぎ・蒲鉾などがバランス良く入っている。


(多賀名物鍋焼きうどん。海老入り税込み950円。国産牛肉入り1,000円もある。他に、蕎麦、中華そば、カレー、丼物やセットメニューなどもある。※価格は取材当時。)

この不二家はガイドなどでも紹介される有名店でもある。壁面の一角には、俳優の石田純一氏のサイン色紙が展示され、昭和62年(1987年)冬に有名テレビ旅行番組「いい旅・夢気分」のロケで来店したと記されている。他にも、来店年度は不明であるが、中曽根元首相のサイン色紙もある。

また、江戸時代末期から明治初めにかけて、時代を駆け抜けた女性・村山たか女(別名・村山加寿江/かずえ)の生家だという。店内外には解説板や新聞切り抜き記事がいくつも掲げられているので、歴史好きも多く訪れるのであろう。

若い人はあまり知らないと思うが、NHK大河ドラマ第1作目「花の生涯」(1963年制作/舟橋聖一原作)や小説のヒロインとして取り上げられたこともあるので、年配の方々にはよくご存知かと思う。江戸時代末、彦根藩主・幕府大老であった井伊直弼の妾、幕府側の女スパイであったとも伝えられている。世間一般では、「たか女は美人」が相場になっているが、本当であったらしい。若い頃に京都祇園で芸姑になり、有名某寺院住職の隠し妻でもあったという。生まれ故郷の多賀に帰省した際に出会い、直弼を内助した。しかし、桜田門外の変(1860年)の直弼暗殺後は尊王攘夷派に捕縛され、京都三条大橋で三日三晩生き晒しにされたが、御所由縁の室鏡寺(京都百々町)の尼僧に助けられて生き延びたという(※3)。のち、京都金福寺(こんぷくじ/京都左京区)で出家して尼僧「妙寿院」と名乗り、直弼の菩提を生涯弔った。墓所は金福寺の本寺である圓光寺(同区)にある。

時計を見ると、もう16時前になっている。腹ごしらえが済んだところで、早々と参拝しよう。少し斜陽になってきているが、鳥居前には大勢の人たちが往来していた。


(多賀大社大鳥居前。)

(つづく)

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(※1)厳密には、大日如来や阿弥陀如来などの如来が仏(ブッダ)である。菩薩はブッダの教えを学ぶ高僧(弟子)であり、ブッダと同じ法力を会得し、限りなくブッダに近い存在とされる。日本では、如来と同様に本尊として信仰される場合も多い。ブッダの若い頃をモデルとしているため、若々しく美しい姿形の仏像であるのが特徴といえる。
(※2)2023年1月に廃業した模様。
(※3)たか女は公家の血を引くともいわれているので、皇族由縁の寺の尼僧に助けられたのも、その縁故もあるかもしれない。父が多賀大社の別当(総括する長官)で、京都尊勝院の院主で皇室の一族であった。

【歴史参考資料】
現地観光歴史案内板
多賀大社参拝者向け公式パンフレット「お多賀さん」(多賀大社社務所発行・発行年不明/現地で入手)

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